二年の二学期の始め。まだうだるような夏の暑さが残っていて、俺は制服の袖で滲む汗を拭いながら壇上にいる校長の冗長な話を聞き流していた。
夏の大会で入賞を果たしたにも関わらず、俺の心は晴れない。窓の外の青く澄んだ空とは裏腹に、高校生活には暗雲が立ち込めようとしていたからだ。

二年になってから練習に一層精が出るようになり、付き合いが悪くなった俺に先輩達は度々不服と忌々しさが混ざったような視線を向けていた。その上、一年の頃はぱっとしなかった俺が二年になってから何人かの先輩を上回る結果を残し、それが原因でコーチがやたらと俺を持ち上げ始めた事で先輩達の不満が爆発し、俺と彼らの関係はぎくしゃくしていた。
俺は先輩とは比べものにならない程真摯に練習に取り組んでいたのだから結果を残した事は当然と言えば当然だし、先輩達は曲がりなりにもスポーツ選手なのだから結果そのものに対する不満はないはずだ。
しかし、一度気に食わないと思われてしまえばもう理屈ではどうにもならない。
俺がもやもやとしたものを抱えている傍らで当然のように輝かしい成績を収め、部内の英雄となり華々しい引退を遂げた浦川部長が先輩達を宥めている光景に嫌な予感がした。

大会が終わってからも俺は先輩達と仲良くしたいと思っていたし、先輩達も表向きは普通に接してくれていた。けれどふとした切っ掛けで嫌味を言われどうしようもない居心地の悪さを感じる、そんな事が頻繁にあった。夏の大会後も誘いを断って練習し続けたのがそんなに気に食わないのだろうか。
何より、先輩達の中心にいるのが浦川部長である事も俺を悩ませた。厳密に言えば元部長だが、引退し代替わりしても浦川部長は絶対的な存在だったため俺は部長と呼び続けていた。
そんな部の王に嫌われるとどうなるのか、勉強が苦手とはいえそれがわからない程馬鹿ではない。今ここで先輩達の反感を買い、浦川部長を敵に回すわけにはいかない。わかっていたけれど、俺にできることは何もなかった。

そもそも俺は悪くないし、今年の夏を最後に引退した先輩と違って俺には来年があるのだから練習するのは当然の事だ。そう思う事で何とか気にしないようにしていた。



九月の半ば。新学期が始まってから妙に拗れた人間関係から一旦離れようと、クラスメートの木谷と学食への近道である特進クラスやその他部活動に所属していない奴らのいる校舎を歩いている時だった。

「ユキヒロ…」

その懐かしい姿に俺の歩みは止まった。廊下の十メートル程向こう側、ユキヒロが友人と談笑しながらこちらに向かって歩いてくる。
中学校の時よりずいぶん背が伸びたが、華奢な体つきと柔らかく儚い雰囲気は変わっていない。同じ学校の生徒とは思えないほど色白で女顔のユキヒロの存在は、普段から汗臭いゴリラのような筋肉バカ達に囲まれて授業を受け、部活をしている俺には何だか神聖なものに見えた。

「あいつ、特進の中でも上位に入ってる奴だよ。ええと、名前何だっけ…ああ、そうだ、戸夏だ。戸夏ユキヒロ」

急に足を止めた俺の視線の先を訝しげに追った木谷が言った。

「知り合い?」

そう聞かれてユキヒロに対する後ろめたさが蘇った俺は一瞬言葉に詰まった。しかしスポーツクラスである俺が何故ユキヒロを見て立ち止まったのか、咄嗟のうまい言い訳が思い付かない。

「いや、その…実は幼馴染みっていうか…今はあんまり関わりないけど」

仕方なくそう打ち明けた俺を木谷は信じられないといった表情で見た。

「タツキがあんな頭良い奴と幼馴染み!?嘘だろ?」

「うるせーなどういう意味だよ」

廊下で見慣れぬ体格の良い生徒が騒いでいると目立つようで、ユキヒロも他の生徒と同じように不思議そうな顔で俺達を見ている。やがて俺と目が合うとユキヒロは驚きにその大きな目を見開き、そして心から嬉しそうな顔で俺に微笑みかけた。
ユキヒロの笑顔は昔と変わらず柔らかく、俺は不覚にもドキリとさせられた。ここで顔をそらすのもおかしい気がして何でもないようにユキヒロに手を振ると、ユキヒロも笑顔で手を振り返してくれる。
俺は何だか妙に気恥ずかしくなって居ても立ってもいられず、話しかけようとこちらに近づいてくるユキヒロから逃げた。

