■ どうかこの手を離さないで
「青木くん、別れよう」
「…は?」
付き合って三日目だった。もちろん青木君は食い下がり、自分の何がいけなかったのかと必死に美結に尋ねてきた。美結は大変困った。だって青木君に悪いところなんて一つもない。
申し訳なさに苛まれながら、彼女は強引にお別れを告げた。ごめんなさい、さようなら。
彼はいい人だ。彼となら私だって恋愛ができるかもしれない―――と、思ってみようとしたが無理だった。どうしたってそんなビジョンが浮かばない。
彼と出かけるなら十四郎さんが仕事をしている背中を眺めている方が楽しい。彼と過ごすなら十四郎さんの仕事を手伝うほうが有意義。
どんな想像も、到底あの人には及ばなかった。
それがもう容易には手の届かない、想像のみで終わるものだとしても。
勝てないんだ。この地球上のどんな人間も、私の中の彼には勝てない。
「…誰か、他に好きな人でもいんの?」
「え?別に…」
別にそんなのいない―――そう言いかけて美結は固まった。
いないと、そう言いきれないつっかえがある。
あの人の顔が頭をよぎった。
「…ごめん」
美結はただ、ごめんを繰り返すことしか出来なかった。
演奏には集中できなくて、その日美結は部活を早退した。
いつもの通学路を一人でゆっくり歩いていたが、頭の中がごちゃごちゃして、雨が降り出したことにも気づかなかった。ようやく気がついたのは、全身がびしょびしょになったあたり。傘はない。気がついたところで、結局濡れて帰るしかなかった。
普段から人通りが少ない上、雨が降ると一切すれ違う人もいない。世界にひとりぼっちでいるような気分だった。
立ち止まって、空を見上げる。雨が顔を叩いてきて、これは客観的に見ると泣いてるように見えるのかもしれないなと思った。
そんな彼女の隣に、一台の車が停まる。
パトカーだった。
「十四郎、さん…」
彼女が動くのを待つことなく、助手席の扉が中から開かれた。
「乗れ、濡れ鼠」
シートが濡れる。そう言って彼女は断ろうとしたが、無理やり腕をひっぱって座らされた。
「制服脱いどけ、風邪ひくぞ」
「うん…」
言われた通りにベストとYシャツを脱ぎ、ついでに靴下も脱いで後ろの席に放った。
シャツの下はタンクトップ一枚だったが、美結は特に気にしなかった。
「十四郎さん」
「あ?」
「迎えに来てくれたの?」
「…たまたま通りかかっただけだ」
「…ありがとう」
彼女は知っている。パトカーでの巡察の道に、この道は含まれていない。
美結は思わず口元に笑みを浮かべてしまった。うれしい。
昨日、私たちは兄妹じゃないと彼に言われてしまった。もちろん知ってはいたが、口にして欲しくは無い現実だった。
でも十四郎さん、だったら今の私たちの関係はなんだろう。どういう名前で呼びますか?
勲兄さんは兄さん。総悟くんは友達。退さんや隊士のみんなは年上のお友達。
じゃあ十四郎さんも、年上のお友達?そっか、兄妹の次ランクはこんなにも離れてしまうんだ。
どうりで私があの関係を守りたかったわけだ。
「…十四郎さん」
「なんだ」
私はいつだって、あなたの一番近くにいたいと思っていた。
「ごめん」
「…何が」
気づいてみれば、簡単なことだ。
「私、十四郎さんのこと好きみたい」
ずっと昔から。