目隠しを取った彼女の顔を見た瞬間、彼女に対する怒りというか憎しみというか、言葉では表現しきれない真っ黒な気持ちが湧き上がった。
かと思うと私は衝動的に目の前のガラスを殴りつけて、降り注ぐガラスからその身を腕で庇う彼女を冷ややかな目で見下ろしていた。
「私、次あなたに会ったら殺すって決めてたの」
理由も何も分からない。だけど確かなその気持ちだけが甦る。
ガラスを叩き割ったその手を私は太ももに伸ばす。
だけどその手は何も掴むことはなかった。
当然だ。私は何も持っていない。では私は何に手を伸ばしたのだろう。
不思議に思ってその手を見る。ガラスで切れたのか、血がぼたぼたと滴っていた。
「何言ってんだリン!そんで何してんだ!?」
焦った顔のシカマル君に押さえつけられたけど、そんなの私の方が聞きたいぐらいだった。
「シカマル君…あの人と付き合ってたの?」
「!?」
私を引っ張るシカマル君の表情がぐっと強ばった。
あの人への殺意は今の私の気持ちではない。なにせあの人自身のことは何も思い出せないままだ。
ならこれは過去の私の気持ち。
過去の私が殺意を抱くような人物なんて、シカマル君絡みしか考えられない。
「あの人のことが好きだった?」
だから過去の私は嫉妬して、あの人を殺そうとしてたんだろうか。
変態でストーカーな上に病んでいる。記憶喪失前の私はまじでとんでもないやつだ。
「ちがう!そうじゃねぇ!」
「ちがうの?」
「ちげぇよ!あの人は…」
てっきりそんなとこだろうと思ったのに否定された。
だけどその先の言葉をシカマル君は言い淀む。
「…後で全部話してやっから、とにかく先に手当すんぞ」
「…うん」
浮かない顔のシカマル君。
否定はすれど、なにかやましいことはあるみたいだ。
変態注意報 side リン拳の傷はそこそこ深いものの、骨にヒビなどは入っていないらしい。
それは幸いだったが綱手様にはしこたま叱られた。壊したガラス代は次の給料から引いとくと言われた。次の給料なんていつあるのかもわからないけど。
「最上ハルカへの殺意以外で、なにか思い出したことは?」
「特に何も…なんで殺意があったのかもわからないし。てかそれも八つ当たりな気しかしないから謝っといてもらっていいですか?」
「そうか…まぁ八つ当たりだったかどうかは保留にしとけ」
私の手に包帯を巻き終えると、綱手様はシカマル君と二人で病室を出ていった。
シカマル君も怒られてるかもしれん。私のせいでごめんな。
それからしばらくして、シカマル君だけが戻ってきた。
「…痛むか?」
「ううん、今は大丈夫。ごめんね、勝手なことして」
「わかってんならいい」
最上ハルカさんを前にした時のあの衝動はほんとにあの一瞬だけのもので、持続はしなかった。
今は既にあの時感じた自分の中の殺意もちゃんとは思い出せない。
あの時はまるで何かに体を乗っ取られたかのようだった。
「ねぇ、あの人はなんであんなところにいるの?私が何かしたの?けどそれならあっちにいるべきは私だよね?さっきは否定してたけど、シカマル君とあの人って…」
「おい待て。全部話すっつったろ」
次々に湧き出る疑問を矢継ぎ早に繰り出す私に、シカマル君はげんなり顔で手のひらを向けた。
「順を追って話すから、黙って聞いとけ」
それからシカマル君は私が記憶喪失になるに至った事の経緯を淡々と話してくれた。
小柳一族のこと。私のこと。蔵書の復元のこと。最上カツキさんのこと。ハルカさんのこと。私がまだ記憶を有していた最後の日、一体何があったのか。
「そんで俺は蔵書の復元作業をしているリンのところに駆けつけて…話をしたんだ。その途中でリンは気を失った。」
主観を省いて、客観的な事実だけを述べるシカマル君の話は頭のいい彼らしくまとまっていて、とてもわかりやすかった。
「なるほどねー…」
「別に隠してるつもりじゃなかったんだ。状況が落ち着き次第、少しずつ話していけばいいと思ってた。なんにもわかんねーうちから、こんなこと一気に話したって混乱するだけだろうから」
「うん、それは全然いいんだけど…」
理解はできたが、正直想像もつかなかった話ばかりで、今どんな気持ちでいればいいんだかわからない。
任務中の事故って、もっと単純なものだと思ってたのにめちゃくちゃ複雑じゃないか。すごい陰謀に巻き込まれとる。
シカマル君に絶大な信頼を置いている今だからこそ信じられるけど、そうじゃなかったらそれほんとに私の話ですか?ってなりそうだ。
話してくれた内容に対してもまだまだ疑問は湧いてくる。