何故だ?今までユキヒロをそんな風に思った事なんて一回もなかったのに。あいつは男だぞ?
きっとこんな丘の上で隔離されて、毎日毎日むさ苦しい筋骨隆々の男達に囲まれて生活していたせいでおかしくなってしまったんだ。そうだ、この学校に女っ気がなさすぎるせいでユキヒロですら女みたいに見えてしまうだけだ。俺はホモじゃないし、高校を卒業したら可愛い彼女を作るって決めている。今のはきっと気の迷いだ。そう、俺はおかしくない。

逃げながらパニックになりそうな頭を必死に働かせていると、俺を追うために全力で走ってきた木谷がぜえぜえ言いながら逃げる俺の肩を掴んだ。後ろにひっくり返りそうになって漸く停止した俺を木谷が小突く。

「おま、急に走るなよ…はぁっ、はっ、陸上部、追いかける身にっなれ、はあ、つか、まじで幼馴染みなんだな…」

「いや、久しぶりに会ったせいか何を話せばいいのかわからなくなったっていうか…」

息を整えた木谷は不思議そうな顔をして俺を見る。

「はぁ?意味わかんね。特進だぞ?仲良くして勉強教えてもらえばいいのに。お前、この前数学赤点だったろ」

「…うるせーな」

「それよりさ、戸夏って女みたいな顔してたな。結構身長あるけど細いし。運動ばっかやっててゴリラみてーな奴らに囲まれてると戸夏すら可愛く見えてきて悲しいわ、俺。タツキもさっさと卒業して彼女作ろうぜ」

こいつも似たような事を考えていたと思うとほっとする反面、無性に恥ずかしくて消えてしまいたくなった。



ユキヒロとの再会が俺の学生生活を変えたかというとそうでもなく、再び学内で会うこともないまま九月が過ぎた。というより、逃げた手前ユキヒロのいる校舎に近づき辛くなり遠回りして学食に行くようになったため、元のユキヒロとの接点のない生活に戻っただけだった。
そして今なによりも俺が気になっているのは、引退後あれだけしつこかった先輩の誘いがぴたりと止んでいる事だ。

引退した事で部活で結果を残すというプレッシャーから解放された先輩達は前にも増して羽目を外すようになり、時には俺が使いっぱしりにさせられる事もあった。きっと居心地の悪さを感じ、ついていけないと離れようとしている俺に気付いてわざとそうしている。
先輩達はかつあげや飲酒、喫煙にしつこく俺を参加させようとした。
「お前もやれよ」その言葉を断ると、恐ろしい程冷たい瞳で俺を睨む。そしてひきつった顔で固まる俺を嘲るように笑い、何事もなかったかのように元の気の良い先輩達に戻るのだ。俺は逃げ出したくて堪らなかった。

一度、特進クラスの生徒を殴りつけ、胸ぐらを掴み金を出すよう脅している先輩達をあんまりだと止めた事があった。その時、特進いじめを愉快そうに眺めていた浦川部長が笑いながら俺にこう言った。

「じゃあお前がこいつの代わりに金を出すか?」

俺は何も言えなかった。先輩を非難する気持ちよりも、余計な事をしてしまった後悔と焦りに立ち尽くすしかなかった。時間が止まったかのように張り詰めた雰囲気に早鐘を打つ自分の心臓の音と、滲む冷や汗の煩わしさの中、取り囲まれ恐喝される恐怖に怯える特進の男に自分が重なって見える。
浦川部長の睨め付けるような目が「いつでもお前をあっち側の人間にできるんだぞ」そう言っているように感じた。
黙りこくっている俺の中途半端な正義感を嘲笑するように浦川部長は「何ビビってんだよ冗談だよ」と言い、それに合わせて周りにいた他の先輩達もげらげらと俺を笑う。俺は愛想笑いをするしかなかった。
胸ぐらを掴まれたままの特進クラスの生徒だけが青い顔をしていた。



先輩達が下品極まりない話をするようになったのは十月の頭くらいだっただろうか。それまで卑俗な願望やアダルトビデオの中の女の話をすることはあっても、今のような具体的かつ生々しい話をするようなことはなかった。この隔離された全寮制の男子校では女と密会することもままならないのだから。
先輩達は締まりがどうとかフェラがどうとか、慣らしたりなくて血が出たとか、まるで誰かとセックスしてきたかのように喋り、時折にやにやと嫌な笑みを俺に向ける。俺は彼らのことだから学校を抜け出し、どこかで女でも引っかけたんだと思っていた。そのわりには全員が同じ人間とセックスをしたかのような口振りだったけれど、そのときの俺にはそれ以上の考えが浮かばず無理矢理にでも納得するしかなかった。
性に対して嫌悪感があるわけでもない俺さえ、不快に感じる程の下衆なやり取りで満たされた空間にいる苦痛から逃げ出したくとも逃げられなかったからだ。

「そうだ、お前にも今度紹介してやるよ。」

そう言ってにやつく浦川部長に俺は苦笑いで答えた。


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