リピカの箱庭
66

執務室でエドヴァルドは困ったように立ちすくんでいた。「つまり、」彼は視線を彷徨わせる。
「ノイは導師イオンなのですか……?」
「正確には導師イオンだった、ですね。今の彼は一般市民と相違ありません」
「そうは言いますが」
エドヴァルドの言いたいことはわかる。彼には預言の件は伏せているのでローレライ教団がイオンを見つけた場合の懸念が残っているのだろう。私は肩をすくめた。
「教団には変わらず導師イオンがいます。今更ノイを取り戻そうとはしないでしょう」
「レプリカ、ですか。フォミクリーでそこまで実現できてしまうとは、信じがたいですが」
「元々はそのための技術ですからね。その説明は以前したはずですが」
フォミクリー研究を行うにあたって、エドヴァルドにもどんな技術かはきちんと説明はしてあった。彼は技術者ではないので理屈ではなく結果の話になってしまうのだけど。要約すれば、兵器の医療転用的な感じだ。
「それでは、ローレライ教団にはフォミクリー技術があるということですね」
「ええ。そして教団には神託の盾騎士団という兵力もあります。……あまりいい想像はできませんね」
「導師イオンがただの飾りなら尚更です」
結局、話はそこに着地してしまう。まあ、この後の展開を考えればローレライ教団への警戒は怠るに越したことはない。預言への盲信は削げずとも、組織への信頼は損なわせることができる。所詮人が運営しているものだからだ。
「しかし、レティシア様。あなたはノイを使うつもりはないのですね?」
エドヴァルドは私をまっすぐに見つめた。イオンは――導師イオンと同じ姿をした彼は、今後ローレライ教団が怪しげな動きをした際に利用できる存在ではある。曲がりなりにも最高権力者だ、その言葉で混乱を引き起こすことは可能だろう。
でも、彼はもう導師イオンではないのだ。私がそう選ばせた以上、そのように使うつもりは一切ない。イオンに必要なのは日常と安寧だけだ。それを提供するのが私の責任だ。
「ええ。ノイはただの市民です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「かしこまりました。レティシア様の仰せの通りに」
頭を下げたエドヴァルドは、それからため息をついた。
「次からはこのような無茶はなさらないでください」
それは、まあ、約束しかねる。


エドヴァルドへの事情説明は終えたが、残っているのは教育の問題だ。情緒面は幼いエゼルフリダと共に育んでいけばいいが、よくよく考えればイオンもアリエッタもまだ家庭教師がつくような年齢だ。しかしこの二人は進み具合が全く違う。
アリエッタは読み書きはできるもののそれ以外はさっぱりだが、イオンは高度な教育を受けていたため知識量は豊富だ。専門教育に入ってもいいレベルだけど、何に興味があるのだろう。
「興味のある学問?」
本人に聞いてみると怪訝そうな顔をされた。期せずして進路面談のようになってしまったが、似たようなものだ。
「特にないけど……」
「しかし生計を立てる必要がありますからね。アリエッタと共に野生で暮らすなら話は別ですが」
嫌そうな顔をされる。冗談だ。
「それで、僕に頭脳労働をさせようってわけ?あんたの希望があれば聞くけど」
「希望ですか。研究所の人員は常に募集していますが……」
しかし、こちらの研究所ではほぼフォミクリー研究一本だ。ホドグラドの研究所のように通信やほかの譜術応用の研究は行なっていない。流石に人体実験をイオン――被験者だった彼にやらせたいとは思えない。
とはいえここの研究所は長くはもたないし、フォミクリーに限って考える必要はないか。例外としてシミオンが趣味で響律符の研究をしているし、医療分野に足を突っ込んでいるので医者も多い。イオンは第七音譜術師であるはずなので、医療の知識は役に立つだろう。
「そうですね、医学を修めるのはどうですか?持っていて損のない知識です」
「ふーん、医者か。ってことは、あいつに教わるわけ?」
「あいつ?ああ、ルグウィンのことですか」
イオンの身近な医者といえば彼のことだろう。イオンも少しずつ打ち解けてきたようだし、確かにこのまま頼んだ方が人見知りしなくていいかもしれない。それにルグウィンならイオンの体のことも知っているし、何か起きた時も対処できるだろう。まだ若いし、研究も忙しいので無理はさせたくないが……よそから教師を招くのも足がついてしまう。イオンがこの先一人で生きていくとはいえ、ほとぼりが冷めるまでは深く関わる人間も少ないほうがいい。
「そうしましょう。ルグウィンならあなたも安心でしょうから」
「別に。安心とかじゃないけど」
「おや、いくらか親しくなったのではないですか?」
「あいつがいろいろ話しかけてくるだけ。あの騎士といい、おせっかいな奴が多いんだよ」
ヒルデブラントのことか。私は肩をすくめた。
「ヒルデブラントはあなたではなくアリエッタの世話を焼いているだけですよ」
「そこに文句言ってんの」
「それは失礼」
イオンだって分かっているだろう、ヒルデブラントはただ守りたかった家族の幻影をアリエッタに重ねているだけだ。アリエッタのほうもヒルデブラントを慕ってはいるだろうが、彼女にとって唯一で特別なのはイオンだけ。それは導師でなくなっても変わらないものだ。
もしかしたら一気に環境が変化し過ぎて、そのストレス発散にヒルデブラントに当たっているのかもしれない。メンタルのケアはルグウィンにも気を遣ってもらおう。幸いというべきか、ヒルデブラントはイオンの冷たい態度を何とも思っていないようだったが。
「イオン、アリエッタとはきちんと話をしなさい。この先のことも、これまでのことも。彼女と二人でいたいのなら」
とはいえ、アリエッタがイオンを特別視しつづけていることをイオン自身が理解しているかはわからない。導師というアイデンティティを捨てたイオンが、これまで通り自分を保てるかどうか。自棄になられてはたまらない。
「……アリエッタなら、言わなくても」
「言わなくて伝わることもありますが、言わないと伝わらないこともあります。後悔しない方を選びなさい」
私は導き手ではない。いずれいなくなる人間だ。イオンはこちらを見つめて、「わかった」と小さな声で呟いた。


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