変態注意報

あの後リンは水牢の術こそ意地でも解かなかったものの、すぐに立っていられなくなり意識も朦朧な状態で病院に運ばれた。
疲労の蓄積は言わずもがなだが、記憶が戻ったことによる脳の負荷が大きいのだろうと綱手様は言っていた。
小柳の蔵書の中身を全て記憶していたリンは、もともと途方もない膨大な情報を脳に詰め込んでいる状態だった。
それを一度全部ぶっ飛ばして、今は一気に再び詰め込んでいるんだ。目を回すのも無理はない。

だがあの洗脳が解けたぐらいで記憶を全部ぶっ飛ばしたリンが、今回のこの負担に耐えられるのか。
記憶が戻るようにとずっと願ってきたはずなのに、実際記憶が戻るとこんなことになるとは予想だにしていなかった俺は、今度こそリンが本当にぶっ壊れるんじゃないかと不安で仕方なかった。



変態注意報 side シカマル



病院のベッドに横になるリンはめずらしく静かで、何を考えているのかわからない目で天井を見ていた。
光の加減だろうか。いつもは真っ黒な真珠のようなその目が、ほんのかすかに翠色を帯びて揺れている。
頭の中でとにかく情報が錯綜し、そのせいで目眩がひどく、起き上がれないらしい。

「シカマル……カツキさんは何か喋った?」
「ああ……従順に話してるらしい。……お前の最後の言葉が効いたのかもな」
「なんのこと?」
「いや……わかってねーならいい」

最上カツキは別にリンや小柳一族に恨みを抱いているわけでも、小柳一族を乗っ取るつもりなわけでもなかった。
あいつからすれば、リンは一族の復讐のために巻き込んでしまったただの可哀想な女なんだそうだ。

「最上カツキは錠前の里の忍だった」
「……錠前の里か……『諜報活動を得意とする忍が多く、その諜報活動で得た情報の売り買いで外交を進めている、鍵の国の隠れ里』……だね」
「そ、そうだ。詳しいな」
「何かに載ってた。これは……『尋問ノ記録書第十四巻』の二十五頁」

リンの喋りはまるで目の前にある紙の文章を読み上げているかのようだった。
頭の中にそういうのが入っているのは知っているが、内容の理解はしていないという話だったはず。
だからこんな様子のリンは初めて見た。

「お前……今までそんなことできたか」
「え?……さぁ……」

リンの返答はどこかぼんやりとしていて要領を得ない。
とりあえずこれについては一旦リンの頭の中が落ち着くまで置いておくとして、リンが聞きたがっている話の方を続けることにする。

「……最上カツキはもちろん偽名。カツキの本名は奈良シガヤ……その起源を辿れば俺と同じ、木の葉の奈良一族に行き着くらしい」
「……あーね。だから影術が使えたのかぁ……けど袂を分かっているから扱う術が違うと」
「あ、ああ……」

もっと驚くかと思ったが、あくまで想定の範囲内であったかのようなリアクションに拍子抜けした。
さらに数秒の思案の後のリンの言葉には、俺の方が驚かされた。

「じゃああれか、カツキさんがしてきたことって……自分が成り上がるためというより、木の葉の奈良家を貶めるためみたいな意味合いの方が強かったのかな」
「!」

ぼんやりしているくせに、なぜだか今日のリンは妙に勘がいい。

リンの言う通りだ。
だからこそ最上カツキは書庫を焼いたし、今後の書庫の管理の任や小柳の土地について関心を示さなかった。
リンを完全に手に入れてしまったら、その後は木の葉に居座るつもりなんかなかったのだ。
小柳の復興を手伝うなんてのは真っ赤な嘘。
奴が、いや奴らが願ったのは鍵の国にいる奈良家の繁栄だ。

森野さんと共に聞いた、最上カツキの言葉が思い出される。


『このまま行けば奈良シカマルが持つ頭脳と小柳リンがもつ血継限界が結びつく。そうなれば木の葉の頭脳としての奈良家の地位は確固たるものになるだろう。それを僕らの一族は許さなかったんだ。自分たちを火の国から追いやった奈良家の繁栄を阻止し、その繁栄を自分たちにこそもたらす。それが僕に下されていた任務です』


