13 前門の他人、後門の同居人@
「……」

 大丈夫、もう少しの辛抱。あと少しで角を曲がったら、前みたいに上手く撒ける。
 あと……3…2…1

「!」

 息をしないと、という考えは一旦置いておく。私の日々の安泰を奪われるわけにはいかないんだ、そんなこと考える時間なんてない。
 目いっぱい走り、また同じ方向に曲がり、1ブロック分1周。男の足音が段々遠ざかり、完全に聞こえなくなるのを待ってから、私は急いで帰路に沿って走った。

「綾瀬さん、おかえりなさ……」
「窓とドアの鍵、全部確認して!」
「は、はい?」

 工藤邸の玄関扉を荒々しく閉めるや否や、出迎えてくれた沖矢さんを突っかえすように命令する。状況を飲み込めないままの沖矢さんが2階へ上がると私もスリッパを履き、1階の鍵が全て閉まっていることを全室で確認する。
 すぐに2階から沖矢さんが降り、戸締りは問題ないことを聞いたところでようやく長い息を吐くことが出来、心拍数が平常に戻り始めた。

「どうされましたか?随分と慌てていたみたいですが」
「さ、最近、近所で泥棒が出たってお客さんが話してたから、なんか心配に……」
「僕がいる家に“泥棒”ですか」
「とにかく、家にいるときも気を付けて……あ、ご飯用意してある?」
「ええ、これから食べようかと」
「分かった、着替えたらすぐ行く」

 自分の部屋に戻り、汗が染み込んだ衣類を脱ぎ捨てる。着替えないでそのまま、ベッドに倒れ込んだ。
 ……そのまま意識を手放すかもしれない、沖矢さんが台所で私との食事を待ってるのに。でもごめんね、ちょっと今は休みたいんだ、動けないんだ。

「……なんで」

 なんでこんな状況になったのか。それは2週間前を境に、始まってしまった。



「こないだはありがと、また急にシフト交代お願いしちゃって」
「暇だったから全然平気だよ。それより具合は?」
「大丈夫」

 4月になり、入学したての学生、その他学歴諸々の人達がバイト先に入るようになった。新しい人が入った代わりに、今まで一緒に勤めていた何人かが辞めたのは寂しいけど、先に進む為だし仕方ないんだよね。
 ここのパン屋は、他のお店に比べて営業時間が後ろにずれている。店長の奥さんが言うには、仕事上がりにパン屋に行きたかったのに閉まっていて辛かったから、閉店時刻をもう少し後にしてやりたいと言ったんだとか。ちなみに店長は、脱サラしてパン屋に転職したらしい。なかなか行動的な人だ。
 研修中の新人のフォローもやらないといけないから、バイトの時間は必然的に去年より多くなる。なにかと大変だけど、給料の払いも良いし何より接客用の制服が可愛いから、かれこれ1年間ここでバイトを継続中。
 その制服も相まって、バイトの子が何割増にもよく見えるから、その子目当てでお客さんが来ることもなくはない。当人が気づいているかは知らないけど。

「いらっしゃいませー」

 まあ、パン屋自体の常連がいるっていうのは確かなんだよね。リピーターになってくれるのは、お店としてはありがたい話。

「最近どっか行った?」
「行ったけど前からあるとこ」
「ポアロ?」
「うん、たまに上の階のおっさん来てるらしいよ。なんか探偵とか……」
「ちょっとうさんくさいねえ」

 バッグヤードでお茶を飲みながら他のバイトやパートの人と休憩中。会話の内容は同業者の話だったり自分事だったり、常連客の話だったりとにかく話題に尽きることはない。
 そんな中、4月から入った高1の女の子――エンちゃんが私に尋ねてきた。

「ねえ、莉乃さん。常連客の顔って分かります?」
「うん、ぼちぼちね」
「最近、あたしのシフトの時によく来るリーマンがいるんですよー。莉乃さんとあたし、よくシフト被るし知ってるかなあって」
「何か特徴とかないの?」
「なんか、時計にいっぱい針ついてた!」
「痛々しいね」
「エンちゃん、もうちょっと情報ないと武器になっちゃうよ」

 軽く聞き流していたその子の台詞。それを後で思い出してしまうことを、この時の私は知らなかった。

「お先失礼しまーす……」

 お店が閉店した後、レシートの確認と清掃を済ませ、あとは次の日の仕込みをする2、3名のスタッフのみ。そんな時間に私はバイトを上がり、帰り道を歩こうとした。
 営業時間が22時までだから、帰りは他のパン屋よりもかなり遅い方だ。こんな時間に上がる時は、前だったら夕飯作るの諦めてたけど、今は沖矢さんが家にいる。遅くなる時は沖矢さんが基本的に作ってくれている、それはとてもありがたいことだ。
 ……ただ、作り置きしやすいからって理由で、煮込み料理ばっかり教えちゃったような。多分、今日も肉じゃがかクリームシチューだ。そろそろ鍋以外の料理、また教えなきゃなあ。

