使われる事のなくなった旧体育倉庫。古びた用具の黴臭さ。滴る汗と充満する熱気。震える生白い素肌に目眩がする。

どうしてこんなことに?



ユキヒロと俺は家が近所で母親同士の仲が良く、幼い頃はいつも一緒にいた。女の子みたいな顔で人見知りで大人しくて、部屋の中で本を読んでいるのが好きなユキヒロを無理矢理外に連れ出して暗くなるまで遊んだ事を覚えている。運動が苦手で体力もないユキヒロはいつも息を切らしながら、でも嬉しそうに俺の後をついて回っていた。

「たっちゃん」

クラスで一番足が速かった俺のことを親しみを込めてそう呼んで、尊敬の眼差しで見つめてくれたユキヒロ。俺はユキヒロを弟のように思っていて、苛められたりしたら守ってやろう、そう考えていた。

中学に上がって、ユキヒロとはクラスが分かれた。俺は陸上部に入って、ユキヒロは塾に通うために帰宅部になった。本が読むのが好きだったユキヒロは頭も良くて、母親が口を酸っぱくしてユキヒロを見習えと言ってくるのが当時はとても煩わしかった。
人見知りのユキヒロは友達を作れただろうか。廊下ですれ違うあいつはいつも一人だったように思う。入学して始めのうちはユキヒロとも会話していたけれど、生来の明るい性格のお陰でクラスにも部内にも友達が沢山できた俺は次第にユキヒロとの接点を失っていった。

ユキヒロは大人しい性格のせいで学校では目立たない存在だった。
小学校とは違い中学校には妙なヒエラルキーがあって、俺はその頂点にいるような騒がしい連中と連むようになり、他人よりも満たされているという優越感の虜になった。いつもクラスの中心にいて輝いている、そんな人間でいたかった俺ははみ出してしまわないよう必死だった。
連中は地味で暗いクラスメートを嫌っていて、ダサいとかキモいとか言っては馬鹿にしていた。俺はユキヒロのことがあるから大人しいだけでキモいなんて思わなかったけれど、あぶれたくなくて同調するしかなかった。

思春期真っ直中だった俺は、ユキヒロと会話をする度に「タツキ、お前あんな陰気臭ぇ奴と友達なの?」と冷やかされるのが恥ずかしかった。奴らは頭の良いユキヒロが気に食わなかったようで、「なよなよしててキモい」と言ってはユキヒロを笑い、ユキヒロから「たっちゃん」と呼ばれている俺を冷やかした。
このままユキヒロと仲良くしていたら、俺まで馬鹿にされ続けるかもしれない。俺はユキヒロにあだ名で呼ぶのをやめるよう告げ、彼を無視するようになった。心苦しかったけれど、俺は漫画やドラマに出てくるような強い人間ではなかった。
ユキヒロはそんな俺をただ悲しそうな笑顔で見つめていた。

部活は楽しかった。走っていれば余計な事を考えなくて済む。友人関係のしがらみも、ユキヒロの事も。運動が苦手で勉強が得意なユキヒロとは真逆で、勉強が苦手な俺は運動が得意だった。いつしか大会にでる度に入賞するようになり、その頃から母親もユキヒロを見習えと言わなくなった。勉強ができなくても人に認められる事を知り、嬉しかった。

相変わらず俺の母親とユキヒロの母親は仲が良くて、学校のない時にユキヒロと会う機会も多かった。気まずくて黙りこくっている俺にユキヒロは笑いかけてくれる。思わず「ごめん。」と謝ると、ユキヒロは「わかってるから大丈夫」と言ってくれた。
ユキヒロは変わらず優しかった。俺は自分がどうしようもなくちっぽけな人間に思えてユキヒロに対する罪悪感でいっぱいになる。
「たっちゃん」そうユキヒロに呼ばれた時、ひどく懐かしい気分になった。

でも、俺には変わる勇気なんてなかった。クラスの中心、その立場を捨てられなかった。相変わらず学校ではユキヒロを無視する日々。ユキヒロと友人との板挟みの状況から逃げ出したかった。いや、ユキヒロから逃げたかった。変わらないユキヒロの優しさが何よりも辛かったのだ。

中途半端に関わるから苦しくなる、そう思った俺は部活に精を出す事でユキヒロを忘れようとした。無我夢中で走った。
やがて陸上の大会が重なるようになり、受験シーズンが到来し、ユキヒロの存在は俺の学生生活の中で埋もれていった。

