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現世から戻ってからの露草・修兵の二人は、多忙の一言に尽きた。
二人ともある程度の覚悟はしていた。
帰れば机の上には書類が山積みだろうと。
そして現実は確かにその通りだったのだが、それは予想を軽く上回っていた。

「あーじじいの当てつけだこれ、現世休暇感想文百枚とかふざけてんのか、百枚も書けるか『たのしかったです』ぐらいしか書けないし。てか報告書でもなく感想文ってとこが腹立つ小学生の夏休みの宿題か」

自分の机が書類で埋もれるという状況を、露草は初めて目の当たりにしていた。
椅子の上にもファイルやら何やらがいっぱいで、座るスペースの確保から彼女の書類整理は始った。
しわ寄せと言うのは無情である。

いろいろあったはあったが、思い出とは不思議なもので、今の彼女にとっては何もかもが『いい思い出』だ。
現世から瀞霊廷へと戻ってからまだ二日しか経っていないというのに、彼女の中では既に二日前が「懐かしいなぁ」という遠い記憶。
現世に戻りたい、が最近の彼女の口癖にまでなりつつあった。
彼女の戻る場所は決して現世ではないのだが。彼女の居場所はこの書類まみれな机の前で間違いはないのだが。
これが所謂現実逃避というやつだ。

「判子ぐらい誰か勝手に押しといてくれていいんだけどなぁ…」

ポンポンポンポン、露草は機械的に次々と書類に判を押していく。
そして「○○くーん」と適当にその場所から声を張り上げてはやってきた人物に書類を回収させる。
だが片づけても片づけても、一向に目の前の白い山が消えることはない。

正直露草は心の内の苛立ちに泣きそうなぐらいだった。
彼女は元々事務仕事というものが苦手である。それが食事中すらもこの部屋にカンヅメで、眠る時間すら極わずか。
これで精神を削られない方がおかしい。

「つゆ、げんきー?遊びに来てあげたよー」
「あ、やちるちゃん!久しぶりー!」
「わあ!」

露草の心は思っていた以上に癒しを求めていたらしい。
窓から飛び込んできたやちるの姿を見つけた途端、露草は無意識の内にやちるに抱きついていた。

「どうしたのーつゆ」
「やちるちゃん、私もうだめだよー辛いよお仕事ー」
「じゃあ一緒に遊びに行く?」
「遊びに行ったところでこの仕事は増える一方なんだー放っておいたって減らないんだー」

つゆかわいそーと、やちるは露草の青みがかった黒の髪を撫でる。
そしてそれから「いいものあげる」と懐に手を突っ込んだ。

「はい、これさっきシロちゃんからもらったお菓子。二個もらったから、一個あげる」
「やったーありがとう!じゃあ代わりにこのチョコレートあげる」
「えへへ、ありがとー」

この二人は会えばいつもこんな感じ。
だが副隊長であるやちるが何故にいつもこんなに気楽そうで暇そうなのか、露草は不思議で仕方ない。
あの更木剣八も大人しく机の前に座ってちまちまと書類にサインをするような人物には見えないので、一体誰が十一番隊で彼らの仕事を肩代わりしているんだろうか、と疑問は絶えない。

「おい露草、これも今日までに提出の書類―――」
「あ、修兵…」

書類片手に部屋へ入ってきた修兵を見、一瞬にして露草はこの状況を「まずい」と判断した。

「ち、ちがうよ修兵!別に遊んでたわけじゃなくて!ちょっと休憩を―――!」
「…おいちびっこ、出てけ。仕事の邪魔だ」
「ちびっこじゃないもん!」
「人の迷惑も考えられねぇガキはちびっこで十分だ」
「〜!!しゅうちゃんのばかぁ!」
「ちょ、やちるちゃん!」

やってきた時と同様に窓から飛び出していった友人を、露草は追いかけようとする。
だが修兵に腕を掴まれ、それは叶わなかった。

「―――っひどいよ修兵!やちるちゃんは邪魔なんかじゃ…!」
「こんだけ仕事溜めこんで休憩も何もあるか。さっさと座れ」
「ちょっとぐらい休憩したっていいじゃん!私、ちゃんと仕事してるよ!帰ってきてからまだ浮竹兄さんにも白哉くんにも会いに行かずに、ずっとここにいるし…!」
「…んなこと当たり前なんだよ。ったくお前は、俺が見張ってねぇとすぐにサボりやがって…」
「―――っ!」

さすがにその言葉は不本意であった。
積もり積もる苛立ちもあって、露草は「ここらで一発殴ってやろうか」と拳を握るものの、そこで留まる。
終わらない仕事に苛立ちを抱えているのは、お互い様だ。
そして元はと言えば強引に休暇を取って遊び呆けた自分が悪い。修兵は巻き込まれただけの被害者みたいなもので、彼に怒るのはお門違いだと心の内に言い聞かせた。

「…わかったよ、ちゃんとするし心配はいらないから」
「…ああ」
「私が勝手したツケなだけだし、修兵は別に無理しなくていいんだよ。顔色良くないし…ちゃんと食べてる?」

そう言って「はい」とチョコレートを1つ渡してきた露草を見て、修兵はわずかに息を詰めた。
余裕のない自分が恥ずかしくなった。

「さーて、もうひと頑張り…どころじゃないけどがんばりますか」

余裕がないのは、仕事のせいではない。
修兵は手の中の書類を露草に押し付け、足早に部屋を去った。
そして副官室へと滑り込み、閉めた扉に背を預け、ずるずるとその場にしゃがみこむ。
無意識の内に舌打ちをした。

心に余裕がないのは、焦燥に煽られるから。

彼女と一護の関係についても。
彼女の気持ちについても。

現世から帰ってから―――いや現世へ行ってからというもの、彼の心には余裕がない。

修兵は己の机を見上げ、露草の半分もない書類の量に再び舌打ちをした。
露草が食事や睡眠の時間も削って働いているのを知っている。
知っているはずなのに、それを労ってやれない自分は最低だ。

「―――っ」

好きだから。
ただただ、好きだから。
彼女のことが、愛しいから。

だから余裕でなんていられない。

「くそ…」

焦って焦れて焦がれて迷って。

やっと認められた想いが、彼自身を傷つけた。



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