夢のあとさき
87

ヘイムダールの夜空には星々がちりばめられてきらめいていた。月も光を地に落として部屋は暗すぎないように思える。私は割り当てられた部屋から抜け出してノイシュに会いに行っていた。
「ノイシュ」
「キューン」
胸元から鼻先を撫でると甘えるように手にすり寄ってくる。その仕草に思わず頬を緩ませる。そういえば、ノイシュの話をエルフの少年たちがしていたな。
「ノイシュはプロトゾーンだったんだね」
「クゥン」
「お父さんに教えてもらってたのにすっかり忘れてたよ。ごめんね」
「クーン」
気にするな、と言いたげにノイシュが瞬く。ノイシュは私の言うことが分かっているように思えた。長い時を生きているのだからそれくらいの知能があってもおかしくはないだろう。
しばらくそうしてノイシュに癒されていたが、心のざわめきは収まらない。ゼロスと話をしたことで、明日のクラトスとの決闘はロイドに任せようという気持ちにはなっていた。しかし、問題はその後だ。
オリジンとの契約。そのためにはやはりクラトスがマナを放射して封印を解放しなければならない。つまり――クラトスが死ぬ、ということだ。
「……」
目を閉じる。コレットとゼロスを神子から解放して、この歪んだ世界を作ったユグドラシルを倒して、マーテルは大いなる実りから解放されて。あと少しで私たちの望む世界を手に入れられるというのにどうしてこんなにも運命は残酷なのだろう。
わかっている。それはクラトスが――かつてこの世界の仕組みを作った張本人だからだ。
「キュウン、キューン」
ノイシュが私を慰めるように鳴いている。いや、違う。誰かが近づいてきていた。ノイシュはそれを知らせていたのだ。
ゆっくりと振り返る。満天の星空の下、たたずんでいたのは今まさに思いをはせていた相手だった。
「……お父さん」
呼ぶまいと思っていたのに、気がつけばそう呼んでいた。クラトスが一瞬目を瞠るのが分かる。それがおかしくて悲しい。何歩か遠くにいるその人は低い声で優しく言った。
「眠れないのか」
「……うん」
前にもこんなことがあった気がする。クラトスはゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、私の隣に並んだ。ノイシュが嬉しそうに耳をぱたぱたさせている。
「考え事を……していた」
「世界の統合のことか」
「ううん。あなたのことを」
ノイシュと向き合っていたクラトスが私を見る。私はその目をじっと覗き込んだ。
「――どうしてオリジンの封印に協力したの?」
大いなる実りの間では答えてもらえなかった質問だ。なぜ、ミトスに協力したのか。あのときクラトスはミトスがかけがえのない仲間だったからだと言ったが――私はどうしても、もっと突っ込んだクラトス自身の感情を聞きたかったのだ。
「……カーラーン大戦ののち、世界に残されたのは枯れた大樹カーラーンとその種子である大いなる実りのみだった」
クラトスは瞬きをすると静かに語りはじめる。
「種子の発芽にはマナが必要だった。だが、マナの照射が可能なデリス・カーラーンがこの星に近づくのはまだ先だったのだ。だから我々は一時的に世界を二つにし、少ないマナで大地を延命させる計画を実行したのだ」
この世界を二つにするというのももともとそういう意味があるものだったのか。私は首を振って相槌を打つ。
「デリス・カーラーンが近づいてきて、種子が発芽すれば何の問題もなかった。だが、いざそのときになり……人々は大いなる実りを独占しようと押し寄せてきた。マーテルは種子を護るために命を落とした」
私は目を伏せた。マーテルはそうやって亡くなったのか。
たった四人でこの計画を遂行した彼らは一体どう思ったのだろうか。英雄として名を残しながらも、大切な人を失ったミトスは、彼は。
「ミトスも、ユアンも――人間の愚かさに絶望していた。私もだ。だからマーテルを蘇らせるというミトスの提案に頷いて……オリジンの封印に必要な人柱になることを決めたのだ。愚かな人間としてできることをせねばならぬとな」
「……あなたはその人間たちとは違うはずだ。あなたはそうすべきではなかった」
「そうだな」
悲しい自己犠牲精神だと思う。ハーフエルフの迫害をなくすために共に旅をしてきた相手に、人間だからと負い目を感じるなんて、きっと誰も望んではいないことだっただろう。だがそれほどにマーテルを失った絶望は深かったのだ。
「それを私に教えたのがアンナだった」
「お母さんが……」
「アンナと出会い、私はミトスの思想が間違っていると認めた」
私たちの間には風が吹いていた。私はクラトスを見上げる。母を想うその人の瞳がどんな色をしているか知りたかった。
「だが……十五年前、」
クラトスはそこで言葉を切った。私を見る。覚えているかと問うような視線に頷いた。
「お母さんのことは覚えてるよ。最後に、エクスフィアを取り上げられてばけものになってしまったことも、ロイドを襲ったことも、あなたが……お母さんを殺したことも」
「……あのときのおまえは果敢だった。ロイドをよく、守ってくれた」
「……運が、良かっただけだ」
「だが、私にはできなかったことだ」
振り上げられた母の腕は凶器だった。それを、父から教えられた陣でロイドをかばったのは私だ。ノイシュも助けてくれたし、私一人でロイドを守ったわけではない。
「クヴァルを退けた後、崖下に残っていたのは魔物に食い荒らされたディザイアンの死体のみだった。もう……生きてはいまいと思った」
あの崖から落ちてよく一命をとりとめたなとは私も思っていた。しかし、そうか、この人は私たちを探してくれていたのか。その事実を聞くだけでほっとした。
「おまえたちを失ったと思った私は、何もかもが……虚しくなった。クルシスに戻っても、ミトスの千年王国の思想はともかく、マーテルが蘇り大地が一つになるならばそれでよいと思ったのだ」
「……」
「すまない」
前髪の奥から父がこちらを見ている。無表情といっていいくらいなのに、ひどく苦しそうに見えるのはなぜなのだろう。どうして謝られているか分からずに私はただ黙って父を見返した。
「おまえを傷つけたのは私だ」
救いの塔で裏切ったときの話だろうか。マナの守護塔で戦ったときの話だろうか。人質に取られたことだろうか。
違う、この人は私の身が汚されたことだけに謝っているのだろう。それ以上にどれだけ傷ついたかもきっとわかっていない。
「天使にまでさせてしまったのは……私のふがいなさだ」
「……私は!」
大声を出したせいでノイシュが驚いているのが分かる。一度息を吐いて、十秒数えた。拳をきつく握る。
「私は、あなたに謝ってほしくなんかない」
「……しかし」
「私はただ――」
冷静になんてなれなかった。ただ感情が溢れていく。頬をなまあたたかいものが伝って、私は自分が泣いていることに気がついた。
「わたしは……っ、ただ、お父さんが迎えに来てくれればよかったんだ!」
目の前の人が目を瞠る。私は行き場のない手をさまよわせた。涙をぬぐうこともできず、必死に手を伸ばす。この手を受け止めてくれさえすれば、私は――。
涙でぼやけた視界が揺れる。気がつけば誰かに優しく抱きしめられていた。
「遅くなって、すまない。……レティシア」


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