だけど長らく抱えていた疑問が一つようやく解消した。
シカマル君がこんなに私に良くしてくれるのは、彼が変態好きのド変態だからでも、仕事熱心だからでも、聖人君子だからでもない。
私が記憶を失った一因に、彼がいたからだ。
やさしい彼のことだから、自分のせいだと思ってきっと自分を責めているんだ。
だから私に尽くして罪滅ぼしをして、たとえ戻ってくるのが自分の変態ストーカーだとしても、早く元に戻って欲しいと願っている。
なるほど合点がいった。これ以上納得できる理由もない。
隠してるつもりはないと言っていたが、やはり話すことに関して後ろめたい気持ちはあったんだろう。
ただ私に好かれていたせいで巻き込まれただけなのに、不必要な罪悪感を抱えるハメになるなんて…かわいそうに。
「シカマル君…ごめんね、私のせいで迷惑かけて」
「いや、それは…」
「シカマル君は何も悪くないんだよ、だからもう気にしないで」
「は…?」
寂しい気持ちもあるけれど、彼を私に縛り付けるのはもうやめよう。
「大丈夫、別に記憶が戻らなくたって私そんなに困らないから!ああ、その蔵書の復元とか、木の葉の里的には困るかもしれないけど…えっとそーゆーの置いといたとして、私の個人的な話で言えば小柳の家がどうとかはぶっちゃけもう何も思わないし、これから忍者に復帰する気もしないし…だから全然今のままでも生きていけるから、シカマル君は自分のこと責めたりしなくていいんだよ!」
シカマル君に気を使ったわけではなく、ただただ本心だった。
「むしろシカマル君にとっては自分のストーカーがいなくなってくれてハッピーって素直に思っていいよ!私だって正直これまで話に聞いてきたような自分に戻るのもどうかと思ってたし、第二の人生も全然ありじゃん?これからは普通に友達として仲良くしようよ!」
シカマル君に安心して欲しかった。笑ってほしかった。
だけどそんな思いとは裏腹に、シカマル君は今にも泣き出しそうな歪んだ顔をしていた。
「お前それ…本気で言ってんのか?」
震える唇を噛む彼を前に、そうだとはとてもじゃないが言えなかった。
何がまずかっただろう。私はまたなにをやらかしたんだろう。これがわからないから私は考えるのが不得意だとか言われるのか?
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
何か言い訳をしなきゃと思ったが、考えが言葉になる前にシカマル君は「今日はもう帰る。」と顔を俯かせて早足で病室を飛び出して行ってしまった。
「ちょ、シカマル君…!」
慌ててベッドから降りて廊下に出たが、手が怪我のせいで動かしづらく、おかげで布団をどかすのにもたついたせいか、見える範囲にすでにシカマル君の姿はなかった。
追いかけたところで、今の私の足では現役忍者のシカマル君に追いつけるわけもない。
咄嗟に私は部屋に戻り、窓を開けて身を乗り出した。
ここの窓は病院の出入口側。普通ならシカマル君もここを通るはず。
「シカマル君!」
予想通り病院から走り出てきた彼を見つけた。
この部屋は三階。今の私の声が聞こえないほどの距離じゃない。
けれどシカマル君は振り向いてすらくれなかった。
普通にショックだ。でもだからって、仕方ないなと諦められない。意を決して私は窓枠に足をかけた。
「シカマル君!忍者の私なら余裕だっただろうけど、今の私が無事着地できるかはわかんないからね!」
そう叫んで勢いのまま窓の外に飛び込んだ。
「ひっ…!」
記憶がないとは言え一応バリキャリ忍者なんだからなんだかんだ体が勝手に動くかと思ったのに、体より気持ちが勝ってしまったのか、三階ダイヴにすくみ上がった体は背中から真っ逆さまに落ちた。
「は!?ちょ、この馬鹿!!!」
シカマル君の焦った声が風の音と同時に耳に入った。
やっぱり私の声聞こえてたんじゃん!
恐怖にぎゅっと目を瞑る。
だけど地面にぶつかる衝撃がやってくることはなく、あったのは力強く抱きしめられる感覚だけだった。
ゆっくり目を開くと、とってもなにか言いたそうに眉間に皺を寄せるシカマル君と目が合った。
「わーーーー!怖かったー!」
「じゃあ飛び降りなんかすんじゃねぇ…まじでお前ってやつは……」
「あ、だってシカマル君がいきなり逃げるから!!」
抱きとめてもらっていた体が地面に降ろされた瞬間、私は自分が無謀な飛び降りに臨んだ理由を思い出した。
シカマル君が再び逃げ出さないよう、彼の腰にがっちり手を回して捕まえる。
「お、おい」と戸惑うシカマル君の声なんて無視だ無視!