「……?」

 店の前で立っているスーツを着た男の人が1人いた。知らない顔……もしかして、まだ残ってるスタッフの誰かを待ってるのかな。

「あれ?」

 次のシフトの日、その人はまた店に現れた、今度は店内でだ。
 トレイにパンを何種類も乗せて、私が対応中のレジの最後尾に並び、やがてその人の前まで会計が進んでいく。彼のトレイに積むように置かれたパンの価格をひたすらレジに打ち込んでいく。それにしてもこの人、随分と買っていく。こんなに買っても、腐る前に食べきれるか……――

「……」
「……」

 ふと男の人を見上げると、彼は私をじっと見つめていた。何か不満があるのかな、でも手はちゃんと消毒してるし問題ないはず。

「レシートになります……」

 レシートを受け取る男の手を今度は逆に私がじっと見る。左手首に高そうな腕時計を付けていた。時計の他に小さな文字盤が3つもある。ストップウォッチっぽい……確か、クロノグラフとかいうやつ……あれ、なんか最近この話聞いたような。

「あ、莉乃さーん!今日はシフト早かったんですね」
「ねえ、エンちゃん。前話してた常連客の話なんだけど」
「はい?」
「その人の時計って、小さい時計みたいなのもいっぱいあった?」
「そうですよ?ホラ、今お店出てった人!」

 夜のシフトで例の話をしてきたエンちゃんがシフトに入ったところで、一応確認してみる。彼女は迷うことなく店のドアを開けた男の人を指差した。どうやら、最近来ている客はあの人で間違えないらしい。
 ……ということは、多分エンちゃんを見にきたんだな。まだ16歳になったばっかりだし、人懐っこいし、その気持ちはまあ分かる。



「……」

かつ、かつ、かつ、かつ

「……」

かつ、かつ、かつ、かつ

 ……いつから、足音増えてた?
 その日のバイトを上がると、しばらく私ともう1人の靴がアスファルトを叩き続けた。
 おかしい。こんなに帰り道が被る人、今までいなかったはずなのに。少し早足にすれば、後ろの人も同じ速度に。逆にゆっくり歩けば、速度を落とす。止まったら、足音は止んだ。完全に歩調を私に合わせにきている。
 帰り道が被るだけならいいと思ったけど、少し寄り道をしたくなっていつもの道から左へ曲がってみるも、まだ足音は聞こえる。その後もランダムに帰り道を変え、曲がり続け、最終的に最初に歩いていた道幅の広い道路へ戻る。でも足音は消えない。こんな意味のない歩き方をしたのに、なんでついてくるの?
 ……尾けられてる、なんてことはないよね。でも、本当に自宅までついてこられるのは嫌だから、念には念を。

「っ!」

 また普段通らない狭い道に入ると、今度はアスファルトを強く蹴り上げて一気に走った。
 後ろにいた人が追いかけられないよう、何ブロックも曲がり、男の視界から私が見えなくなるまで走り続けていく。しばらく背後から聞こえていた足音の主は、私を見失ったのか、やがてその音を小さくさせていった。
 ……なんとか撒くことは出来たみたい。でも、誰がこんなことをするの。来た道に戻り、せめて後ろ姿だけでもと顔を少し覗かせ、追いかけてきた人の後ろ姿を密かに確認した。

 ――スーツの男。つい最近見たことがある気がして、胸騒ぎがおさまることはなかった。

 その日を境に、私がバイト先から工藤邸へ帰る時、誰かに後をつけられるようになっていった。次のバイトの帰りも、その次の日も、次の週も全部、自分以外の足音が背後から聞こえていた。
 相手の顔はずっと見ることが出来ない。尾けられている間は後ろを振り返るのがただただ怖くて、普段通らない道を走り、相手が諦めて帰るのを確認してからやっと姿を確認できた。何度見ても、最初に確認した時とずっと同じ後ろ姿だった。

「莉乃君、こんなところでどうしたんじゃ?」
「……博士」

 ある夜、相手を撒く過程で工藤邸の裏道を歩いていた時のことだった。買い出しで外出していた阿笠博士と偶然出くわし、裏道を歩いている理由を尋ねられた。撒いている間からここにくるまで走り続けて、肌寒い夜に汗をかき、息を切らしていた私を見て何か察したのか、博士はとにかく中へ、と私を阿笠博士の家に招いた。そして哀ちゃんと博士に、これまでの経緯を説明した。

