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胸の奥から湧き出る麻薬のような甘美な欲求に、一瞬頭がくらりとした。が、それを無理やり抑え付ける。まだだ。まだその時ではない。無論いずれはそうするが、まだそれは先のこと。

アラストルとて分かっているのだ。雪弥が自身を拒むのは、すなわちアラストル自身でも持て余す、この狂気のせいだと言うことは。
だから今はその凶器にも似た狂気に蓋をする。

雪弥の泣き顔や苦しみ喘ぐ声も雄を煽り歪んだ充足感を与えるが、やはり惚れた者には笑って幸せになって欲しいものなのだ。アラストルと言えどもその想いに偽りはない。
狂気を見せないことによって雪弥がこうして微笑み、腕の中に収まるならば安いものと言えるだろう。
偽るわけでも騙すわけでもない。
ただ少し、恐ろしいモノは見えないようにその瞳を優しく覆うだけで……。

一人の人間の全て――肉体、心、人生さえも欲する傲慢な男は黒ずんだ狂気を押し隠して、唇に三日月を描いた。

それは、男の厚い胸板に包まれた雪弥には見えない……。

「あの、ちょっと痛いです……」
「ん?ああ、すまないな」

猛る想いのままに雪弥を掻き抱いたせいか、思いの他に力が強くなりすぎたようだ。若干、腕を緩める。だが、その両腕を離すことはなかった。
その様子からアラストルが雪弥を腕の中から解放する気がないことがありありと伝わってくる。
そのことに雪弥は微かに困ったように眉を八の字にしたが、腕をほどいて下さいとも、自分から身を離すこともしなかった。微かに身じろぎをして、落ち着きなく目を右に左にと動かしているだけだ。

その行為は、今までだったら諦めでしかなかったのだろう。

アラストルに対する底知れぬ恐怖。
自身の脆弱な力。
抵抗しても無意味なのだという諦感。

そう言ったものが組み合わさって、足下から絶望が這い上がり気力を奪うのだ。

だが、この時は違った。

身の内には未だ恐怖が燻ってはいる。しかし今は、それを打ち消す微かなぬくもりが雪弥の心に灯っていた。
それを示すかのように、雪弥の真白い頬が桜色に染まっている。

その柔らかな灯火は、アラストルが故意に狂気を押し隠した故に付ったものではあろう。
優しいものしか映らないように目隠しした結果ではあろう。

だが、この時雪弥に色付いた想いは、それは、偽りのない確かな雪弥の心だった――……。


無論と言うべきか、アラストルはその今まででは考えられない雪弥の反応にあざとく気がついている。その生娘のような初々しい態度に、アラストルはほぅ……と欲の籠った熱い吐息を吐いた。

唇は三日月を描いたまま声には出さず、空気を震わせ男は嗤った。
一匹の憐れな蝶が、決して逃れることの出来ない蜘蛛の巣に気づかず飛び込んでくる様に、男は嗤い続けた……。


その二人の感情のズレが、歪みとなるか、はたまた違った結末を生むかは、今は誰も知らない。

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