変態注意報

リンちゃんが眠りについてしまってから、もう随分経った。
彼女の身に降りかかっていた不幸について、こんなことになるまでまったく気が付いていなかった自分をとても責めた。

けれどそんな気持ちも、シカマル君が背負うそれとは比べ物にならなかっただろう。
リンちゃんが目を覚まさなくなってからというもの、彼は日に日に目の下の隈を濃くしていた。


「シカマル君、ちゃんと食べてる…?気持ちはわかるけど、無理はダメだよ…リンちゃんならほら、きっともうすぐ『うーん、よく寝た!』なんて言って元気に目を覚ますから」

「ああ…ありがとうな、ヒナタ」


明らかに無理をして向けられた微笑みはあまりにも弱々しかった。
なんだかこのまま彼の方が消えてしまいそう。
シカマル君のためにも早く目を覚ましてほしいと、彼女の手を握っては願い続けた。



変態注意報 side ヒナタ



通い慣れた病室の扉を、いつものように三回ノックする。


「はーい、どうぞー」


今まではどれだけ待っても返事なんてなかった。
けれど今日は間延びした、なんとも彼女らしい返事がすんなり返ってきたものだから、私はうっかり扉の前で少し泣いてしまった。


「こんにちは…」

「こんにちは!」


リンちゃんはベッドの上に上半身を起こして座っていた。
奥には丸椅子に腰掛けたシカマル君もいる。


「えっと…私は日向ヒナタって言います。一応リンちゃんの、友達…です」

「ヒナタちゃんね。来てくれてありがとう!」

「一応ってなんだよ、一応って」


リンちゃんが目を覚ましたこと、けれど記憶を失ってしまっていたこと、すべてシカマル君が教えてくれた。
おそらくリンちゃんが目を覚ました当日に、彼は同期の家をすべて周ったに違いない。

「時間があったら会ってやってくれ。何か思い出せるきっかけになるかもしれねぇ」

そう伝えに来てくれたシカマル君はあの時ひどく暗い顔をしていたけれど、今日の彼はあの時よりもずっと晴れやかな顔をしている。
いや、あの時よりというより、ここ最近で断トツ元気な顔をしている。リンちゃんが眠りについてしまう前、偶然街で会ったあの時とも比べ物にならないぐらい。

リンちゃんがあまりにもリンちゃんだからだろうか。
記憶喪失なんてと、私も話を聞いた時からずっと悲観的だったけど、今目の前にいるリンちゃんは想像していた何倍も明るくて元気そうに見える。
記憶がないなんて思えないぐらい、リンちゃんだ。
別に安心できる状況でもないはずなのに、妙にほっとしてしまった。


「あ、これ、お見舞い…よかったら食べて」

「お菓子だ!ありがとうー」

「あ、食べられそう?食事制限とか…」

「全然大丈夫!」

「こいつ、一ヶ月空っぽだった胃袋がびっくりするからいきなりなんでもかんでも食うなって言われてたのに、昨日一日でそこにあったフルーツだの菓子だの全部食い切っちまったんだぜ」

「だってお腹減ってたんだもん。どれも美味しかったし」

「…ふふ」


リンちゃんとシカマル君のやり取りがとても自然で、どう見ても今まで通りで、嬉しかった。
私をヒナタ“ちゃん”と呼ぶリンちゃんは記憶喪失に間違いないのだろうけど、もはや生きてさえいてくれるなら私のことなんて覚えてなくても思い出さなくてもなんでもいい。
…嘘、本当は思い出してほしいけど。
でもそれよりも、この二人が笑って一緒にいられることの方が私にとっては何倍も大切だと思える。


「あとこれ…ずっと渡したかったの。渡せる日が来て本当に良かった。」


ベッドの手前の椅子に座って、持ってきていた一枚の写真をリンちゃんに差し出した。
一ヶ月前、シカマル君に渡そうとして断られてしまったあの写真。
リンちゃんにとってはきっと大事な宝物のひとつ。
風に飛ばされて遠くへ行ってしまわなくてよかった。彼女の手に戻すことが出来てよかった。
あわよくばこれが何か、彼女の記憶の欠片に繋がってくれないだろうか。


