38

「蒼井隊長、おはようございます」
「…おはよう」

執務室の椅子に腰掛けたままの状態で眠っていた露草を起こしたのは、九番隊の三席である。
本当に眠れていたのかもあやしいくっきりとした隈を残す露草の顔を見、彼は苦笑を漏らす。
ちゃんと布団で寝てくださいって言ってるでしょうと叱られれば彼女は素直にごめんと返した。

「…で?」
「はい…今日も檜佐木副隊長は来ていません」
「…そう…」

九番隊服隊長檜佐木修兵。仕事に関しては真面目な彼が、なんと今日で無断欠勤三日目である。
露草は大きくため息をつくと、三席の目も憚らずに頭を抱えた。

「どうされますか、やはり一度副隊長の家に誰かを向かわせた方が…」
「う、ううーん…いや、もうちょっと待とう。明日になったらもっかい考える」
「はあ…」

これが常の隊長だったなら、「何かあったに違いない私が見てくる!」と飛び出しそうなものだけどなぁと三席は不思議に思いながら退出する。
まぁしかしあの様子だと無断欠勤の理由はわかっていそうだ、とこれ以上気にしないことにした。

こうして露草の元には修兵の分の仕事が運ばれる。
露草はやっぱり頭を抱えた。

無断欠勤の理由なんてわかりきっている。
だからこそ露草は動けなかった。家に誰かを向かわせたところで、または自分が行ったところで何になる。
私はあの時謝った。これ以上何をすればいい。

依然露草には、修兵が何を考えているのかがわかっていない。
自分の何がいけなかったのかとばかり考えてはいるが、正解は導き出せそうにはなかった。

「一護一護ってうるせぇ、か…私そんなに一護一護言ってたかなぁ…?」

とりあえず火種がそこだったのはわかっているんだけど。
だからってあそこまでキレられる理由はさっぱりだ。
機械的に書類に判を押しながら露草はううんと唸る。

よっぽど鬱陶しかったということか?一護一護言ってただけで?
…あまりそれだけが理由だとは考えたくない。
蒼井露草、生まれてこの方二百年と少し。泣いたことは数あれど、泣かされたことは初めてであった。

「…だめだ煮詰った」

もうすぐ昼になろうかという頃、露草は筆を投げ出すと窓から外へと逃げ出した。
ふらりふらりと屋根伝いにそこらを歩いてはどこへ行こうかと目的地を探す。

そして気がつけば、いつものように十三番隊隊舎、雨乾堂の前まで来ていた。
なんだかんだで、ここへは現世から帰ってきてからまだ一度も訪れていなかった。

勝手知ったるなんとやらで露草は隊舎へ上がりこむ。
途中ですれ違った隊士が親切に「隊長はお部屋にいらっしゃいますよ」と教えてくれた。

「浮竹兄さーん…」
「お、露草!久しぶりだな」
「露草ちゃーん、もう休暇は終わったのかい?」
「京楽兄さんもいる…」

共に茶を飲んでいたらしい二人は快く露草を呼び寄せて、二人の間に座らせた。
浮竹はすぐに茶を入れてくれ、京楽はおまんじゅうを握らせてくれる。
かぶりつくとほどよい甘さが身に沁みた。そういえば今日も昨日も一昨日もそれどころじゃなくて、甘いものを口にしていなかったかもしれない。

「おいしい…」

うるっ

「ど、どどどどうした露草!京楽お前何したんだ!」
「僕何もしてないよ!?おーい露草ちゃん、ほらほらいないいないばぁ〜」

馬鹿にするなと京楽は涙目露草に殴られた。
しかし殴ったと言ってもぺちん、と音がする程度である。
それを京楽は事も無げに笑って受け止めて「どうしたんだい?」とやさしく尋ねた。
その瞬間再び露草の涙腺は崩壊する。
京楽の胸に飛び込むと、彼女はぐずぐずとすすり泣いた。

浮竹はすわ病気か怪我かと慌て、四番隊に連絡をしようとし始めたが露草をあやす京楽に窘められた。
それから二人はよしよしと露草の背中だの頭だのを撫で、彼女が落ち着くのを待った。
「露草、男は檜佐木だけじゃないぞ」
「お兄ちゃんがいい男紹介してあげるから」
などという見当違いな慰めと共に。

「うぐ…誰が失恋したって言ったのさ…」

袖で涙を拭うと露草は二人を睨み付けた。
違うのか?とてっきり勘違いしていた彼らは首を傾げる。

「って、てていうかなんで二人とも、わ、私が修兵のこと……その…あれって、知って…」
「「………」」

知られてないつもりだったのかと、兄二人は微笑ましい気持ちになった。
顔を真っ赤にするこの子などなかなか見られたものではない。

「自棄酒なら付き合うから」
「だから振られたわけじゃないって!」
「じゃあどうしたんだい?」
「………修兵が…仕事、こなくなっちゃった…」
「「へ?」」

一瞬きょとんとした後、あの真面目な檜佐木君が!と二人は同時に声を上げ、露草に一体何をしたのかと詰め寄った。
二人は知っている。露草がどれだけ身勝手をしようとも、あの青年は彼女を見捨てたりなどしなかったということを。
それが…サボタージュをしてまで抗議の姿勢に入るなんて!