俺は陸上の成績を買われ推薦の枠を手にしたことで、県で一番有名な全寮制の男子高に入学することができた。本来、俺の偏差値ならば到底合格できないような名門校に入学できた事を母は寂しがりながらも喜び、その後思い出したように「ユキヒロ君もあんたと同じ高校に通ったんですって。あんたはスポーツ推薦だったけど、あの子は頭が良かったから一般入試だそうよ。おめでとうくらい言っときなさい」と言った。
仲の良い友人の息子であるユキヒロを自分の息子のように見守ってきた母親はユキヒロの合格をさぞ喜んだことだろう。しかし、俺は素直に喜べなかった。
高校も中学と同じかもしれない。またユキヒロから逃げなければならないのだろうか。

複雑な気持ちで高校に入学した俺の不安は嬉しいことに外れた。小高い丘に建てられ、全寮制のため膨大な敷地を有するその高校は中学とは比べものにならない数のクラス数、生徒数の高校だった。敷地内だけで生活できるほど整った設備に俺は圧倒された。
親元を離れ慣れない寮生活に厳しい部活、新しい友人、先輩。同じ敷地内にいるというのに俺の生活圏に不思議な程ユキヒロの姿はなく、部活ばかりやっていた俺はユキヒロが同じ高校にいる事すら忘れかけていた。
特にこの高校は陸上の強豪校として有名で、陸上部に所属している生徒は多少素行が悪かろうと成績さえ残せば許される、そんな風潮があった。

先輩の中には飲酒やかつあげの常習犯もいて始めは萎縮しながら部活をしていたけれど、ここでも先輩、特に部長である浦川先輩に気に入られた俺は陸上部の中でも中心的なグループの中に属することができた。浦川部長は陸上の成績はさることながら、生まれ持ったリーダー気質から陸上部の頂点に君臨し、他の部活の生徒達にも畏敬の念を抱かれている。皆からの尊敬を一身に浴びる一方で、素行が悪く残忍な面を持ち合わせている事から恐れられてもいた。
皆に畏怖され絶対的な存在である浦川部長は当然俺の憧れでもあり、そんな部長と親しくしていると自分まで特別な存在になれたような気になれた。

陸上部の中核であるグループにいる俺の学生生活は快適そのものだった。
中学同様、高校でもこのポジションを維持したいと思う反面、陸上で良い成績を残したかった俺は先輩の飲酒や喫煙の誘いをどうにかして断らなければならず、相手の機嫌を損ねないよう気を遣う生活がストレスでもあった。
周りに合わせてばかりの自分に限界を感じていたけれど、一度築いた人間関係を破壊する勇気など持ち合わせていない。
そんな男ばかりでむさ苦しい高校生活は楽しさと苛立ちがせめぎ合うものだった。


勉強のできる生徒を集めた特進クラスの奴らを見かけた時、汗にまみれて倒れそうになるくらい走り続ける必要もなければ、先輩との繋がりが特別あるわけでもないそいつらが涼しげな顔をしているように思えて、モヤモヤしたものが心に生まれた。陸上が好きでこの高校に入学したはずなのに、勉強ができないコンプレックスの裏返しだったのだろうか。
陸上部の中には俺と同じようにスポーツ推薦で入学した勉強嫌いが沢山いて、そいつらも特進クラスの奴らを快く思っていないようだった。彼らは俺達が陸上に費やした時間を勉強に費やしただけだというのに。
そんな妬みは露知らず、特進クラスの生徒はいつも飄々と余裕があるように見える。そこがまたむかつくのだと先輩達は言った。
現に先輩の何人かは特進クラスの生徒に食ってかかったり、金を巻き上げようとしたり、自分の劣等感を誤魔化すかのような行動ばかりとっている。
ついていけないと思ったけれど、中学同様グループから溢れたくなくて直接手を下さないよう気を遣いつつ自分を押し殺した。

ユキヒロも特進クラスにいるのだろうか。ぼんやりとそう思った俺はユキヒロという名前に懐かしさを感じた。
この高校には複数のクラスの中に学業が優秀な生徒を集めた特進クラスと、スポーツで優秀な成績を収めた生徒を集めたスポーツクラスとがあり、校舎が分かれているせいもあって特進クラスとスポーツクラスの接点はあまりない。
俺がユキヒロと会わないのも彼が特進クラスにいるからで、頭の良いユキヒロの事だからクラスでも良い成績をとって、良い大学に進むのだろう。

俺の頭の中にあの優しく柔らかいユキヒロの笑顔が浮かんだ。


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