クルール・ド・ヴィアンジュ
夜陰に乗じた白亜の王城、厳然と過ぎ行く時間の中で唯一人慌ただしい空気を走らせるのは、漆黒の長髪を後ろで束ねた隻眼の男性。年の頃は、二十代半ばといったところか。
彼は眼に視えぬものを追っていた。
右目を眼帯で覆う彼はかつて、他の騎士よりも半分しかものが視えないその眼でまともな指揮が出来るのか、と嘲られた事が有ったが、彼はそんな風には感じていなかったし、そもそも、それとこれとは話が別だ。
今の彼に必要なのは癒しだった。つい先刻まで延々と主の罵詈雑言──それは彼に向けられたものではなかったのだが、決して耳障りの良いものではなかった──を聞かされ続け、今直ぐにでも『そこ』へ辿り着きたい一心だった。
表情には出さずとも、言わずもがな彼にも感情は有るのだ。むしろ、他人には知られまいとしている分、もしかしたらデリケートなのかもしれなかった。
城門には、無骨にもしゃがみ込みながら来訪者の対応をする若い門番が居た。気怠そうに頬杖をつき、適切ではなく無責任であるほうの意味で適当に相手をする。
彼はこちらへ近付く黒髪の青年の姿を捉えると、「ロ、ロアール団長っ」とその名を呼び、あからさまに態度が急変した様子で上官に敬礼した。
彼──ティリー=F=ロレンスにとって、ロアールはその地位を除いても敬服する対象だった。
本来ならロアールは、然るべき騎士の姿勢で従事に臨め、と彼に言ってやらねばならなかったかもしれない。だが、彼の脳中にはそれをしてやれるだけの余力が残っていなかった。
彼は小さく口を開くと、
「お一人様、一点限り……」
と、誰に対してでもなく呟いたのだった。
それには王妃への謁見を請いに訪れた女性も目を丸くした。そんな意味不明な言葉でなければ、或いは不覚にもときめいたかもしれない程の美声だったのに。その上よく見れば籠城するには勿体ない位の美形ではないか──尤も、それらはいずれも彼女の独断ではあったのだが。
そんな彼女の儚く散った恋への期待など露知らず、美声の持ち主はこう続けた。
「……と言う事は、二人で行った方が得であるという事だ」
「……はあ」
何だ、この人は俺の理解力を試してるのか、とティリーは思った。元々その団長は指揮官にしては口数が少ないほうだが、ここまで口下手だとは思わなかった。
返す言葉を探すのに時間を要する前に、彼の腕はロアールに引かれていた。
「お前も来い」
「は、ど……どこにですか?」
ロアールはそれに答えず、彼を強引に連れながら、そして『三人目』にはなれなかった女性を残したままに城門を後にした。
“あの人の弱点を知っているか?”
ロアールが立ち止まった場所、眼前の建物を目にした時、ティリーは彼の同期であり生意気な、ある女騎士──名前すら言いたくない──の言った事を思い出した。
『あの人』とはロアールを指し、彼を隙のない完璧な人間だと信じていたティリーは、その問いに当然の如くそんなものはないと答えた。だが、弱点のない人間など居ない、と彼女は言ったのだ。そしてその時、彼女に教えられた弱点というのが、
「クレープ全品半額、やはり……今日で間違いなかった」
当人が今この瞬間に認めた、『それ』である。
可愛らしい色合いの枠内に納められた、これもまた可愛らしい字体で書かれた『クルール・ド・ヴィアンジュ』という看板を下げたこの菓子屋は、数々の名菓を生み出すとして王都では知らぬ者が居ないと言われる程に名を馳せていた。赤レンガの壁を囲う丈の低い常緑樹──鮮やかな色彩を纏う外観も美しい。確かに入口の扉の貼り紙には、“本日、クレープ全品、お一人様一点限り半額”と書かれていた。
それにしても、傷だらけの甲冑野郎二人組にはそぐわないだろう、とティリーは一歩後退した。何より自分が恥ずかしかった。引きつった頬は朱に染まっている。
だがそんなものを直ぐに消し去るように、
「やっぱり来てくれたのね、ロアちゃん」
ろあちゃん。『ロアールちゃん』の略称だろうか。信じ難い呼び名を使ったエプロン姿のふくよかな中年女性が上官を抱擁するのを、少し離れたところでティリーは呆然と視ていた。
察するに、彼女はこの店の店員なのだろう。
意外にも──と言うのは失礼だが、ロアールは異性から好まれるのだろうか。見境なく女性を連れ歩くシェルグと、ある意味ではいい勝負なんじゃないか、と思ってしまう。
「あら、そちらはお友達? ロアちゃんが人を連れて来るなんて珍しいわねぇ」
彼女が気付くと、向けられた視線を思わず逸らしてしまっていた。あたかも通りすがりの他人、であるかのように。
「そうだわ、ロアちゃんにはいつもお世話になってる事だし、特別に食べ放題半額、にしちゃおうかしら」
だが既に意味を成さなかったようだ。女性はそれが名案だとでも言うように、ぱあっと顔を綻ばせた。一体どうしたらその突拍子のない謎案が導き出せるのだろうか。無論、ロアちゃんは微かな笑みを浮かべているのだが。そう、表情から感情が掴めない彼に対しても、この時は笑顔であるとティリーにも容易に理解出来た。
「さあさ、そうと決まったら早く店にお入りなさいな。勿論、貴方もね」
彼女の胸中では、やはり彼も勘定のうちだった。お前一人しかしゃべってねぇじゃん、と言ってやりたかったが、ティリーはロアールの隻眼の奥に、鋭い眼光を視た気がした。
『食べ放題』という事は、店の中で食べろ、という意味なのだろう。半額セールの為か来客の多い店内で、武器を携えたままの男二人が、むさ苦しく、多分会話も殆どなく甘味を嗜む閉鎖的な空間。それを想像して、ティリーの中で少し、本当にほんの少しだが、ロアールへの敬愛の欠片が、ぽろりと欠け落ちてしまったように感じた。
──だがその晩、王妃に職務怠慢を咎められたティリーを庇護したロアールの背中は、いつもより大きく見えた。
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