変態注意報

リンはまるで普通に眠っているだけのように見えるのに、声をかけても体を揺すっても、何日経っても目を覚まさなかった。

軽率な行動をした自分を責めなかった日は無い。
来る日も来る日も病室へ足を運んでは花瓶の水を替え、聞こえもしないのに名前を呼んだ。

こんなことならあの日リンの前になんか行くんじゃなかった。
もう一度好かれたいなんて願うんじゃなかった。
好きだなんて告げるんじゃなかった。
もう何度そう思ったかわからない。

もはや悲しみも憤りも超えた虚無の心境で、その日もリンの病室を訪れた。
声をかけたところでどうせ返事は無いので勝手に扉を開く。

ガラリ。

いつもは腕ひとつ動かさずにベッドに横たわっていたリンが、上半身を起こしてこちらを見ていた。
黒いガラス玉のような目と視線がかち合う。

ドサッ。

手にしていた、りんごの入った紙袋を思わず地面に落とした。


「リン…!?」


考えるより先に、衝動的にリンの体を抱きしめていた。
もう一生目覚めないんじゃないかと、そんな考えに囚われて眠れなかった夜も数え切れない。
よかった。よかった。生きてる。ちゃんとリンが動いてる。洗脳前の状態か後の状態かとか問題もあるけどとにかくなんだっていい。目覚めてくれただけでもう十分だ。


「心配かけやがって…!お前自分がどういう状況かわかってるか!?もう一ヶ月も眠りっぱなしだったんだぞ!このねぼすけ!」


それでもこんな時でさえ俺は素直になれず、そんな悪態ばかりが口をついて出た。
当たり前だが俺の台詞にリンは目を丸くする。


「一ヶ月も…!?そうなんだ…なんか病気とか…?事故?」

「覚えてないのか?俺と話をしてる最中に、急に苦しみだして倒れたんだ」

「ふむ。なるほど…」


なんだかわざとらしく顎に手を添えて考え込む振りをする、そんなリンの反応に違和感を覚えた。
俺が好きだと泣いて言ったリンとは程遠い。
かと言ってもう関わらないでだなんだと叫んで俺を睨みつけていたリンとも違う。


「…お前どこまでなら覚えてる?」

「え」

「最後の記憶はなんだ?」

「えーと…」


やけに言い淀むリンに嫌な予感がした。


「おい、リン。聞いてんのか?」


早く答えてほしい。
俺のこの最悪のパターンを想定しがちな思考回路をもう一度打ち砕いて欲しい。

けれど俺のその願いは無惨に散る。


「あー…そのリンってのが、私の名前なのかな?ごめん!なーんも思い出せないの!ほんとにごめんね!あの、たぶん寝ぼけてるんだと思うの!だからそのうち思い出せると思うけど、一応あなたの名前、教えてもらってもいい…?」


…寝ぼけて自分の名前や惚れた男の名前を忘れる奴がどこにいるんだ。
記憶が無いのに相変わらず馬鹿って、なんなんだよお前。

目覚めてくれただけで十分だと、確かにそう思ったはずなのに…
つい先程までの喜びを余裕で吹き飛ばす、これまでとはまた違う絶望に襲われて、もういっそ今度は俺が意識を飛ばしたいぐらいだった。



変態注意報 side シカマル



リンは自分が誰かもここがどこかも、俺についても友人たちについても一切覚えていなかったが、文字の読み方や言葉の意味、箸だの筆だのの使い方など、日常生活に必要な知識や体の動かし方は覚えていた。
つまりリンから抜けていたのは所謂“思い出”にあたるもので、一応これからの生活がままならなくなるような記憶喪失でないことだけが不幸中の微かな幸いと言えそうだった。

しかしこんだけ長期の記憶を吹っ飛ばすような記憶喪失なんて、そうそうあるもんじゃない。
確立した治療法と言えるようなものはほぼ無いに等しく、これから記憶が戻るかどうかは誰にもわからないとのことだ。

リンと共に綱手様からそう話を聞きながら、俺は眩暈と吐き気を堪えるのに精一杯だった。
…だというのに、俺の隣の当の本人はというとケロッとした、事の深刻さをまったく理解していない顔で「ふーん」となんとも間抜けな相槌を打っている。
なんか記憶はなくてもリンはリンかと、安心するような、こっちの身にもなれと恨めしいような。


「大事なのは追体験だ」

「追体験?」

「ああ。まだしばらく入院はしてもらうし、そうだな、あと三日ほどは安静にしてた方がいいだろうが…その後は外出について制限しない。だからいろんなところへ行って、いろんな人間に会え。そして記憶喪失になる前のお前が、何を見て、何に触れ、何を感じていたのか…その身で体験してこい。どこかにお前の記憶の欠片があれば、そのうち何か思い出すかもしれない。」


