02

露草より先に仕事を終えた修兵は買い物をし、自宅で料理をしながら彼女を待っていた。

こういう時、修兵はつくづく『副隊長やってて良かったな』なんて考える。
隊舎の外に住処を与えてもらえるのは九席以上からだ。
それも希望すればの話で、大体の独り身の死神は隊舎に住む。かつては修兵もそうだった。
しかし隊舎内の私室では憚られるような“いざという時”のために数年前にこの部屋を手に入れた。
今ほど過去のその自分の判断をありがたく思うことはない。
いくらひっそり隊公認のカップルとはいえ、隊舎内で私室に隊長を連れ込むなんて、さすがにそんなことできるわけもない。
本当に隊舎外に部屋があってよかった。副隊長やっててよかった。

隊舎外の住居とはいえ、隊舎からは目と鼻の先だ。
露草ももうそろそろ仕事は終わっただろうかと、出来上がった料理をいつも使っている小さなちゃぶ台に並べていく。
その時丁度呼び鈴が鳴って、扉を開けに行くとなんだか妙ににまにまとした笑顔を携えた恋人がそこにいた。

「よかった、今日は居留守されなくて!」
「…あ、当たり前だろ…」

今までその話を蒸し返されたことはなかったが、一応根に持っていたらしい。

「おじゃましまーす」

緊張感の欠片もない、軽い足取りで部屋へと上がる露草はやはりいつも通り、付き合う前と何一つ変わらなかった。
居留守を使ったことも忘れてないんだから、好きだと伝えたことももちろん忘れられてないはずなのに、なぜこうも何も変わらないんだろうか。
これが信頼というやつか?じゃあ俺は一体いつなら手を出してもいいんだ?

仮にも上司と部下。仮にも前科一犯。ボタンのかけ違えは二度とごめんだ。
露草の背後で、修兵はひっそりと肩を落とした。


修兵の料理を最大限おいしく食べるために今日はおやつを我慢した!と得意げな露草。
振る舞われた料理はべた褒めしながら平らげ、デザートまできっちり味わった後、満足そうに食後の茶を啜った。

「修兵また料理の腕上げたよね!おいしかったー」
「またいつでも作ってやるよ」

これは下心なしの本心だった。
これだけ喜んでもらえるならまったくもって悪い気はしない。

「うれしい!ほんとはね、次いつ誘ってくれるかなって思ってたんだー…」

思いもよらぬ言葉に修兵は多少驚いた。
食い気だけで言っているのではないと、そんな気がする。

「私から誘うと、なんかがっついてるみたいじゃん?」
「…ぶ!はははははは!」
「な、なに!?そんな笑う!?」
「いや、わるい、まさかお前がそんなこと考えてたとは…」

相変わらず読めない彼女だった。
もうそこそこの付き合いになって、結構彼女のことはわかったつもりでいたものの、そうでもないようだ。
読ませないようにしているのか、意図せずなのかもわからない。

「…一応聞くけど、がっついてるってどういう意味で?」
「え、なんか、その、あれ、」

露草の顔が赤く染まって、めずらしくその先の台詞はひどく言い淀んでいるようだった。
もじもじと手の中の湯のみを指先で弄び、どうにかこの質問を逃れられないだろうかと考えている様子。
わかっていて修兵は助け舟を出さなかった。ここ最近のうちで今が一番楽しい。

少しの間逡巡していた露草だが、何か観念したかのように、心の拠り所にしていた湯呑みをちゃぶ台に置くと、そろそろと修兵の隣に寄り添って彼の肩に頭を預けた。

ほんの少し前まで甘い雰囲気も色っぽい雰囲気も1ミリたりとも存在しなかったのに、これは一体何がどうなった。
修兵は自分が煽った結果であるにも関わらず内心焦り倒した。

