リピカの箱庭
幕間12

「イオン様、このままだと死んじゃう、いやです。アリエッタ……イオン様を助けます。絶対」
悲痛な声で言う少女に導師と呼ばれる少年はため息をついた。この娘だけには絶対に知られたくなかったのに。どうして気がついてしまったのだろう。アリエッタは盲目的で従順な少女だった。だから隠し通すのは簡単なはずで、なのに。
「無理だよ、アリエッタ」
イオンは甘く優しい声で囁いた。アリエッタが泣きそうな顔をするのに口角を吊り上げる。自嘲の笑みにアリエッタは気づかない。
「僕は預言で死ぬって決まってるんだ。だから絶対に助からない。助けるなんて無駄だよ。アリエッタ、愚図なお前じゃ何もできない。目障りだから早く消えてよ」
少女を傷つけるための言葉を吐き捨てる。アリエッタが自分にひどく依存していることは知っていた。そう仕向けてきた。自分がいないと生きることができない脆い獣だった。知られた以上は、そうであってはいけない。残された獣が自分のために死ぬなど――死んでほしい、レプリカにあの思慕の視線を向けないでほしい――たった一人の飼い主は自分で、それで。イオンはぐちゃぐちゃな思考を無理矢理押しとどめた。こうするのは得意だ。だって自分が死ぬ日を決められてからずっとそうしてきた。
「アリエッタ、何もできない。でも……」
たどたどしく、か細い声が紡がれる。零れ落ちそうなほどの涙はアリエッタが瞬きをしても頬を伝うことはなかった。
「お願い、します。きっと助けてくれる。アリエッタのこと、ずっと助けてくれた」
「……アリエッタ、お前誰のことを言ってるんだ。ヴァンか?それこそ無駄だ。あいつは僕が死なないと困るんだ。計算外だからな」
「ううん。騎士さま、です」
「――」
イオンは息を止めた。それだけで誰のことを言っているかわかったからだ。
アリエッタは時折下手な手紙を書いている。その宛先が「騎士さま」だった。アリエッタと故郷を共にする男はそれだけで気にくわないが、黙認していたのはあの伯爵の騎士だったからだ。イオンの苦痛を理解する若い伯爵のことは嫌いではなかった。痛みに素知らぬ顔をして、自分と同じように子供の時代を奪われた伯爵にイオンは親近感、あるいは同情、もしかすると仲間意識のようなものを抱いていた。イオンを崇め讃える信者や利用しようとする詠師よりはずっとマシだと思っていた。
しかし、アリエッタが助けを求める相手が伯爵家の騎士だと思うとそんな気持ちは霧散した。アリエッタに首輪をつけるのは自分だけだ。あの伯爵の騎士ではなく、死に損ないの導師だ。胸をかきむしりたいほどの衝動が湧き上がる。反射的に手をあげていた。
バチン、と乾いた音が響く。「ふざけるな!」イオンは血と共に言葉を吐き出した。次いで咳が止まらなくなる。思わず膝をついて口を押さえた。
「げほっ……ぅ、ぐ、っは」
「イオンさま!イオンさま、しっかりして!」
頬を打たれたばかりだというのに自分を支えようとするアリエッタに腹が立つ。怒りと歓喜と苦しさの入り混じった自分でもわけのわからない感情に目の前がチカチカと赤くなるようだった。イオンはよろよろと立ち上がると血まみれの手でアリエッタを振りほどいた。
「戻れ、アリエッタ」
「イオンさま」
「命令だ。早く戻れ」
これ以上顔も見たくない。こんな自分のそばから決して離れないでほしい。傷つけたいわけじゃない。傷ついた顔が見たい。アリエッタはそんなイオンの内心を知らずに命令に従って部屋を出て行ってしまう。イオンは鉄の――あるいは毒の味を飲み干して寝台に体を預けた。これは体を蝕む病の味だ。歯を食いしばって目を閉じる。
どうせ預言で決まっている。死は恐ろしくなどなく、ただこの世界が憎くて腹立たしいだけだった。

アリエッタがイオンを攫ったのは、それから数日後だった。
無理矢理魔物に乗せられて、イオンは空を飛んでいた。吹き付ける冷たい風に身震いをするとアリエッタがイオンに気遣わしげな視線をやる。
「イオンさま、寒い……ですか」
「寒いに決まってるよ。そんなこともわからないの?」
「ごめんなさい……。でも、降りたら捕まっちゃう」
アリエッタも彼女なりに考えていたらしく、イオンたちは次々と魔物を乗り換えて海を渡っていった。どんな船よりもずっと速いのだろうとイオンは思う。それに小回りも利く。アリエッタ自身は無類の強さを誇るというわけではないが、こんなふうに自在に魔物を操れるのは圧倒的な強みだった。導師守護役として自分のそばにいるときは大して役に立たないくせにとイオンは内心で吐き捨てる。なんでこんなことをするんだ。アリエッタは導師を拐かした大罪人になってしまった。
「ねえ、どこに行くの」
海を渡りきって始めてイオンはそう尋ねた。アリエッタは話しかけられたことが嬉しいのか頬を染めて答える。
「アリエッタのママのいるところ、です」
「え、お前のママって魔物だろ?そんなところへ行ってどうするのさ」
「……」
アリエッタは黙り込んだ。考えてないのか、とイオンは舌打ちをしてから思い直す。違う、黙っているのはまたイオンの機嫌を損ねるのを嫌がっているからだ。
「……まさか、あの伯爵に会うとか言わないよね」
「伯爵さまじゃなくて、騎士さまに」
「一緒だろ!?あの騎士のやったことは伯爵のやったことと同じだ!」
「でも、騎士さまは約束してくれた、から」
イオンは髪をかきむしりたくなった。あの伯爵を巻き込むなんてごめんだ。最期にマルクトを訪ねてみたいだなんて思って抵抗しなかったのが悪かったのか。後悔しかなかったが、かと言って今ここで逃げ出しても野垂れ死ぬのが関の山だ。死ぬのが決まっているとしても、そんな死に方がしたいわけではない。
イオンは即断できず、生まれて初めて見るマルクトの景色がありえない速さで過ぎ去っていくのを黙って見ているしかなかった。


- ナノ -