「でも、それならやっぱりシカマルを殺せばよかったんだ。……なのにそうしなかった」
「あんまり美化して考えようとすんな。書庫の放火犯との繋がりについても自白した今、奴はれっきとした大罪人だ。変に肩入れするな」
「うん……だけどさ。一個だけ聞いていい?」
「なんだ」
「最上ハルカさんは、カツキさんの任務についてはどこまで知ってたの?」
「……おそらく、何も知らなかった」
「…………」
「もちろん最上ハルカもカツキと同じ、錠前の里のスパイだ。けれど彼女はこの里で、諜報活動すらしていなかった。彼女に下る任務は全てカツキが肩代わりをして……なぜだかは知らないが、彼女自身は本当にただの薬師見習いとして過ごしていたんだ」
「……私、なんでかわかるよ」
「…………」
「シカマルもわかってるんじゃない?……ハルカさんは木の葉で生きたかったんだよ」
「……もうやめろ」
「里も、忍である自分も捨てて、一緒になりたい人がいたんだ。きっと」

本当に今日のリンは勘が良すぎて困る。
俺だってそんなの、本人に聞いたわけじゃないから本当のところなんてわからない。
けどそう考えるとたしかに、彼女の合理性に欠けた行動も辻褄が合う。

「……二人はどうなるの」
「俺にもわからん。……気にしたって仕方ねぇだろ」
「気にするのって、おかしいかな」

今日初めてリンが俺を見た。
やっぱりその瞳の奥には薄らと翠が透けていて、眼球が痙攣するように小刻みに揺れている。

「……おかしいかどうかなんてわからねぇ。けどお前は、ただ奈良家のめんどくせー覇権争いに巻き込まれただけだ。さっさと忘れたって構わねぇ」
「変なの。ちょっと前までシカマルの方が巻き込まれた側だったのに。今度はシカマルが当事者ヅラして私が不運に巻き込まれた側?」
「……おい、お前なぁ。もうちょっと言い方っつーもんがあんだろ」
「私がシカマルに付きまとってるような女でさえなかったらこうはならなかった。私だって当事者だよ。シカマルが責任感じたりしないでよ」
「……それは……」
「別にシカマルが悪いわけじゃないんだから。……奈良家の一部の人達が国を追われることになったのだって、その一部の人達が秘伝の影術を悪用していたことが原因だったんだ。すぐに殺されなかっただけ十分恩情をかけてもらっていたはずだけど……そんなことは関係なしに逆恨みしちゃったのかな。だから今の奈良家に責任があるわけでもないよ」
「な……」

なんでお前がそんなことまで知ってるんだと、思ったことがそのまま顔に出た俺にリンは「何かで読んだ」と事も無げに言う。

「お前……本当に大丈夫なのか……」
「そんな顔しなくても大丈夫、ちょっと目眩がするだけだから」

リンは柔和に目を細め、ベッドの隣に座る俺の手を握った。
その表情こそ穏やかだが、目の下には濃い隈ができていて痛々しい。

「この話はまた今度にしよっか。ちょっと頭痛くなってくる話だし。私は全然大丈夫だけどね」
「……お前の言葉はなんにも信用ならねぇ」
「ひど。私別にそんなに嘘つきじゃないでしょ」
「大丈夫な根拠がねーんだよ。脳への負担って意味で考えたら、記憶をぶっ飛ばした時より今の方がよっぽど負担が大きいはずだろ」
「でも今は幸せだよ」

どういう返事だよ、噛み合わねぇな。
人が本気で心配してんのにさっきから笑ってばっかりいるんじゃねぇよ。

「記憶をなくす前のこと……ぼんやりとしか覚えてないんだけどさ。私はシカマルのことはもう好きじゃなくて、カツキさんのことが好きだと思ってたのね」
「……ああ」
「シカマルとのたくさんの思い出がカツキさんに書き換えられてたり、ありもしないカツキさんとの思い出がたくさんあったりしたの。けどシカマルが迎えに来てくれたあの時……え、これ全部私の妄想?嘘でしょ?こんなに幸せなのに全部まやかし??みたいな気持ちになって」
「…………」
「めっちゃくちゃショックだったの。幸せが偽りなのも、私にとって何が本当で何が偽物かはっきりしないことも。けど……そんな私でも確かにひとつわかることがあってさ」

リンは俺と繋いだ手と反対の手で目元を覆った。
涙を隠すようなその仕草にどきっとして、繋がった手を咄嗟に強く握った。

「私……その洗脳?だか催眠術だかにかかってる時に……」

先を言い淀むリンに、もしかしてカツキに何かされたんじゃないかと嫌な予感が頭をよぎった。
ありえない話じゃない。だけどずっと考えないようにしていた。そんなの想像するだけで腸が煮えくり返りそうになる。

「……怒らないでね」
「……ばか、お前に怒るわけねぇだろ」
「ごめんね。ごめん……私……十年かけて集めたシカマルコレクション、全部捨てちゃったのぉ……!」
「…………は?」
「あ、そういやシカマル知ってたっけ。そう、それで、あの時はもうまじなんで?なんで捨てた?ってなって、ショック過ぎて。頭の中真っ暗になったと思ったら記憶なかったよね……」