逆に言えばそれぐらいしか手立てがないということだ。
俺はあれやこれやとリンの縁の場所や人を片っ端から思い浮かべる。三日後と言わず今すぐにでも連れ出したい。


「ただ一応、一人ではふらふらするな。…シカマル、しばらくお前はリンのそばにいてやれ。」

「…わかりました。」


助かった、休職願いを提出する手間が省けた。

帰り際、明日持ってきてやろうと何か必要なものがないかリンに尋ねると、暇つぶしになるものが欲しいと言われた。


「私って何が好きだったかわかる?」


俺。

…いや、事実に違いないがあまりにも馬鹿みたいな返答だ。

お前は俺の部屋に不法侵入して空気だの髪の毛だの集めるのが趣味で、他にも俺を模した人形や俺の体臭に近い匂いの香水を作ることに精を出してて、そんななんやかんやを集めたコレクション部屋は八部屋以上あって、さらに聞いたところによると俺のポスターだの日めくりカレンダーだのを自作してそれに囲まれて生活するのが至福だったそうだぜ!

なんてのは記憶喪失中の人間に伝えるには刺激が強すぎるし、そもそもそれを口にしたが最後俺の方が異常者扱いされそうだ。
間違いなくすべて事実なんだが。


「…本を読むこと、とか」


いろんなことに配慮した結果、めちゃめちゃ無難なところに落ち着かせたみたいになってしまった。


「へー、どんな本?」


知らねーよ!
ばかでけー書庫の端から端までの本全部読むようなやつなんだよお前は!
そのくせ内容はほとんど理解してねーからロクなことを覚えちゃいねぇ!
しかも本を読むのが好きだって昔言ってたのは事実だが、今思うにその『好き』は本を読むことで小柳の役目を果たせるっていう意味で、リンのコンプレックスをカバーするための道具のような認識での『好き』だっただろうし、本の中身のほとんどを視覚情報でしか捉えてないってところからも、読書という行為そのものを楽しんでいたとは到底思えないんだよ!

…なんてことも今のリンに言ってどうするって話だろう…
なんだこいつ…なんでリンのことなのにリンに言えないことがこんなにあるんだ…


「あー…じゃあなんでもいいや。シカマル君のおすすめでよろしく!」


俺に気を使ったのか、それとも面倒になったのか、最終的にはそれで落ち着いた。

そういうことならと、翌日俺は自分の将棋盤と駒を持ち込んだ。あと以前のリンは一応将棋のルールがわかっているみたいだったが、このリンがそれを覚えているのかわからなかったので図書館で数冊の指南書を借りてきた。

俺のおすすめで何を期待していたかは知らないが、リンはそれらを見るなり怪訝な顔をする。まぁ大体の女はやらねーよな、将棋。
しかしリンは特に文句を言うことはなく、素直に俺が渡した指南書を手に取るとぱらぱらと開いて読み始めた。
いや、とても読んでいるスピードには思えなかった。確実に一枚ずつページをめくってはいるが、常に一瞬それを目に留めるだけに過ぎない。
仮にその作業でその本の絵面を記憶しているのだとしても、それだと内容の理解までは及ばないはずだった。理解する気がないのか?それともルールは覚えてたのか?
そんな到底読書とは言えなさそうな作業を数冊分終えるのに、大した時間はかからなかった。
リンは最後の本を閉じるとそれをベッドの端へ放って、俺が盤面に並べていた駒を勝手にひとつ手に取った。


「…よし!じゃあ私が先手ね!」


やっぱり当たり前のようにこいつは先手を取るな。別にいいけど。先手がわずかに有利だってこと、わかっててやってんだか知らずにやってんだか。


「…もういいのか?」

「うん。もう大体わかった。」


こいつが将棋のルールを理解するための時間としては不十分だっただろう。
ならきっと覚えてたんだ。
じゃあ俺と将棋を打ったことは?そもそも俺のために将棋の勉強をしたんだということは?思い出さないのか?

…何も言わないということは、思い出したことは何も無いんだろう。わかってる。そんな楽な道のりのはずがない。
そう、期待しすぎてはいけない。期待した分あとでまた落とされる。こいつの常套手段だ。

だけどリンはまるでそんな俺をからかうかのように、俺がリンに初めて敗北した、あの日とまったく同じ手を打ってきた。
俺がリンに負けるなんてとあれは数日引きずったし、なぜ負けたのかとあの対局について後々復習もしたから、あの時のリンの手は今でもよく覚えている。

俺もわざとあの日と同じ手を打ち続けた。
負けるとわかっている分岐点でも。


「…詰みだ」

「え?だれが?私が?」

「…俺が」

「まじ?ほんと?私の勝ちってこと?やったー!」


あの日と同じだ。やっぱりリンは盤面の戦況なんてロクに理解しちゃいない。


「…自分で指したくせに勝敗もわかんねーのかよ」


リンの様子を見るに、この対局がまさしく追体験だなんてのはわかっていないんだろう。
覚えていた自覚も思い出した自覚もないだろう。

ただ俺の心は少しだけ軽くなった。
記憶喪失って言ったって、別に記憶が消えたわけじゃない。
しまった場所がわからなくなっただけみたいなもんだと、そう感じた。

真っ暗だと思っていた道に、小さなあかりが灯ったようだった。


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