待ち人×ばいばい×玩具の脱走
薬が抜けてきた頃には、もう日が沈みかけていた。ちなみにおやつ時ぐらいにお兄さんは一回目を覚ましてしまったので瞬時にもう一度眠ってもらった。まだしばらく大丈夫だろう。
僕はなんとかお兄さんの下から這い出て、ライトに手伝ってもらいながら起き上がった。チルには僕の中に戻ってもらう。そしてこのままライトの背に乗ってここを去ろうと彼に跨りかけた、その時…
「―――どこ行くの?」
ビックゥ!
背後にあるベッドの上からそう声が聞こえて、自分でも笑えるぐらいに肩が震えた。
起きてんじゃんお兄さん…!
「え、ええ…そろそろ帰ろうかと」
「帰れるの?」
「うん…ミケもまぁそんなに怖い子じゃないってわかったし、密林だってライトがいればなんとかなるかなぁって…あとお兄さんが邪魔さえしなけりゃ」
もう一回チルに歌ってもらおうにも、チルをすでに戻してしまっている今からじゃあタイムロスが大きい。チルを締め上げるにしろ耳栓をするにしろ、お兄さんの動きのほうが速いに決まってる。どうしよう。
「じゃあ君は今日も帰れないね」
「あー、やっぱりですか?」
うーん、今日は上手くいったと思ったのになぁ。
気配無く後ろから抱きつかれて、僕は諦めの息を吐いた。
長い黒髪がするりと降って来て僕の頬をくすぐる。
いくら弟のためとはいえ、この人のこの執着振りはなんだろうか。仕掛けようとしてくることは大人なんだけど、こっちとしてはイタズラ好きのちびっ子を相手している気分だ。
「お兄さん、重いです。実はまだ眠いんでしょ。大人しく寝てください」
「やだよ。俺が寝たらその間にいなくなるつもりだろ」
「当然です」
あ、正直に答えすぎた。そう思った瞬間、
――――バリィンッ!!
大きな音を立てて、部屋の窓ガラスが盛大に割れた。
それに気づいた時にはお兄さんはすでに武器である鋲を構えていて、割れた窓に向かって投げる準備も整っていた。
それを僕は無意識の内に止めた。だってここでこれを投げさせるわけにはいかないでしょ。
「ナッツ!」
ずっと、待ってた相手なんだから。
「クロロ君!!」
会いたいって思ってた気持ちが限界まで膨れ上がって、ついに弾けたような感覚。
僕を捕まえようとするお兄さんの手をくぐりぬけて、僕はクロロ君の胸に飛びこんだ。
抱きしめ返してくれる腕はとても力強い。無事か、と聞かれて僕はこくこくと頷いた。
「よかった…」
搾り出したような掠れた声。こんなに余裕のなさそうな彼は初めて見た。
「ねぇ、君だれ」
「…俺は幻影旅団団長クロロ=ルシルフルだ。イルミ=ゾルディック、随分とナッツが世話になったようだな」
「へぇ、ナッツって幻影旅団だったの?」
「げんえーりょだん?それってな」
「まぁなんでもいいか」
…わからない。この人はとことんわからない。げんえーりょだんもわからないけどこの人はもっとわからない。
このすっとぼけた感じ、僕はもうすっかり慣れたがクロロ君にとっては普通にイラつくらしく、額に青筋を浮かべながら念を発動した。僕を抱いているのとは逆の手に本が現れ、彼はそのページをパラパラとめくる。
あわわわ、どうしよう、確かにお兄さんはあんまり好きじゃないしイラつく気持ちはわかるけど、そんなわざわざ念なんか使ってこてんぱんにしてほしいと思うほどじゃない。
「イル兄!姉貴!?どうしたんだよさっきの音―――」
クロロ君が何かしらの念を使おうとしたその時、そう叫びながらキル君が部屋へ飛び込んできた。
僕は迷わずクロロ君の本を閉じた。慌てすぎて指挟んだ。
「おいナッツ?」
「…クロロ君、かえろ?」
何をするんだと言いたげな彼にお願いをする。
弟くんの前でお兄さんを傷つけるなんてこと、絶対にしてほしくない。
それに十中八九、ここに来ているのはクロロ君だけじゃないだろう。さすがにこの子単体で乗り込んでこられるような場所じゃないはず。他にも何人かいるに違いない。まだ大きな騒ぎとかは聞こえてこないけど、それが始まる前に…
「姉貴…?どっかいくの?」
「…キル君、また会おうね。ばいばい」
子供のあの顔は好きじゃない。
僕はクロロ君の手を引いて、窓からそそくさと逃げ出した。
腑に落ちなさそうなクロロ君だったが、走りながら誰かと連絡をとって、それから僕を抱きかかえると念を発動させて一瞬でどこかへ移動した。おお、ワープってやつかな。
ライトはいつの間にか僕の中に戻っていて、そこには僕とクロロ君の二人きりだった。音もない、静かな知らない場所。間違いなくゾルディックの敷地内ではない。
彼らとはもう会うこともないような遠くへ来たんだろう。ぼんやりと僕はそう思った。
シルバさんにもゼノさんにもキキョウさんにも結構お世話になったけど、何も言わずに来ちゃったな。最後にカルト君にも会えなかった。キル君にも、もうちょっと気の利いた言葉が言えればよかった。
「…って、誘拐犯の一家に、何完璧に絆されてんだろ僕」
間抜けすぎて笑えた。
***
一方ゾルディック家では9人の侵入者に対して執事たちがてんてこまいだった。
内一人は既に屋敷から姿を消しているのだが、それに気づくことなどない。そして残り8人ももう撤収準備を始めている。
一体侵入者たちの狙いはなんだったのかと、執事たちは首を傾げるばかりである。
もちろん一家の方にそれらの報告はなされているが、それを気に留める者たちはいなかった。
「任せた」とだけ告げられて、信頼を寄せられているのか丸投げされているのか、悩むところである。なにせ相手は厳しい訓練を受けている自分たちですら歯が立たない化け物たちだ。正直手助けがほしい。まぁそんなことを言えばクビ確実なので口が裂けても言えないが。
侵入者に無関心なのは、誰よりも早く侵入者に気づいていたくせに何もしようとしなかったイルミ=ゾルディックも同じである。
彼は今さっき叩き割られた窓の外を眺めながら無言で佇んでいた。
その後ろでは弟のキルア=ゾルディックがその様子を恐々と見つめている。
「い、イル兄…?」
「…あーあ、せっかく気に入ってたのになぁ、あのオモチャ」
キルアはさぁっと血の気の引く思いがした。
あの道化にあれだけ固執しておいて、あれだけ欲しがっておいて、女としてどころか人としてだって見ていなかったなんて。
…姉貴はここから逃げ出せて、よかったのかもしれない。
幼いながらにキルアはそう思った。
大好きだった姉をなくしてしまったのは、すごくすごく寂しいけれど。
「また会おうって、言ってくれたしな」
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