「私…ずっと前から修兵のことが好きだったけど、まさか修兵からもそういう気持ちを返して貰える日がくるなんて夢にも思ってなくて、ていうか今も夢みたいで」

露草にとっても、傍にいられるだけで十分だった。この状況はなんだか宝くじに当たったかのような降って湧いた幸運で、未だに信じきれない気持ちでいる。

「なんかいろいろ欲を出すとバチが当たるんじゃないかってぐらい今とっても幸せなんだけど…」

修兵はニヤけるのを抑えられない口元を片手で覆った。
なんだ、俺めちゃくちゃ愛されてるじゃん。

片思い歴三十年なんて、その気持ちは長命の死神といえどはっきり言って想像もつかない。思いが通じたからといって、すぐに何かを切り替えられるようなものでもないのだろう。

「けど…その…」

下心だらけなのが自分だけじゃなくてよかったと、修兵は次に続くであろう露草の“欲”とやらに期待する。

「今みたいに二人っきりだったら、その…」
「ああ」
「て、手とか繋いじゃったりしても、いいのかなって…!!」

…手。

手を、繋ぐ。

「いやいやいやいや!おま、手ぐらい付き合う前だって繋いだことあっただろ!お前が入院した時とか、脱走した時とか、てかそもそもおんぶだの抱っこだのも平然としてたくせに…!」
「平然と!見えるようにしてたんでしょうが!もうずっと!ずーっと!うざがられないようにキモがられないように、いつだって心を律して生きてんだよ!片思いなんてろくにしたこともないような奴にはこの気持ちはわかんないだろうけどね!?」
「お、俺だって片思いぐらいしたことはある!」
「う゛。そ、そうなんだ…」

真っ赤な顔で凄んだ割に、最終的に落ち込んで引き下がって行った。余計なことを言った感が否めない。
…いや、そうじゃねぇだろ、今言いたいのはそんなことじゃなくて。

修兵は露草の膝の上に置かれた手をぎゅっと握ると、驚いて修兵を見上げた彼女の顔をまっすぐに見つめた。

「手を繋ぐとか、欲のうちに入んねーよ、ばか」

握った手を持ち上げて、その指先に口付ける。
大袈裟に肩をびくりと震わせて、再び顔を真っ赤にした露草のその反応はまるで十代の少女のようだった。

「し、自然の流れで繋ぐのと、繋ぎたいと思って繋ぐのは下心の度合いが全然違うもん…!」
「…じゃあ俺は正真正銘下心まみれだ」
「え…」
「手ぇどころじゃなくて、俺はお前の全身に触れたいし、キスだってしたいし…お前の全部を俺のもんにしたいよ」

これが“欲”ってもんだろ。

修兵の目に本気を見たのか、露草は目を驚きに見開きながら、無意識に体を後ろに引いた。
しかし修兵は目ざとくそれを見つけ、繋いだ手とは反対の腕で彼女の腰を抱き寄せた。

「っ…!」

露草が息を飲んだのがわかった。
何かを言いたげに開かれた口は何度も開いては閉じてを繰り返すばかりで、酸欠の魚のようだった。
やはり初々しいにも程がある反応だ。正確な年齢はわからないとはいえ、もうそれなりの歳には違いないのに。あまりにも長い片思いをこじらせた結果だろうか。
修兵自身はこれまでの人生でそれなりに恋愛もし、数人と関係を持ったこともあるが、こんなに不慣れな様子の女を相手にするのは初めてだった。
だからこそ今初めて気づいた。大切にしたい思いとは裏腹に、こんなにも加虐心が煽られるものかと。

「…にしたって、いろいろ今更じゃねぇか?キスだってしたことあるのに」
「あ、あれは修兵が勝手にしたんでしょ!あの時点で私のキャパなんてとっくに超えてたよ!」

羞恥心で顔を合わせることもできず、露草は修兵の胸元に顔を埋めた。
露草としては、今日は手を繋いだり、あわよくば抱きしめてもらったり、そんな時間が過ごせたらうれしいなぁなんて思っていた。
思ってはいたけど、その時の自分がこんなことになるなんて想像もしなかった。
頭に血が上って、山頂かってぐらい息苦しくて、修兵は少し知らない人みたい。

