リピカの箱庭
60

アクゼリュスへ赴任してから半年が過ぎて、ようやく慌ただしさがひと段落した。
鉱山の街はマルクト領だったりキムラスカ領だったりと度々変わるせいで住人たちはどちらにも靡くまいと思いのほか頑固だった。とくに鉱夫たちは屈強で、小娘一人向かったところで言うことを聞かせるなんてできないだろう。なのでひとまず舐められないために私は男装を継続していた。マルクト側の官僚を丸め込んだり、鉱山の無茶な採掘をやめさせたりとまだまだ大変なところではあるが、同時に進めていた電話(正確には伝話と言うべきか)線の敷設は無事に終わったし研究所も建った。いずれ失われるこの地にフォミクリー研究所を建てるかどうかは迷ったが、権利を得た私の手元に置かずにいるのは不自然だ。もう一つ、ホドグラドにも置き土産で建ててきたので最終的にはそちらに移管すればいいだろう。
研究所では着々とフォミクリーの研究が進められており、私の懐には鉱山資源の取引で得た利益ががっぽり入ってきてそれもどんどん研究費として投じている。フォミクリーについては間に合うかわからないし、実際にできるかも確証が得られないので私のできることといえば金を出すことくらいだった。やらないよりはマシだろうという気持ちだが、さて。
そんなふうにある程度落ち着きが出てきたころ、全く別の問題が舞い込んできた。ドアをノックしたのはヒルデブラントで、彼は険しい表情を私に向けていた。
「ガルディオス伯爵。お願いがございます」
「何があったのですか、ヒルデブラント」
尋常ではないと悟って私はペンを置いた。ヒルデブラントは拳を握り、唇を震わせた。それからようやく次の言葉を絞り出す。
「――ダアトでおっしゃった言葉が本心であると信じております。もう伯爵の慈悲に縋るしか私にはできません」
「ヒルデブラント、何の話ですか。落ち着きなさい。そこに座って」
私は立ち上がってヒルデブラントを無理矢理ソファに座らせた。彼は青白い顔を私に向けて私の腕を掴む。痛いくらいだったが、今は構っていられなかった。
「アリエッタを覚えておられますか」
「導師守護役のアリエッタですね。ええ、覚えています」
「……彼女とは時折手紙を交わしていました。アリエッタは字を書くのが得意でないようなので、添削などもして。何か困ったことがあれば頼るように伝えていました」
驚いた、ヒルデブラントがそこまでアリエッタを気にかけていたとは。確かに彼は私にアリエッタをメシュティアリカ同様ホドグラドへ連れて帰ってほしいと嘆願してきたが、その後も交流は続いていたらしい。確か母がフェレス島の出身だと言っていたが、ここまでするのを見ると本当にアリエッタの家族と知り合いだったのかもしれない。
「助けてほしいと、言ってきたのです。イオン様が……死んでしまう、と」
「導師イオンが死ぬ、ですか。それで、どのように助ければ?」
「分かりません。ですがアリエッタはどうやら病の導師をダアトにいてはお守りできないと思っているようなのです。それで導師を連れて彼女の母が――魔物ですが――いる森へ向かうと言っています」
ふむ。私の知っている限りではアリエッタは最後まで導師イオンの入れ替わりすら知らなかったはずだが、今は違うらしい。私はヒルデブラントに告げた言葉を思い出した。――アリエッタが当たり前のことを当たり前にできないとき、手助けをする。それが今で、私はそのことを考えていなかったわけではない。
「よろしい」
私は座ったままのヒルデブラントを見下ろした。彼がなぜこんなに緊張して顔を青くしているのか、理由はよくわかる。
「騎士ヒルデブラント、直ちにその森へ向かいアリエッタおよび導師イオンの身柄を確保なさい。ですが、最優先はあなたの安全です。危険な場合は離脱してここに戻りなさい」
「ですが……導師ですよ。伯爵、あなたはローレライ教団と事を構える気ですか」
ヒルデブラントの懸念事項はそれだ。アリエッタを助けてやりたいが、ローレライ教団を敵に回すのは伯爵家に迷惑がかかる。何せやろうとしているのは導師の誘拐だ。
「ヒルデブラント。導師の容体が悪いとアリエッタは言っているのでしょう」
「は、その通りです」
「ですが、実際にはそんな話は聞いていません」
「アリエッタは嘘をつく娘ではないかと」
「わかっています」
導師はまだ若い。だったら病気なんかに罹れば噂になるはずだが、現実では問題なく公務をこなしている。だから、そんな話を聞かないのだろう。
アリエッタから見ても弱っていると判る彼がどうやって?簡単な話だ。
「つまり、教団は何かを隠しています。面に立っているのは本当に、導師イオンでしょうか?」
「……まさか、伯爵」
私は微笑んだ。知っているからこんな博打に出られるのだが、ヒルデブラントはそうではない。安心させてやらないと動きも取りづらいだろう。
「訂正しましょう、ヒルデブラント。アリエッタと『ただの』イオンを保護なさい。よろしいですね」
「かしこまりました」
ヒルデブラントは傅いて命令を受け入れた。さて、どうなるか。アリエッタが追っ手を大量に引き連れてきたら手出しもできないが、おそらくそうはならないだろう。レプリカができているなら――いや、できていなくともレプリカ情報だけ抜いてしまえば被験者は用済みだ。そして最近はケセドニア北部戦線もきな臭い。教団が派兵したという話も聞こえてくるし、こっちに割く戦力が多いとは思えない。
「希望的観測ですがね」
私はヒルデブラントのいなくなった部屋で呟いた。最悪の場合は切り捨てる、だがまだわかったわけではない。彼が無事ここまでたどり着いてくれることを祈った。


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