「ねぇ私の何がだめだった?ちゃんと直すから教えてよ!何も言わずに出てくなんてひどいじゃん!私の事見捨てないで!」
「やめろその別れ際のカップルみたいなやつ!ここどこだと思ってんだ!病院の前だぞ!離れろ!」
「離れないいいいいい!」
「だー!もう!くそ!」
シカマル君は周りの「やだ、カップルの喧嘩よ」「彼女の方が引き止めてるわ」「ひどい男ね」みたいなざわざわが大変気になるらしい。
私は全然そんなのどうでもいいのでシカマル君にしがみついて粘っていたが、そのうち半ばやけくそ気味の彼に再び抱え上げられた。
「うわ!」
「じっとしてろ」
すぐに彼はぴょんぴょーんと軽やかに飛び上がり、気がつけば病院の屋上に降り立っていた。
こっちは三階ダイヴで死ぬかと思ったのに、忍者まじすごすぎる。
「ほら。もう逃げねーから、とりあえず離れろ」
「…ほんとに?離した瞬間こっから飛び降りて走ってかない?」
「そしたらお前もまた飛び降りてくんだろ」
「たしかに」
かなり怖いけどたぶんやるな。
納得はしたが油断はしない。しがみついていた腕こそ離したものの、いつでも手の届くような至近距離で留まった。
「シカマル君…傷つけちゃってごめんなさい」
「…もういいわ、俺も頭が冷えた。急に出てってわるかったな」
「ほんとだよ!なに?言いたいことあるなら言ってよ!びっくりするんだけど!」
「お前ほんとにごめんって思ってんのか!?」
「思ってるけど思ってないかも!だってなにがなんだかわかんないし!」
「はあー!?てめーこっちが引けば図に乗りやがって!目の前でキレそうになんのをなんっとか抑えて部屋出たってのに、結局怒らせたいんだなお前は!」
今までシカマル君に怒られたことは数あれど、ブチ切れられるのは初めてだった。
思わずちょっと怯んだけど負けない。
シカマル君にあんな顔をさせてしまった、その憤りを、痛みを、彼にだけ黙って飲み込ませるわけにはいかない。
「私…そんなに怒らせるようなこと言った?」
「そりゃそうだろ…!記憶が戻らなくていいだとか戻るのもどうかと思うだとか、俺に言うかよ普通…!」
「けどシカマル君が私に記憶を取り戻して欲しいのって、責任感じてるからでしょ?だから責任感じる必要はもうないよって言ってんじゃん」
私のことは気にせず自由になっていいよって、そういうつもりだったのに。
なぜだかシカマル君はとんでもない阿呆を見る目で私を見てきた。
「はあ…!?お前、俺が責任感だけでこんなにお前に尽くしてるって思ってんのかよ?」
「違うの…?」
「ちげーわばか!そりゃ責任感じてるってのも多少はあるけど…そんなもんよりずっと単純に、お前に記憶が戻ってほしいと思ってんだよ…!」
今にも泣き出しそうな彼の顔を見ると、心がずきりと痛んだ。
わからない。どうして彼がそんなことを願うのか。彼がとても友達思いだから?けど私は彼の悪質ストーカーなのに?
それどころかこんなめんどくさいことにまで巻き込んで、わけわかんないのに目をつけられて、危険な目にまで合わせてしまったのに。
心臓の鼓動が速まって、苦しくなる。
だけど彼の言葉が真実なら。彼のそれが責任感でないのなら。
やっぱり答えはひとつだよね?
それとも私が馬鹿だから、他の可能性がわからないの?
それでも私の中で欲しい答えはもう決まっていた。
これ以上求めるのは今の私には贅沢だと知りながら、期待を込めて彼を見る。
「でも…私が元に戻ったって、シカマル君いいことなくない?またストーカーされるよ?パンツ盗まれるよ?」
「…お前が戻ってきてくれるんなら、下着ぐらい何枚でもくれてやるよ」
疲れきった彼の自嘲的な笑みに、憂いを帯びた瞳に、勘違いでなければいいのにと願う。
「シカマル君って…私のこと好きなの?」
この前ナルト君にも同じことを聞いたはずなのに、あの時とは比べ物にならないぐらい、心臓がうるさくて仕方がない。
また怒られるだろうか。勘違いすんなって言われるだろうか。
だけどそんな心配をよそに、彼はやさしく私を抱きしめた。
「ああ…そうだよ」
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