リピカの箱庭
91

寝起きの恰好では客人の前に姿を出せないので、ロザリンドを呼んで着替えさせてもらった。ドレスを着るのはずいぶんとひさしぶりだ。アクゼリュスに行く前と大して体形が変わっていなくて助かった。しかし着替えている最中、ロザリンドには目のことで大いに嘆かれてしまった。
「こんな大きな傷が残ってしまわれたなんて!どうしてお伝えくださらなかったのです!」
伝えなかった、というのは私がダアトから報せを出した時の話だろう。いや、致命傷というわけでもないのだし。
「大したことではないでしょう」
「大したことです!お嬢様にこんな……ロザリンドはもう奥様に合わせる顔がありません……」
「ろ、ロザリンド。そこまで気にしなくてもいいではないですか。そんなに目立ちますか、これ」
別に結婚とかその辺はどうでもいいんだけど、ロザリンドがあんまりに言うので心配になってきた。ガルディオス家に悪評が立つのは好ましくない。ドレスではなく前みたいに男性用の服を着ていた方がまだ目立たないんじゃないだろうか。
「レティシア、あなたね。目立つとか目立たないとかの話じゃないわ」
その場にいたジョゼットに呆れたように言われて私は瞬いた。ジョゼットが向けてきたのは騎士としての顔ではなく、従姉としての顔だったからというのもある。
「あなたがそんな怪我をしたのが心配なの、こっちは。ただでさえ生死不明だったのよ、心配くらいさせなさい」
「それは……心配をかけたことは申し訳ないと思っています」
「はあ。まあいいわ、あとできっちり説教されることね。アシュリークなんて見てられなかったもの」
そう言われると曖昧に微笑むことしかできない。というかロザリンドの嘆き方がエドヴァルドのそれと似ていたので夫婦というのは似るものなのか、それとも似た者同士が夫婦になったのか。心労の種になったことに関しては申し訳なく思うけど、帰還したことでチャラにならないかな。なによりガイラルディアもいるわけだし、ガイラルディアが伯爵になれば代理だった私の存在感は薄れるだろう。
久々に着たドレスは思ったよりも動きにくくはなかった。客人の前に出るとはいえ、一応は自宅内だ。体の負担にならないものを選んでくれたのだろう。眼帯は前髪でほとんど隠れていて、鏡で見るとそんなに目立たなくてほっとした。
エドヴァルドと共に向かった先は玄関ホールだ。城から先触れが出たのでルークたちが戻ってくるのだと分かっていた。ついでに今後の動きについても一応説明してもらっていた。敵国の王族を顎で使うとは、陛下らしい決断だ。
玄関ホールに着くと、なぜかイオンがこちらを見て目を丸くしていた。
「伯爵?」
「はい。何をしているのです?」
「お坊ちゃまたちが帰ってきそうだったから伝言係。導師サマは貧弱だからね」
ルークたちにガイラルディアの解呪が済んだと伝えるために待っていたらしい。皮肉っぽい表情だが、導師のことはそんなに気に病んでいないように見える。イオンは気分屋なところがあるから、導師を手伝ったのは彼に対して思うところがあるのだろう。イオンにとって弟くらいの存在に収まってくれればいいんだけど。
「ていうかそんな恰好、久々に見たな。そういえばあんた女だったね」
「ノイ!」
「構いません、エドヴァルド。アクゼリュスでこのような装いをしなかったのは事実です」
イオンと最初に会ったときはそれこそ外交の場できちんと着飾っていたから、別に意外でもなんでもないと思うけれど。エドヴァルドは気にしすぎだ、イオンの今の身分では私にこんな口をきかせるわけにはいかないと思っているのようだがそんなの今更だし。
そうしているうちにルークたちが戻ってきた。カーティス大佐も一緒だ。
「ガルディオス伯爵!お体はよろしいのですか?」
真っ先にナタリアが話しかけてくる。後ろで心配そうにしているメシュティアリカに向けても私は薄く微笑んだ。
「ええ。それより、カースロットの解呪が済んだようです」
「そうだ、ガイ!」
私をみてなぜかぽかんとしていたルークがはっと我に返って声を上げる。よっぽどガイラルディアのことが心配だったのだろう。
ガイラルディアを通しているのはこの屋敷で一番広い客室だ。それなりの大所帯でも難なく収まった。
「ガイ!ごめん……」
案内されるなりルークが声をかける。ベッドに腰かけていたガイラルディアが顔を上げて目を瞬かせた。
「……ルーク?」
「俺……きっとおまえに嫌な思いさせてたんだろ。だから……」
「はははっ、なんだそれ」
場違いな笑い声にルークは面食らったようだった。ガイラルディアが目を眇める。私はつい顔を逸らしてしまっていた。やっぱり、ガイラルディアがルークを大切にしているのを見るのはつらかった。妬みだ、こんなの。胸の奥がぎゅうっときつく痛む。
「……おまえのせいじゃないよ。俺がおまえのことを殺したいほど憎んでいたのは、おまえのせいじゃない」
言い聞かせるようにガイラルディアが言う。
「俺は……マルクトの人間なんだ」
「え?ガイってそうなの?」
アニスが声を上げたのに頷いて、ガイラルディアはちらりとこちらを見た。言ってしまえばいい。もういいのだろう、ガイラルディアは――。
