06

「おい露草、鍵」
「ん、んー…」

修兵の背に揺られるうち、露草はいつの間にか眠りに落ちていたようだった。
寝ぼけまなこで懐から家の鍵を取り出し、修兵に手渡す。
そこでハッと我に返った。

「待って!あとはもう大丈夫だから!ありがとう!」
「うわっ、急に暴れんな!布団まで運んでやるからじっとしろ!」
「いや、いい!いいから!」

思えば修兵がここまで露草を送ってきたことは何度かあるが、家にあげてもらったことは一度もなかった。
露草のことだ、送り狼を警戒するなんて頭はなさそうだし、ここまで拒絶するというのはつまり…

「もしあれだったら掃除もして帰ってやるから安心しろ!」
「え、なに、そうじ!?」

中は相当なゴミ屋敷なのかもしれない。
修兵は怖いもの見たさもあり、背中の露草の制止も振り切り戸を開けた。

「ちょ!だめ、見るな!」
「…なんだこれ…」

扉を開いた途端ゴミの山…という光景を想像していたが、真逆も真逆。
扉の先にはまるで何も無かった。
隊長ともなれば副隊長よりもさらに立派な邸宅があたえられる。普通なら使用人を雇って、それなりの生活をしてていいはずだ。
しかし…玄関から一番近い部屋の隅に、おそらく万年床であろう布団が一組。
この家にあるのはそれだけだった。

「…退去前?」
「…いや、別に引っ越さないし…」

制止を諦めて大人しくなった露草を背に屋敷を歩き回ったものの、やはり布団以外のものが何も見当たらない。
この家に本当に人が住んでいるのかと、そう思わせるぐらい生活感がなさすぎる。
修兵自身も自分の家を持て余しがちではあったが、そんなの比にならないのがよくわかった。

「これで一体どうやって生活してんだ…?」
「別に…家なんて寝るだけのところだし、てか隊首室で寝泊まりしてることの方が多いし…」

たしかに隊首室の方がお菓子のゴミが落ちてたりして生活感はある。
修兵はとりあえず露草を布団の上におろしたが、あまりに何も無さすぎる部屋ではそれ以上に世話の焼き用もなかった。

「あー…水は飲んだ方がいいよな。コップは…」
「…ないんじゃないかな…」

ばかじゃねーのか。

結局唯一見つかった茶碗に水を汲んで事なきを得たが、茶碗はあれど米も箸もないのが気になるところだ。
まさか自分の彼女がこんなミニマリスト生活をしているとは思いもしなかった。なんとなく生活力に欠ける面があるのは知っていたが、これは生活力どうこう以前の問題じゃないか。

「…引いた?」
「ドン引きだ」

さすがにヤバい自覚はあったのだろう。どうりで家に入られるのをあんなに嫌がったわけだ。

「普通に不便だろ?なんでこうなるんだ?金が無いのか?」
「いや…現世にいた頃もずっと根無し草生活だったし、雨風しのげりゃそれで十分というか…あ!お菓子は台所の戸棚に入ってるよ!食べー…ないよね」

はは。と露草は乾いた笑いを漏らす。
せっかく好きだと言ってもらえたのに、こんな女じゃあもうフラれるかもしれない。料理もしないしお茶もお華もしないし家にはぬいぐるみどころかコップすらないし。
正直露草は修兵が自分のどこを好いてくれているのかもわからないため、常々不安を感じていた。

…せめてコップだけでも買ってたらフラれずに済んだかな…

露草の瞳にじわりと涙が浮かんだ。
もうなぜかフラれるつもりでいる。随分落ち着いたように見える彼女だが実はまだ酔いは覚めていなかった。

「不便じゃないならいいけどよ…せめて湯呑みぐらい買えよな。じゃあ俺はそろそろ帰るから。ゆっくり寝ろよ」
「え!」

立ち去ろうとする修兵の着物の裾を露草は咄嗟に掴んだ。
速攻でフラれるのは免れたようだが、今ここでこのまま彼を帰してはいけないような気がした。
ただの勘のためその先のプランはないし、まず経験値ゼロの脳がもたらしたその勘は大きく的を外してもいるが。

「もう…帰っちゃうの…?」

一方まさかこの何も無い部屋で引き止められるとは思っていなかった修兵は戸惑っていた。
むしろ帰らなくていいのか…?

