涙の日

 空が涙を流す日は、窓辺の花も元気が無くなってしまうようだ。ユシライヤも目を覚ましてすぐに具合が善くなかったので、その季節がやって来たことがわかってしまった。

 こんな日には本当は外には出たくないけれど、水を頂戴に行かなくては暮らしていけない。
 まだ目覚めには程遠い体を無理やり起こして、外へ出る為の準備を始めた。
 リーベリュスに教えられたようにやると、金具は上手く繋がって、棒の先から続いている布が拡がり、ユシライヤの為の小さな屋根が出来上がる。
 涙の季節がやってくると、リーベリュスから貰ったその道具をユシライヤはいつも手放さなかった。

 自分の準備が既に整っているリーベリュスは、ユシライヤが濡れないようにと身纏いの上にもう一枚、涙を弾く不思議な生地のものを着せてくれた。彼女も自身を守る道具を右手に持ちながら、左手ではユシライヤの手を握る。
 リーベリュスがそうしてくれるから、外への怖さが和らいだ。

 村で一番立派な建物には、村で一番立派なお人が住んでいると聞いている。生きていく為に必要な物をここですべて分けてもらえるのだから、優しくて立派なお人なのだと。
 それでも、どんな顔でどんな名前のお人かはユシライヤは知らない。唯一知っているのは声、「入れ」と、いつもそのお人はそれだけを言う。
 深く頭を下げてから建物の中に入っていったリーベリュスに、少しだけ待っててねと言われて、ユシライヤはその通りに努めようとした。

 けれど入り口が閉まると、悲しい世界に一人取り残された気分になる。だから、リーベリュスの言う少しは、全然少しなんかではなかった。
 ユシライヤはいつものように待ち時間を過ごした。指で土の上に円をいくつも描いていく。今日はいくつを描けるだろうか。
 しかし、涙はその円までも消してゆくのだ。

 空は何を見て泣いているのだろう。偽り、争い、死。もしくは自分達には見えない他の何かがあるかもしれない。
 その悲しみはとても重くのし掛かってくるので、自分を覆ってくれる物がどうしても必要だった。
 そうしてしまえば、自分の涙も外からは見えないはずだから。

「何があなたを悲しませてしまったの? 今日の分もちゃんと戴けましたよ」

 彼女の気付かないうちに、リーベリュスがユシライヤの表情を覗き込んでいたから、隠し事はすぐに明らかになってしまった。
 リーベリュスは少しの食料と少しの水を抱えてユシライヤに笑ってみせたが、実は隠し事をしているのはユシライヤのほうだけではなかった。
 けれど彼女は真新しい頬の傷を隠すのを忘れていたので、

「リーベリュスが、遅いから」

 ユシライヤの答えは、半分は本当で半分は嘘となった。

 ユシライヤは強がって抑え込んだが、空はまだ泣き止まない。
 二人の履き物は濡れた土をも少し沈ませた。その跡は二人分の道のり。来た時のものとは別の線が出来上がっているのは、住み処に戻る前に寄りたい所があるとリーベリュスが言ったからだ。
 しばらく歩いたところで彼女が立ち止まると、何も言われなくともユシライヤはこの場所に来た理由がわかった。

 憂う世界に灯すような彩り。それは誇るように咲く花の群れ。風に揺られる小さな光の集まり。
 その虹色は、空から落ちるものに打たれながらも、生きて大地に立っている。茎は細くても、花弁は小さくても、弱々しさは感じられなかった。
 自然を育てるのが得意なリーベリュスが、以前この場所に種を蒔いたのだった。

「涙は悲しいだけのものではないわ。大地に染み込んで、花がよく育つの。それでも、この花だけは他とは違うのですよ。涙の日にしか開かない花なの」

 ユシライヤにも、悲しんだ後にはいっぱい喜びがありますように、貴女が生まれた時にはそういう願いを込めたのよ、と彼女は続けた。

「そして、この花の名前はね……」

 言いかけのリーベリュスの言葉が、まるで時間が停止してしまったかのように、その先は霞んでしまった。
 同じくしてユシライヤの視界に白い靄がかかる。
 ふと自分を呼ぶ声が遠くから聞こえてきた。すると、今の自分はこの世界の存在ではないのだと感じ取る。
 完全にリーベリュスの姿が白色の中へ消えてしまうと、その声が段々とはっきりしてくる。そこから意識が遠くなった――かと思えば、次の刹那にして、ユシライヤは現実へと戻ってきた。

