リピカの箱庭
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はっと体を起こす。一瞬どこにいるかわからなくて、それから視界に入ってきた部屋の様子に思い出した。そうだ、ここはグランコクマだ。テオルの森で神託の盾兵に襲われた後、グランコクマの屋敷に帰ってきたんだった。
「伯爵さま。お目覚めですか」
「……ルグウィン?なぜここに」
馬車で屋敷に着いた後の記憶が曖昧だ。何があったのかと思い出そうと顔をしかめるとルグウィンは眉を下げてほほえんだ。
「エドヴァルド様に呼び出されたんです。伯爵さまが倒れたからと」
「倒れた?」
「覚えておられないのですか?エドヴァルド様のお話ですと、ご自室に戻られてすぐ意識を失ったそうですよ」
「そうですか……」
簡単に事情を説明して、ガイラルディアの治療が行える部屋を提供するように伝えて――そこまでは思い出した。エドヴァルドは客人の手前いつも通り振舞っていたが、何かもの言いたげにしていた。話を聞こうと思って部屋に向かって、そこで倒れたのだろう。
「ずいぶんと無理をされたようですね。しばらく安静になさってください」
「怪我は大したことありませんよ」
「違います。伯爵さまも分かっているのでしょう」
有無を言わせない口調でルグウィンに告げられて、まあ心当たりはかなりある。先のガイラルディアに斬られた怪我ではない、夢見の悪さに起因する寝不足でもない。アクゼリュスに長くとどまり続けた弊害だ。
「障気蝕害ですか」
「重度のものではなりません。ですが、治療が必要です。免疫力も下がってるんですからあまり無茶をしないでください」
障気蝕害に罹っている自覚はあったが、そんなに気にするものでもなかった。アクゼリュスの崩落まで持てばよかったからだ。しかしここに戻ってきた以上は放置するわけにはいかないだろう。アクゼリュスの研究所で研究を進めてもらっていたのはこの後障気への対抗策がないよりはあったほうがマシだろうという考えからだったが、自分の治療に生かすはめになるとは。
「わかりました。エドヴァルドにそのことは?」
「お伝えしています」
「では、呼んできてください」
ルグウィンは少し不満そうな顔をしたがすぐに立ち上がった。安静にしろと言ったそばから、ということなのだろうけれど長く留守にしていたのだ。エドヴァルドから現状の確認をしないと始まらない。
ルグウィンが部屋を出て行って、エドヴァルドはすぐやってきた。ドアを閉めて振り返った途端、すうっと目が細められる。怒っているな、と一目でわかった。
「どうしてあなたは――」
カツ、カツと大きな歩幅で歩み寄ってきたエドヴァルドは膝をついて私の手を取った。震える手で包み込まれて、揺れる瞳で覗き込まれる。
「――一番にあなたを逃すべきでした、お嬢様。そうすれば怪我をすることもこのような病に侵されることもなかったのに!ああ、旦那様、奥様、至らぬ私をお許しください」
嘆き悲しむエドヴァルドについ眉根を寄せてしまった。ため息をつく。
「エドヴァルド。あなたは誰に仕えているのです」
「あなた様です、レティシア・ガラン・ガルディオス伯爵」
「ならばそのようには言わぬことです。お父さまもお母さまももう亡いのですよ」
「レティシア様……」
分かっている、こんなことを言わせてしまうまでにエドヴァルドを追い詰めてしまったのは私自身だ。エドヴァルドにとってはまだ私はお父さまから託された「お嬢様」のままなのだろう。爵位を代理で継いだ時に呼び名を改めるようには言ったのだけれど、まだ認めてはもらえていないのかもしれない。
仕方ないことだ。私は本来ガルディオス伯爵なんて呼ばれる人間じゃない。
「苦労をかけましたね」
「……レティシア様がお戻りになるまでお待ちしていただけです」
「状況は?」
エドヴァルドは早い時期にアクゼリュスから脱出させていた。アクゼリュスの外で指揮を執ってもらう必要があったからだ。住民の避難と研究員たちの移動だ。
そのことを確認すると出稼ぎ労働者たちは故郷に帰らせ、行くあてのない者たちに関してはホドグラドへの避難が無事完了したようだ。何人かは障気蝕害の症状が出たり亡くなったりしたようだがそれに関しては手当を出して対応済らしい。お金があってよかった、出稼ぎ労働者たちが大人しく帰ったのも今期分の給料は払っているからだろう。
シミオンやルグウィンなどの研究所の面々もホドグラド内の研究所で仕事を継続しているらしい。研究成果は無事持ち出せたようでほっとした。ホドグラドではレプリカ研究は積極的に行っていなかったが、今後はアクゼリュスからの移転組がこっちで進めていくことになる。ルグウィンの言っていた障気蝕害の研究もある。
ガルディオス家の騎士および使用人たちも全員無事で、家の沙汰に関しては私の生存をピオニー陛下が主張したことで一時保留になっていたようだ。実際のところピオニー陛下が主張していたのはカーティス大佐の生存だろうから、まあそこは相乗りして助かったと言えるだろう。
そこで私ははっと思い出した。
「導師殿とキムラスカの方々はどうしていますか?」
屋敷に連れてきたガイラルディアたちのことだ。時間が経っているので、もう城に行ってしまったかもしれない。一緒に謁見しようと思っていたのに、しまったな。
エドヴァルドが顔を歪めたのは、キムラスカのことをよく思っていないからだろうか。
「フリングス少将がいらっしゃいまして、ナタリア殿、ルーク殿は城に向かわれました。ティアも一緒にです」
「まだ戻ってきてはいませんか?」
「はい。導師イオンと導師守護役殿は倒れた使用人の治療に当たっていましたが、こちらは完了したようです。ノイから報告がありました」
「そうですか」
カースロットの治療にイオンもついていてくれたようだ。ガイラルディアが元に戻ったと聞いてほっと胸をなでおろす。しかしエドヴァルドは表情を硬くしたままだ。
「操られていたと言えどレティシア様にお怪我を負わせたのでしょう。ファブレ家に身柄引き渡しを要求すべきかと」
そんなことを言われるとは思わず、私はつい目を丸くしてしまった。しかしルークの使用人のガイ・セシルはただのキムラスカの庶民で、庶民が貴族を傷つけたら責を負わされるものだ。エドヴァルドが身柄を引き渡せと言うのは当然のことである。
それにガイラルディアはルークの使用人だ。エドヴァルドとしてはファブレ公爵家もといキムラスカへの敵対行為の意味も含んでいるのだろう。外交問題に発展しかねないが、そもそもこの一触即発の状況だ。最悪これがきっかけでグランコクマが、マルクトが戦争論でまとまる可能性もある。
とはいえ。私はつい笑ってしまった。
「ふふ。確かにそうです。その通りにしなくては」
「……レティシア様?」
エドヴァルドが面食らっているが、私は笑うのをやめられなかった。だってガイラルディアが帰ってくるのだ。私を斬りつけたファブレ家の使用人が自分の主人になるべき貴族だなんて想像もしていないエドヴァルドに、さらに笑いがこみ上げてくる。
さて、私も支度をして行かなくては。ガイラルディアはカースロットで操られていただけではなく、お姉さまのことも思い出していた。精神的なショックは大きいだろう、ちゃんと休んでもらわないと。


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