一体どんな話が出てくるのかと思えば……。
コレクションを捨てたことを謝る必要もなければそんなショックぐらいで記憶喪失になるわけもねぇだろ。
そう心底呆れ返ったが、捨てたコレクションのことを思い出してかリンがぐずぐずと本気で泣き出すので何も言えなかった。

なんか可哀想に見えてくるけど、俺の捨てたティッシュとか割り箸とかの話をしてるんだよな。

記憶喪失中は随分まともな人間になってたはずなのに、記憶が戻れば残念な収集癖も蘇ってしまうらしい。なぜなのか。

「えっとつまり、その……私の記憶喪失って、ただの現実逃避みたいなものだったのかも。だから今回は大丈夫だよ。コレクションはサクラが確保してくれてた分しか残ってないけど……ちゃんと幸せだし」

そんな馬鹿みたいな理論で俺を納得させようってのが本当に馬鹿の考えることすぎて、俺は反論する気力もなく笑った。

「幸せか」
「うん!シカマル、記憶のない私のこと、見捨てないでいてくれてありがとうね」
「当たり前だろ……」
「たくさんデートしてくれてありがとう」
「……リンも」
「ん?」
「もう一度俺を好きになってくれて、ありがとう」
「!」

そんなに意外な言葉かと問いたいぐらいにリンは目を真ん丸にした。
だってそうだろ。思い出の人でも味でも場所でもダメだった、そんなお前の記憶を取り戻せたきっかけがお前のその気持ちなんだから。

だけどそうか、何も今だけの話じゃない。
もう何年もずっとだ。ずっと変わらずにリンが俺を想い続けてくれていたから、だからその想いが記憶の軸になったんだ。

「……俺なんかのこと、ずっと好きでいてくれてありがとな」

ほとんど無意識のうちにそう呟いていた。
何年もリンの想いの上に胡座をかいて、特別だけど好きじゃないなんて無責任な言葉だけ投げつけて、中途半端な振る舞いばかりしてきた。いつ見限られたって、飽きられたっておかしくなかった。
だけどリンは、今でも変わらずにそばに居てくれる。

「……シカマル」
「……なんだ?」
「デレが多すぎて怖い……!なに?このあと何があるの?シカマル死ぬの?死んじゃやだよ!」
「……お前のそういうところ、まじでめんどくせぇ」
「ええ!?」

人が素直になったらなんでビビるんだよ。
……いや、まぁ俺の今までの行いのせいもあるかもそれないけど。

「シカマル……」
「なんだよ。別に死なねぇよ」
「私の方こそ、ずっとシカマルのこと好きでいさせてくれてありがとうね」
「は……」
「これからもずっと、ずっとずーっと、おばあちゃんとおじいちゃんになっても大好きだよ」

そう言ってはにかむリンはほんのりと頬を赤らめていた。
嫌味もトゲも何も無い、無邪気な言葉が逆に俺の胸を締め付ける。
なんだよ、『好きでいさせてくれて』って。ばかだな、中途半端な扱いされてきただけなんだぞ。怒るところだ。なんなら いのは既に何年も前から怒ってる。

「……俺ほどひでー男もなかなかいないだろうに、物好きな奴だな、ほんと」
「じゃあ物好き同士でお似合いってやつじゃん」

驚いた。自分を選ぶ男が物好きだって自覚があるらしい。記憶喪失で一時期だけでも常識人になってた怪我の功名だろうか。

「……ごめん、ちょっと目眩がひどくなってきたかも。少し寝る」
「ああ、ゆっくり休め。……落ち着いたらまたすぐ任務だ」
「げー……綱手様まじで人使い荒……」
「次の任務は俺と一緒だぞ」
「ええええ!?綱手様まじ神!」

すさまじいスピード感の手のひら返しにはめちゃくちゃ笑った。

「だからさっさと元気になれ」
「うん。楽しみだね」
「……起きたらまた記憶ないとか、絶対やめろよ」
「大丈夫だよ……もしそうなったとしても、私はまたシカマルのことを好きになるから」

そう言うのとほぼ同時にリンは眠りに落ちた。
大丈夫じゃねぇよ、やめろっつってんだろ。
心の中だけで悪態をついて、握っていたリンの手をそっと布団の中に入れる。

だけどそうだな、もしそうなったら俺だって、何度だってお前に好きだって伝える。
そして何度だって必ずお前を振り向かせてやるんだ。


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