「これ…シカマル君と私?若いねー!」

「そうだね。アカデミーの校舎の前で…リンちゃんに頼まれて、私が撮ったの」

「え?これヒナタが撮ったのか」

「そうだよ。忘れちゃったの?この日リンちゃん誕生日で…シカマル君に何かプレゼントちょうだいって朝からゴネ倒して…」



『だからなんも持ってねーっつってんだろうが!』

『噛んだ後のガムとかでいいよ!はい!ガム持ってるから!噛んで!』

『気持ちわりーんだよクソが!だれが人にやる目的でガムなんか噛むか!』

『じゃあ今履いてるパンツ…』

『死ね!』

『じゃあじゃあじゃあじゃあ、写真!写真撮って!』

『写真?』

『うん、ツーショット写真!それならいいでしょ?ねーヒナタ、写真撮ってー!超ラブラブに見える感じで!』

『ええ…それは難易度高いよ…』

『…チッ、めんどくせーな…』



「あー、そういえばそんなことあったような気がすんな…」

「リンちゃんすっごく喜んでたよね。覚えてない?」

「いや、待って?ちょっと待って?え?なに?私なんでシカマル君が噛んだ後のガム欲しがってんの?どういうこと?」

「「……………」」


いや、うん…そっか、そうなるのか…


「どういうことかは、私にもちょっと…その…ねぇ…」

「わかってたら苦労しねぇよ」

「なんなのそれ!?私ってやばいやつなの!?ちょっと!目逸らさないでよ!」


記憶喪失って難しいな、そっか、今のリンちゃんは人の噛んだガムを欲しがる人間はやばいやつだってまともな判断ができるのか。
自分が長年シカマル君の激重強火ストーカーだったなんて知ったら、ショックでまた気をやってしまうかもしれない。
今日はいろんな話をしようと思ってたけど、まだしばらくここらへんのエピソードは隠しておいた方がよさそうかも…

…けどリンちゃんがシカマル君を好きだったっていう、それすらもシカマル君はリンちゃんに伝えていないのか。
ならたぶんシカマル君のリンちゃんへの気持ちも伝えていないんだろうな。
もちろん今の彼女に伝えたって仕方ないってのはあると思う。
だけど…シカマル君の気持ちを思うとあまりにも切ない。
傍目には今までと変わらない二人に見えるけど、根本的なところはまったく違うんだ。


「ねぇヒナタちゃん…」

「なあに?」

「私ってヒナタちゃんにも噛んだガムおねだりしたの?」

「…ううん、私はされなかったよ」

「そっか…!よかった…!」


噛んだ後のガムの話から、それがリンちゃんなりの淡い恋心の形だったのだとはさすがに連想できないだろうか。

気づいて欲しいけどとても私からは言えない。
リンちゃんのアプローチ方法はたしかに独特で変わってて、いつ一線を超えるかはらはらする時もあったけど…そんな素直で真っ直ぐなところが私は大好きだったよ。


「ヒナタちゃん。写真、持ってきてくれてありがとうね」


幸せそうなリンちゃんと、鬱陶しそうな顔をしたシカマル君。
そんな二人の写真を見て、今のリンちゃんが何を感じるのかはわからない。
けれど彼女も気づいているように思う。


「ねぇシカマル君、私これ飾りたいから写真立てが欲しい」

「はあ…?…わーったよ、めんどくせーけど明日持ってきてやる」

「ありがとう!」


その写真の時とは違って、今のリンちゃんを見つめるシカマル君の瞳がとても穏やかなこと。それでいてどこか物悲しそうなこと。
だからこそ彼女は、今もこうして無邪気な顔で笑うんだろう。


神様、リンちゃんの目を覚まさせてくれてありがとうございます。
明るい太陽のような、きらきらしたリンちゃんのままでいさせてくれてありがとうございます。

だけどあともう一つ、どうかこの願いを聞いてください。
どうか、どうかリンちゃんが、シカマル君への恋心を思い出せますように。



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