告げてしまって、ルークを受け入れて、過去を憎みながら未来を見つめて。そうすればガイラルディアはもう囚われない。憎しみだけが生きている意味ではなくなった。ファブレ公爵家への報復を諦めるということだ。
息が詰まる。ガイラルディアだけが、前に進んでいる。
「俺はホド生まれなんだよ。で、俺が五歳の誕生日にさ、屋敷に親戚が集まったんだ」
私はいなかった。私はこの屋敷で、何もできなかった。
「んで、預言士が俺の預言を詠もうとしたとき、戦争が始まった」
「ホド戦争……」
「ホドを攻めたのは、ファブレ公爵家……だよな」
ルークが震える声で言う。ガイラルディアは憎い仇の息子から目を逸らさなかった。
「そう。俺の家族は公爵に殺された。家族だけじゃねえ。使用人も親戚も。あいつは俺の大事なものを嗤いながら踏みにじったんだ。姉上は俺を庇って死んだ。メイドたちも俺を守るために死んだ。俺は姉上たちの遺体の下で血塗れになって気を失っていた……」
「あなたの女性恐怖症は、その時の精神的外傷ですね」
淡々と語るガイラルディアに動揺は見られない。けれど苦しかったはずだ、つらかったはずだ。グランコクマにいた私は何もできなかった。
気づけば一歩踏み出していた。ガイラルディアの瞳が和らいだから。
「ガルディオス伯爵!」
誰かが私を呼んだ。その声に遮られないガイラルディアが立ち上がって、手を伸ばす。当たり前のように肌が触れた。
「ごめんね、ガイ。一緒にいられなくて」
「ごめんな、レティ。一緒にいられなくて」
手を掴む。強く握る。ガイの手が私の背中に回って、昔よりもずっと広い胸に抱きこまれた。同じくらいだった身長も体格も、差はもう明白だ。
ここが居場所だ。今だけ、ここだけが、私の。
「ガイラルディア、さま……?」
エドヴァルドが呟く。もう彼にも分かったのだろう。ガイラルディアが微笑んだのが見なくたってわかった。
「よくレティシアを守ってくれた、エドヴァルド。おまえこそがガルディオス家の盾だ」
「まことに、あなた様なのですか。生きて……おられたのですか――ガイラルディア様!」
傅いたエドヴァルドに周りが困惑する気配がする。ホドの生まれ、ホド戦争の生き残り、そしてガルディオス家の騎士が首を垂れる相手なんて限られている。
「やはりあなたでしたか。ガルディオス伯爵家ガイラルディア・ガラン」
おそらくすべて見通していて、冷静なのはカーティス大佐だけだろう。ガイラルディアが目を細める。
「ご存知だったって訳か」
「ちょっと気になったので、調べさせてもらいました。あなたの剣術はホド独特の盾を持たない剣術、アルバート流でしたからね」
判断材料はそれだけだろうか、とふと疑問に思った。アルバート流はホドグラドでも使われている。どちらにせよ、マルクトゆかりであるとは判断できるのだけど。
「ちょっと待ってくれ、ガルディオス伯爵家……ってことは、ガルディオス伯爵の、」
「レティシアは俺の妹だ。双子のな」
ルークの問いかけにガイラルディアが答える。ルークは目を丸くして、他の者も驚きを隠せていなかった。カーティス大佐の視線が刺さるようだった。だが、今は無視してやる。
「レティはホド戦争が起こった時にはグランコクマにいた。だが俺は……生き残ってもグランコクマには行かなかった」
「そして復讐のためにファブレ公爵家に入り込んだのですか?」
「……ああ」
それでもガイラルディアは復讐を果たさなかった。「ガイ……」ルークが迷子の子供のようにガイを見る。実際そうなのだろう、ガイラルディアはルークにとっては使用人以上の、兄とも親ともいえる存在なのだから。
「なら、ガイは……俺のそばなんて嫌なんじゃねえか?俺はレプリカとはいえ、ファブレ家の……」
「そんなことねーよ。そりゃ、全くわだかまりがないと言えば嘘になるけどな」
「だ、だけどよ」
「お前が俺についてこられるのが嫌だってんなら、すっぱり離れるさ。そうでないなら、もう少し一緒に旅させてもらえないか?まだ、確認したいことがあるんだ」
ルークが不安そうに私にも視線を向ける。子供がそんな顔をするものじゃない。
「伯爵は……いいんですか」
「何がですか?」
「ガイと俺が一緒にいて、その」
「嫌だ」
はっとルークが顔を上げる。
「……と言ったら、あなたはガイラルディアを置いていくのですか?」
「それは……」
「人を試す真似はおやめなさい」
「すみません」
ガイラルディアの選択はガイラルディアのもので、ルークの選択もルークのものだ。私の意見一つで変えられても困るし、そもそも意見を求められるのも不愉快だ。だってここで嫌だなんて言ったら悪いのは私なのだから。
「わかった。ガイを信じる。いや……ガイ、信じてくれ。かな」
「はは、いいじゃねえか、どっちだって」
ガイラルディアの瞳に昏さはない。本気でそう思っているのだろう。
――ガイラルディアにもうどこにも行ってほしくはない。その感情は今はまだしまいこんでおかなくてはならなかった。


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