■ ただ近くにいたいだけ


土方に殴られた次の日、顔の腫れがひどかったので美結は学校を休んだ。
平日に家でごろごろしているというのはなんだか落ち着かないもので、彼女は屯所の中を適当にうろちょろとしていた。お昼ごはんを食べたばかりだというのに冷蔵庫を漁ってアイスキャンディーを一本取り出し、また裸足で廊下をぺたぺたと歩く。その廊下の隅っこに少しだけ埃が溜まっているのを見て、掃除しようかなぁなんて思ったけど結局面倒になってやめた。

そしてぼーっと歩いてから無意識に立ち止まったのは、ある部屋の前。
今は巡察に行っていて、部屋の主は留守だ。
それがわかっていて、美結は律儀に閉じられている障子に向かってしゃべった。

「十四郎さん、いる?」

もちろん中から返事は無かった。
それに安堵して美結は部屋の前の濡れ縁に腰掛けた。
午後の日差しはまだ春の暖かさだ。心地が良くて、ついまどろむ。

「ねぇ私が昔、大きくなったら十四郎さんのお嫁さんになるって言ったの、覚えてる?」

美結は正直覚えていなかった。今日ふと、そんなことがあったような気がするなと思い出した。
十四郎さんの返事は残念ながら思い出せない。でもどうせ鼻で笑われたか軽く流されたかだろう。
あの頃は、彼は大人で私はまだ子供だったから。

「今私が同じこと言ったら、十四郎さんどうする?…この前は俺のとこ就職すれば、なんて軽く言ってくれちゃったけど、本当に私にそれを言われたら…ま、心底困るでしょ。知ってるよ」

だってその瞬間私たちのこの関係は壊れちゃうもの。

あの頃の私はまだ子供だったから、この関係は変わらないものだと信じてた。あなたをもう一人の兄だと純粋に思ってた。
それがいつの間に変わったんだろう。
思い出したよ、あの頃はあんなにまっすぐな気持ちだったのに。いつからか私にとってこの関係は、取り繕わないと成り立たないものになっていたの。


キスをしたのは、出来心。
彼氏を作ったのは、あのキスを笑い話にするため。
彼氏と寝たのは、すべてを忘れるため。

それというのも、今の関係を壊したくなかったから。
血の繋がりも何もない、兄と妹という脆い関係を。
わかっていたんだ。所詮そんな私たちの関係は、赤の他人と何ら変わりない。簡単なことですぐに崩れてしまう。

だからこそ私は偽りを作った。偽りだらけな自分になった。
自分が誰かのものにならないと、もう今までの自分のままで彼の傍にはいれない気がして。
でも結局私は全部失敗してしまった。もうきっと、私の大好きな『お兄さん』は私に笑ってくれない。
私が『お兄さん』にしていいこと以上のことをしてしまったから。私がどうしようもない女になったから。

すべてはそう、私がもう子供ではないからいけないのだ。
私はもう、笑って『十四郎さんのお嫁さんになるー!』なんて言えない。
彼は男で私は女だということを、私も彼も知っているから。それを意識してしまうから。

私たちの関係はきっと、私がこの関係の脆さに気づいてしまった時から徐々に形を失くしていっていた。
そして私はいつの間にか、関係を取り繕うのに必死な自分を当たり前のように受け入れていた。
本当に彼を兄だと思うなら、そんな心配は微塵も必要なかったはずなのに。

だって私は、今まで勲兄さんと自分の繋がりに危機感を覚えたことなんかあったろうか。
もうそこからして、私と十四郎さんの関係は兄妹などではない。
まごうことなき、『作り物』だった。

「でも私、十四郎さんとは兄妹でいたいんだよ。見捨てられたくない。離れたくない。本当の兄さんじゃなかったとしても、私にとっては、すっごく大事な人だから…」

関係に固執するのは、繋がりを失くしたくないから。
兄みたいな人と妹みたいな私。その関係を失ってしまったら、私たちの間には何も残らないでしょう?

そんなのいやだ。

「私、十四郎さんから離れたくないよぉ…」

こんな本音を、十四郎さん本人の前で言えない私は大馬鹿だ。
空っぽの部屋の前で呟くのが精一杯だなんて。なんてガキくさい。
でも私が子供だったら、こんなことにはならなかったはずだよね。
子供には到底思いつきもしないことばかりをした私は、やっぱり子供ではないのだ。
もう関係は戻らない。

大人になんて、なりたくなかった。

「十四郎さん、私ともう一回、兄妹やり直してくれませんか…?」

膝を抱えて、丸まった。やわい日差しが旋毛を焦がす。
ああ何馬鹿なことしてるんだろう。いつ十四郎さんが戻ってくるかもしれないのに。早く部屋に戻ろう。
そう思うのに体が動かない。

すると、スッと後ろの障子が開いた気配がした。

…うそ。

「言いたいことは、それだけか」

淡々と、泣きたくなるぐらい普段通りなその声が美結の背中に掛けられた。
煙草の香りがふわりと漂う。美結を寄せ付けない、殺虫剤のようなそれだ。

ドクドクドクドク…
ありえない速さで心臓が脈を打った。
なんで、うそ、ずっといたの?全部聞いてたの?巡察は?なんで最初に確認したときに返事してくれなかったの?

じわり。暑さのせいではない汗を額と背中に掻く。
怖くて振り向けない。

「美結」

いつの間にやら食べることを放棄されていたアイスキャンディーが、溶けて彼女の手を汚す。
そしてぼとりと庭先に落ちた。

「…俺たちゃ兄妹なんかじゃねぇよ」

守りたかった繋がりは、あっけなく途切れてしまった。




 
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