「……エニシス」

 彼女に呼び掛けていたのは、夢の中でリーベリュスが言いかけたものと同じ名前を持つ少年だった。
 自身の過去の記憶を失くした少年は、ユシライヤからその花の名を聞いた時に、その名前を自らが名乗りたいと申し出たのだ。

「ユシライヤさん、体の調子はどうですか?」

 シーツも無い寝台、家具も明かりも窓も無い部屋。そういえば此処からは外の様子を窺えないのだった、と思い出す。けれど、きっと何処かで今雨が降っているのだろうとユシライヤは思った。だからこそ、はぐらかしたのだ。

「……少し、昔の夢を見ていた」
「夢、ですか?」
「私の生まれた場所の夢だ。幼い自分と、母が出てきた」

 過去の現実が再現されたものを夢だと呼んでも良いのなら、それは夢だった。
 王都で騎士として生きると決意してからはずっとエルスの側で過ごしていたので、彼の居ない日は実に十数年振りだ。そのせいか、幼い頃の記憶を呼び覚ましてしまった。きっと自分は過去と決別出来ていないのだろう。
その上、その花の名前を持つ少年が側に居るのだから、ユシライヤの過去への思いは一層強いものになっていた。

「あの……じゃあきっと、出来るならユシライヤさんは故郷へ戻りたいんですよね?」

 ユシライヤが驚いた表情を見せると、エニシスは焦って頭を下げ詫び言を繰り返す。
 怒気を含んだ訳でもないのにそこまでさせてしまう自分に苦く笑うと、彼の額にそっと触れた。

「戻りたい……もしかしたらそうかもしれない。でも、戻れないんだ。村の名前も、何処にあるのかも思い出せない。それに……」

 これは隠してきた弱音だと自覚した。誰にも話すつもりの無かった事なのだが、ユシライヤはいつの間にかそれをエニシスに話し始めていた。

「私の家は貧しかった。父も居ないし、兄もあまり家には帰らなかった。当時は理解出来なかったけれど、今思えば私達は差別を受けていたんだ。それでも……私にとっては、母と居られるのが幸せだった」

 ユシライヤの指がエニシスの前髪をかき分け、彼の額に宿る赤色の紋章を露にした。自分達と同じ色の。
 その印こそが母と自分が差別された原因だった。種族という抗えない理由で忌み嫌われても、誰の事も責めず、疑わず、他人への優しさだけを教えてくれた母親。
 それなのに自分はどうだろうか。
 王都に来てからも嫌悪の目で見られ、城の地下に幽閉されていた頃。殺意を向けてくる他人、自らの種族、差別を生んだ世界、何かを恨まなかった日は無かった。

「その時は……自分の生をも憎んだ。それは、自分を産んでくれた母に抱いてしまったのと同じことだろう?」

 エルスに対して忠誠を誓ったのは、その檻から彼が自分を救ってくれたからだった。ユシライヤはその時に決めたのだ、エルスを傷付けるものは何であろうと許さない。その為には彼以外の人間を容易に信用してはいけないのだと。
 そんな自分には、母は――眩しすぎる。

「母が生きてくれていて、もし会えたとしても、私はあの頃の私ではないから、戻れないんだ」
「そ、そんなこと、ないです……! きっと、ずっとユシライヤさんの帰りを待ってるんです。そんなに優しい方なら、再会できて嬉しくない理由は無いです。ユシライヤさんだって、本当は……」

 この少年は、いつでもこちらの気持ちを見透かしたように弱さを受け止めてくれる。だから彼の言葉に傾いてしまいそうになる。

 エニシスの頬を伝うものを手で拭うと、ユシライヤはやはり雨の降る日は苦手だと思った。
 今は覆ってくれるものを何も持っていなかったので、おさまるまで彼に側にいてもらう事にした。


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