「き、今日はもう帰る…!」
「なんで」
「こ、このままだと死ぬ…!」

露草はいたって本気だったが、修兵は「死なねーよ」と軽く笑った。

「死ぬ!絶対死ぬ!心臓破裂して死ぬ!もしくは脳の血管が破裂して死ぬ!」

顔は俯けたまま、ぷるぷるといつもの3割も力の入らない腕で修兵の胸板を押す。
しかしそんな力では修兵はびくともしない。
それどころかそのまま修兵に抱きすくめられ、脳内は盛大にパニックに陥った。
もう自分の言っていることもこの状況もあまりにも恥ずかしくていっそ死んでしまいたい。露草の瞳には恥ずかしさのあまり生理的な涙が滲んだ。

口では元気に叫びながらも体に力の入らない様子の彼女を眺め、修兵はちょっとした優越感に浸っていた。
悶々とした自分の隣でいつもあんなに飄々としていた彼女が、なぜかこんなにも取り乱して自分の腕の中から逃げようとしている。
修兵にはそれがたまらなく、かわいくて仕方がなかった。

「なぁ、キスだけでもだめ?」

それ以上のことはもちろんしたいが、こんな状態の露草相手にそれを強いるのはさすがに難しい。
けれどこのまま、はい さよなら、だって拷問に近いものがある。
修兵にとっては最大限の譲歩だった。
しかし露草にとっては、大きすぎる一歩だ。

「き、ききき、とか、そんなの無理でしょ今私がどうなってるかわかんない!?」

キスという単語すら口に出すのは憚られるらしい。
とにかく顔を上げることが出来ないまま微かな抵抗だけを続ける露草。むしろなぜ修兵が平気なのか不思議で仕方ない。

「…そうやって拒絶ばっかされてると、さすがに傷つくんだけど」
「あ…」

自分のことでいっぱいいっぱいで、たしかに修兵の気持ちまで考えられていなかった、と露草は思った。
幸い修兵は怒るでも悲しむでもなく、少し拗ねたぐらいの声色だったが、露草が自分の言葉を振り返って反省するには十分だった。

「ごめん…」
「キスしてくれたら許すよ」

調子に乗りやがって!!

「俺は露草が好きだからキスしたい。露草は?無理なのは、恥ずかしいからってだけか?」
「は、恥ずかしいとかってレベルじゃないの、心臓が口から出そうなの!」

わかんないの?心臓口から出たら死んじゃうんだよ?修兵は私が死んでもいいの?恥ずか死なんて、葬式でまで辱められるような死に方いやなんだけど!

冷静に考えて心臓は口からは出ないが、この時の露草は真剣だった。
いやむしろ体全部が心臓になったみたいだ。見られるのも触られるのも恥ずかしい。
相手が三十年以上も想い続けた相手だからというのももちろんそうだが、そもそも異性とこういった関係になること自体初めてだから耐性がまるでない。
二百余年生きてるくせにそんな寂しいことがあるのかと自分でも信じられないが、なにせ人生の大半を仕事に捧げてきた。そしてその時間の多くが孤独だった。
今とはギャップが大きすぎる。

きっと時間が必要なのだ。
百年以上孤独だった。三十年以上想ってきた。なら今この幸運を受け止めるとするならば、そのためには…

「せめて三年ぐらい待って欲しい…!」
「待てるか!!」

気の長すぎる話だ。いくら過去と同じ轍は踏むまいと思っていようとも、そんなにプラトニックに生きられるほど修兵は男を捨てていない。
修兵は長く深いため息をついて、露草を抱きしめる手にわずかに力を込めた。

「…露草は俺の事が好きなんだよな?」
「す、好きだよ!けどそれとこれとは話が別…!」

腕の中で耳まで真っ赤にしている露草を眺めた。
こんなに傍にいて、こんなに無防備で、三年も待てるわけがない。
ならもうこれは、露草の方に諦めてもらうか、耐性つけてもらうしかないよな?

「露草」

露草の耳のすぐ側で修兵が囁いた。

「選んで」

ぞわりと甘い痺れが露草の耳から脳を巡って腰へ伝う。

「素直にキスされるか、無理やりされるか」


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