「いた方がいいなら、いるけど…」
「じゃあ…もうちょっと話でもしない…?」
「お、おう…」

もうかなり平気そうに見えたけど、トラウマを思い出したばかりだしやっぱりまだ不安なんだろうか。
露草の的外れ思考など知る訳もなく、修兵は少し神妙な面持ちになった。

しかし留まろうにもこの部屋には布団しかない。
椅子もなけりゃ座布団もなく、修兵は少し迷って布団の傍の床に直接座った。

「床冷たくない?こっち座っていいよ」

露草は自分の隣をぽんぽんと叩いた。
当然それは布団の上である。
仮にもお付き合いをしている妙齢の男女が二人で一つの布団の上に?それはいいのか?
キス一つであれだけ騒いだ女の所業とは思えない…
いや、だからこそか。床は冷たいから布団の方がいい。本気でそれしか考えてないんだ。

「修兵?」
「…じゃあお言葉に甘えて」

別に床で全然よかったが、修兵は己の下心を捨てて、不安気な露草に寄り添うことを選んだ。
そして露草と肩を並べて座ったものの、あまりに何も無い部屋には視線の所在もない。この距離で露草のことをジロジロ見るのも当然躊躇われる。
修兵は仕方なく柱の木目を眺め、今度露草の日用品を一緒に買いに行かなきゃなぁなどと考えた。

話でも、と言った割に露草からその後話を振られることはなかった。
時計さえない部屋では秒針の音もなく、ひたすらに無音の時間が流れるばかりで修兵は焦った。
二人の交際期間はまだそこまで長くないものの、隊長副隊長としてはそこそこの時間を過ごしてきた。今更沈黙が気まずいということは普段は無いのだが、場所が露草の部屋でさらに布団の上となればいつもとはやはり勝手が違う。

手を出してもいいのなら、何も悩むことはないのだけど。
手を出してまずい関係ではないし、状況的に見ても普通なら手を出す。けれど相手は弱った女。ここでサカるなんて男じゃない、と己を律す。

「…修兵、私修兵が好き」

修兵の葛藤などいざ知らず、今にもフラれるかもしれないと明後日の方向の葛藤を抱える露草はそう言って修兵の肩にもたれかかった。
しばらく考えても気持ちの引き止め方なんてわからなかった。ただ正直な自分の気持ちを伝えるぐらいしか。

そしてその時の修兵はというと、
ここでサカれば男じゃない?
いや、据え膳食わねば男の恥?
突然の告白の意味を測りかねていた。

「さ、さっきも聞いたって。俺は露草が思ってるほど、そんな大層な奴じゃねぇけど…」

これはもしかすると誘われてる?まさか?手、出していいのか?いいのか?あとでまた泣かれねーか?
修兵はいろんな意味でドキドキしていた。

「…重いだろうけど、ほんとに好きだから。だから…もし別れたとしても修兵のためにちゃんと修兵の幸せを願うから」
「…は?」
「だから、もし別れてももう異動願いなんて出さないでね」

引き止める気があるのかないのかわからない正直な気持ちがダダ漏れだった。

「な、なんで別れたあとの話…?」

俺、フラれるの?
修兵のドキドキの方向性が変わった。

「前みたいに無断欠勤された挙句逃げられるのだけは嫌だから…」
「いや、う、うん…もうしねぇよ…え?…今俺責められてる…?」

しかし修兵の幸せを願うとは言ったものの、本当にそんなことができるだろうか。露草は想像した。
彼が自分と別れて、別のかわいい彼女を作って。食事は彼女ととるようになって、休日は彼女とデートして。彼女にごはんを作ったり、手を繋いだり、抱きしめたり、キスをしたり…。そんな彼を本当に応援できるのか。
いや、できるわけない。

傍にいられるだけで夢のようだった、ただの上司と部下だった頃ならできたかもしれない。
けど今は違うのだ。甘やかされる心地良さも、彼の温もりも、好意を返してもらえる喜びも知ってしまった。知らなかった頃には戻れない。
別れずに済むにはどうすればいいんだろう。今からめちゃめちゃ魅力的な女になれるように努力したら許して貰えるかな。

そういえば修兵の今までの彼女ってどんな人だったんだろう。修兵はなんだかんだでモテるから、選ばれたその人はきっと魅力的な人だったんだろう。
その人たちとはどんな付き合いをしていたんだろうか。彼女たちの全身を触って、愛を囁いて、キスをしたんだろうか。
キスひとつで騒ぎまくるようなヤバい女はいなかっただろうか。

「なぁ露草…ちょっと変じゃないか?どうした?」

修兵はそっと露草の肩を抱いて顔を覗き込む。

「えっ」

涙の溢れる瞳と目が合った。

「ど、どうした?どっか痛いのか?具合悪いか?」
「修兵…ごめん、私…女子力もなけりゃ家庭的でもない上に、修兵を満足させてあげられるような女でもなくて…」
「…は?」

修兵からするとさっきから話があっちへ行きこっちへ行きで何がなにやらわからない。
けれども露草は自分の思考にいっぱいいっぱいで、そんな修兵の置いてけぼりっぷりには気づかないまま。