一方、端から露草を疑ってかかる兄二人に対し彼女はショックを受けていた。
そうか、誰が考えても私が悪いのか、そうなんだ。
…二人は私の味方だと思ってたのにばかぁ!

露草は半ばやけくそで三日前の事の顛末を二人に話した。
普通なら兄同然の人間に面と向かってこのようなことを言えたものではないはずだが、この時の露草の思考回路は本人の気づかないところで完全にバグっていた。

「じゃ、じゃじゃじゃあこの首の赤いのは虫刺されじゃなくて…!?」
「ちゅうってされたらこうなった」
「うおおおおおおおお!」

兄二人は妹の話にとにかくのた打ち回る。
妹の純情が奪われた話なんて聞きたくない。でもやっぱりちょっと聞きたい。

「ねぇ兄さん、私どうすればいいの…?」

大雑把に話を終えてしゅん、と縮こまった彼女は到底兄二人と同じ隊長格には見えそうにもない。
また今にも泣き出しそうなその様子がかわいくてかわいくて仕方がないバカ兄二人。
彼らは同時に心の中で思っていた。
なんでこの子ってこんな変なとこで馬鹿なのかなぁ。

「そもそも露草、君はそのー…なんで自分の非ばかり探してるのかなぁ…」
「は?なんでって、私に非があったから修兵はあんなに苦しそうだったわけで…」

彼女はとにかく修兵自身のことだけが気がかりらしい。
自分のことを二の次にし過ぎるせいで今この子はおかしなことになっているのか?

「あー…あのさぁ…露草ちゃんは、人はどういう時にキスとかそういうことをしたいと思うんだと考えてる…?」
「どういう時って……欲求不満、とか?」
「他には?」
「…その人のことを、好きだなぁって思った時…とか……………」
「うん、そうだね。僕もそうだと思うよ」
「……………え?」

修兵の行動の理由を探すばかりで、その行動の意味を理解しようとはしなかった露草。
そんな彼女の頭の中は彼らの言葉のおかげで更なるパニックに陥った。

「なんで君がその可能性をまったく考えてなかったのか、ほんとに不思議だねぇ」

そう言って京楽は苦笑した。

確かに一度もその意味を考えなかったわけじゃない。
だけど自分の冷静な部分が静かにその思考を止めさせるのだ。
そんなわけない。そんな夢みたいな話あるわけない。期待すればするほど絶対後が辛くなるぞ、と。

その辛さは先日現世にいた頃、修兵が任務でやって来た時に十分味わった。
自分は彼に会えて嬉しかったし、もっと時間を共有したいとだって思った。
だけど彼は違う。彼にとって私はそんな存在じゃない。
そう実感したばかりだった。
無理だ今更。そんな都合のいい話、信じられるわけがない。

「露草が、その気持ちを檜佐木君に伝えてみればすぐわかると思うよ」
「………」
「露草ちゃん、何をそんなに戸惑うのさ。らしくないなぁ」

妹の兄離れが悲しくはあるが、妹の幸せを望んであげられる心の広さは持ち合わせているつもりの二人だ。
笑顔で露草の一歩を応援しようとした。
ま、檜佐木君のことは後で一回シメるとして。

けれど露草は照れるでもなんでもなく、本気で困惑した顔のまま立ち上がるとその場で叫んだ。

「そんな、そんな簡単なわけないじゃん!無責任なことばっかり言わないでよ!」
「おい、露草…?」
「知らないでしょ…私の片思い歴、もう三十年だよ…!?」
「「さ…」」

いくら死神の寿命が長いとはいえ、片恋期間としてそれは長い。
兄二人は呆気にとられて口をぽかんと開けた。

「今こんな近くで一緒に仕事ができてるだけでも未だに信じられないっていうのに、無茶苦茶言うなよこのモテ男共が!」

変な期待をさせるのだけはやめてほしい。
十分なんだ、私は今のままだって十分なんだ。
それ以上なんて望んでない。ただあの人の傍にいられるなら、それだけで嬉しかった。

だけど可能性を目の前に差し出されてしまったら…
それが欲しくなる。手を伸ばしたくなってしまう。
届かなかった時の絶望を、私は知っているはずなのに。

妹の聞きなれぬ暴言に呆気に取られる二人を残し、彼女はその場を去った。

会いたい。


会いたい。











でも怖い。



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