「昴君には相談したのか?」
「いや、変な心配かけられたくないから何も……」
「本当に大丈夫なの?」
「うん、今のところは。まだ家まで尾けられてないし」

「そうじゃなくて、何時まで相手の好きにさせるつもり!?」
「え……哀ちゃん」
「とにかく、絶対家を特定されたらダメよ!」

 遅い時間なのに起きていた哀ちゃんは、異常な程に私を心配していた。他人事とは思えない狼狽えぶりが妙に気になり、博士にそのことを聞いてみると、哀ちゃんも過去に色々あって人の目線に過敏になっているらしい。……誘拐とかされたのかな、哀ちゃん可愛いし。

「まあ哀君についてはおいといて……ほれ、ワシが昔作ったプログラムで起こしたルートじゃが、きっと役立つぞ。全ルート網羅には時間がかかるが、とりあえず尾行を撒くのには10個あれば十分じゃろ」
「ありがとう博士!……ところで、なんでこんなもの作ったの?」
「ワシは天才科学者だからの、いつ外で狙われても逃げられるように考えておったんじゃ!」
「博士……尾行を撒ける程度に走れるの?」

 そういうわけで、尾けてくる男を撒きながら工藤邸に帰れるルートをいくつか阿笠博士が割り出してくれた。割り出されたルートが印刷された紙を受け取ると、それをスケジュール帳に挟んで工藤邸へ持ち帰った。
 それから何日かは、相変わらず帰りが遅くなってしまうものの、博士のお陰でどうにか男を撒くことに成功していた。博士のおかげでずっと、上手く撒けていた。

 ……撒けたから、なんだ。私はただ、現状を維持することしか出来ていない。
 男が誰なのか、尾けてくる理由も、尾けてどうするのかも知らない。事態は何一ついい方向へは進んでいない、何も解決していない。
 尾けられてることに気付いてから、撒く為に必死に走り、男が私を追うのを諦めるまで息を必死に殺す。動くことも許されない、うっかりしずかな場所で音を立ててしまえば、また追いかけられてしまうから。
 今日も、明日も、その先も私は逃げ続ける。その足音が消え去るまで、ずっと、何度も、何度も、何度も。終わりが見えない現実は、紛れもなく私に悪いストレスをじわじわと与え続けてきた。

「おかえりなさい」

 そんな中でも沖矢さんは、さも当然といったように私がバイトから帰ってくるのを待ってくれる。何日も続けて、動悸が激しい状態で帰ってきても沖矢さんはなにも聞かない。聞いても答えてくれないことを、分かってるみたいだった。

「鍵は僕が閉めますから、綾瀬さんはお風呂……」
「お願いがあります」
「……」
「廊下で待ってて下さい。すぐに上がりますから」
「……分かりました。鍵を閉めたら、すぐに行きます」

 湯船に浸かっている間も、落ち着きは戻ってきてくれなかった。
 1人で悶々と考えていると、被害妄想が止まらない。本当は尾けるのを諦めたふりをして、既にこの家の敷地内にいるかもしれない。目の前にある窓の下に潜んでいるかもしれない。その内私の知人だと沖矢さんを騙しに来るかもしれない。
 ……沖矢さん、ここに住んでて良かった。何も言ってこないけど、ここにいれば大丈夫だって私に言ってくれているみたいで、少しほっとする。きっとここに1人で暮らしていたら、引っ越していなかったら、こんな風に落ち着ける場所なんてなかったかもしれない。

「……」

 30分でお風呂から出ると、バスタオルの上にメモが乗せられていた。

【ココアを作るから、リビングにおいで】

「沖矢さん、これくらメールで寄越せばいいのに……ああ、スマホ部屋に置いてったんだ」

 メモの通りにリビングへ向かうと、沖矢さんがちょうど、湯気が立つ2つのマグカップをテーブルに置いたところだった。

「何があったか分かりませんが、家でも張り詰めすぎですよ」
「……」
「そういえば、明日はバイト久しぶりにないんですよね?また映画、観ましょうか」
「今度は何ですか?」
「マンネリ化した夫婦が実は2人共殺し屋で、それがお互いにバレて殺し合う映画」
「あ、わかった。それすごく好き」
「字幕版と吹替版、どっちも観たら朝になりますね」
「じゃあ先に、吹替版から!」
「了解」

 私の返答に満足げに笑うと、沖矢さんはDVDプレイヤーを起動し、テレビの液晶には映画の宣伝映像が映り始めた。
 2人掛けのソファに私と沖矢さんが座る。温かくなっているマグカップを手に取り、沖矢さんと肩が触れる距離でただじっと、テレビに映る映像を見つめる。

「……美味しい」
「ありがとうございます」
「アンジーかっこいい……」
「ふふ……そうですね」

 最近の沖矢さんはとにかく優しい。何の理由も言わないで、ただ私の近くにいてくれる。今の私には欠かせることの出来ない、安定剤の役割を担ってくれている。

 ――それでも、消えない。
 映画の内容が面白かったことより、沖矢さんが優しいことより、あの男がいつまでも追ってくることを思い出す。映画を観ている間も、沖矢さんが隣にいたとしても、それが全く消えることはなかった。
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