「今から変われるようにがんばるから…今日は帰らないで」

そう言うと露草は修兵の首の後ろに手を回して、自ら唇を彼のそれと重ねた。

修兵は驚きに目を見開いた。この数分の間に何があったというのか。彼には到底わからない。
露草はというとそれから離れるでもなく、動くでもなく、ただ目をぎゅっと瞑って固まっていて、そこには唇を触れ合わせたまま微動だにしない男女が二人いるだけだった。
発言にも突然の行動にもどうしていいものかわからず固まっていた修兵だが、五秒もするとしびれを切らし、唇は触れ合わせたままで口を開いた。

「口開けて」

露草が小さく息を飲んだ。
もうその言葉の意味のわからない彼女ではない。
この前のようにはいかないかと思ったが、予想に反して彼女は、涙に揺れる瞳で修兵を見つめながら小さく口を開けた。

その瞬間修兵は彼女の口内に舌を滑り込ませ、口内を弄びつつ何度も角度を変えてその唇を貪った。
さらにこの前発覚した彼女の弱点にも手を伸ばす。つー、と縁をなぞっただけで肩が飛び跳ねた。
唾液の混ざり合う深いキスを繰り返しながら、そのうち両手で彼女の頬を挟むように持ち上げ、左右の弱点を同時に攻めると再び彼女の瞳からぽろぽろと涙が溢れた。

「ふぁ…あ、あ…!」

以前は泣かれてしまうと罪悪感を覚えて怖気付いたが、今回はそれにすら情欲がそそられた。
必ずしも負の要因による涙ではないということがわかっていたのもあるし、何よりキスの合間に漏れる彼女の甘い声がより涙を扇情的に魅せていた。

「ん…んんー!」

頭がくらくらしてチカチカして、このままどろどろに溶けてなくなってしまうのではないかと露草は思った。
以前の修兵の部屋でのキスも恥ずかしくてぞわぞわしてどうにかなりそうだったが、今日は以前とは少し違う。限界だと思っていた頭の痺れはあの時以上で、どこを触られても舐められても変な声が出てしまう。そしてそれをやめて欲しい気持ちと続けて欲しい気持ちの半々だった。

「あ、やっ!」

もう体に力の入らない様子だった露草を優しく布団に横たわらせ、耳を食むと一際大きな嬌声が上がった。
思わず抵抗しようとする手を抑え、唇と舌で輪郭をなぞり、時折穴に舌先を差し込む。わずかな動きでも露草はその度に体をびくつかせ、甘い声を漏らし続けた。

「あ…だめ、もうだめ、死んじゃう」

頭だけではなく視界までチカチカし始め、意識が飛びそうだと本気で思った。
手が抑えられているため泣きながらかぶりを振って子どものように抵抗する露草を見て、修兵は笑った。

「この前もそう言って死ななかっただろ」
「今回は、あの時よりもっと死にそう…」
「…そんなに気持ちいい?」
「え…」

これが気持ちいいってことなの…?
露草にはまだわからなかった。
けど普通ならわかるんだろうか、修兵が今まで付き合ってきた人なら、気持ちいいからもっとして、とでも言うんだろうか。

「うん…キモチイイです…」
「…本当はわかってないだろ」

浅はかな嘘は一瞬でバレた。

「…なぁ露草、別に無理しなくていいんだぜ」
「え?」

修兵は露草から体を離すと、ごろりと彼女の隣に寝転んだ。
そして片肘を立てて頭をのせ、もう片方の手で彼女の頭を撫でる。

「露草に女子力も生活力もないのはもともと知ってる。それでも好きになったんだ。何に悩んでるか知らねーけど、今更だと思わねぇか?」
「…修兵は私なんかでいいの?」
「お前がいいんだよ」

修兵が微笑むと露草は少し目を瞬かせた後、「修兵って趣味わるいんだね」と笑った。
どうして突然彼女が自分への自信を失ったのか、修兵は知るよしもないが、とりあえず落ち着いたようでよかったと胸をなでおろした。
正直積極的な露草もまったくもってわるくはなかったし、もったいないことをしたんじゃないかという気持ちもないではないが、別に焦るものでもないしこれでよかったのだと自分に言い聞かせた。

「それで?今日は帰った方がいいのか?帰らない方がいいのか?」
「もう遅いから一緒に寝よ」

露草は修兵の手を握ると無邪気にそう言って笑った。
これにもちろん他意がないことは修兵にもよーくわかった。
そして風呂に入ってもなければ着替えてもいないというのに、露草は気にすることなく布団を被る。しかも布団は今の季節にしてはかなり薄く、このままでは冷えそうだ。
やはりこういうところに生活力のなさが迸っている。
無理しなくていいとは言ったものの、やはり最低限の、いや隊長という立場に見合うぐらいの、並の生活はしてほしいかもしれない。
あ、そうか。

「…露草、俺たち一緒に住まないか?」
「…へ?」


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