リピカの箱庭
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導師イオン、もといただのイオンとアリエッタをヒルデブラントに迎えに行かせるにあたってはとにかく人目につかないように行動してもらった。アクゼリュスから山道を降りたところまでは電話線を引いたのでそれを使って連絡をもらい、そこからマルクト側の道ではなく人目につかない南側の道を使って街までやってきてもらった。アリエッタはダアトから魔物を使って移動をしていたので、ヒルデブラントは合流地点から先もダミーの魔物を走らせたりさせたらしい。イオンの素性が素性なので念を入れて入れすぎということはないだろう。
そんなわけでアクゼリュスの街のはずれ、研究所の近くの空き民家にイオンとアリエッタは連れられてきていた。流石に導師の誘拐となると知る人は最小限でいいと思い、今のところはヒルデブラントと私の間のみの秘密になっている。
「……あんた馬鹿なの?」
第一声がこれだ。刺々しい言葉を浴びせてきたイオンと、部屋の隅で縮こまるアリエッタに私は肩をすくめてみせた。
「さて。病人を放り出すのは私の仕事ではありませんので」
「どうせ死ぬんだよ。預言って知ってる?」
「導師イオンの死は秘預言に記されているのですね」
知っていることだが確認はしておく。イオンはこちらを鋭く睨んでから急に穏やかな微笑みを浮かべた。「導師イオン」の顔だ。
「その通りです、ガルディオス伯爵。預言とは始祖ユリアが人びとの導として残した未来の一部です。それが覆ることはありません」
ここで何を言っても無駄だろう。イオンは自分の死を信じきっていて、だからこそここまで来てしまうくらい自棄になっていた。普通ならばいくらアリエッタに攫われたと言ってもどこかで抵抗していたのではないかと思う。
「しかし、私の前にいるあなたはただのイオンです」
「……何を」
「あなたが導師ならば、無事にここまで来れますまい。派兵の最中でも神託の盾騎士団が不在というわけではないでしょう」
イオンがここまで来れてしまった理由は、もう一つ。彼の代わりがいるからだ。被験者がじきに死ぬことすら決まっているのなら口止めの必要もない。だから野放しにしても良いと判断されたのだろう。
よりによってガルディオス伯爵の元へ向かったのだ。ヴァンデスデルカは――導師のレプリカを作った張本人はどんな顔をしたのだろうとふと思った。
「導師は別にいる。そうですね」
「……なぜ知っているのです」
「現状から推測した、それだけです。ローレライ教団にはフォミクリーに詳しい研究者もいますから」
向こうではネイス博士と名乗っていないのでイオンに名前を伝えてもわからないだろうけど。私はそう言ってからアリエッタに視線を向けた。彼女は伏し目がちにこちらを見上げてくる。怒られるのを恐れているような瞳だ。そのくせ、意思を曲げるつもりもないのだろう。まさかアリエッタがイオンを誘拐するとは私も思わなかった。彼女にそんな積極性があるなら、私の知っていた物語でも何も知らないままに死ぬことはなかったのではないか。
――いや、アリエッタは変わったのか。おそらくヒルデブラントとの交流が原因だろう。都合よく操ることのできる獣のように無知な少女ではなくなったということだ。
「アリエッタ、あなたはどうしますか?ここで治療を行うことは可能ですが、神託の盾騎士団に戻ってもかまいませんよ」
「イオンさまのそばにいる、です」
アリエッタの返答は予想通りだった。ここまで来てイオンを放り出したりはしないだろう。個人的には神託の盾騎士団が追ってくるならイオンよりアリエッタの方が可能性が高いと思う。イオンにはもう代わり――レプリカがいるが、アリエッタの魔物を操る力は唯一無二だ。とはいえ一兵卒であるアリエッタはイオンと違って地位がないのでそれくらいなら伯爵家の権力でうやむやにできるだろう。アリエッタをただの導師守護役にしておいたのがあだになった形だ。
「わかりました。ではヒルデブラント、世話は任せます。医者はそうですね、ルグウィンを呼びなさい。彼ならフォミクリーにも詳しいですから。私から話を通しておきます」
「かしこまりました」
「……」
イオンはむっつりと黙り込んでしまった。気持ちは分からなくもない。ここまで来たとして預言は変わらないと思っているのだろう。
しかしイオンの病状がどんなものかは分からないが、この街には最先端の医療技術がある。そう、フォミクリーだ。確立されたものではないけれど、おそらく私の知る世界にはなかったものだ。
効果なんてなくって、もしかしたら悪く作用するかもしれない。でも、自分のレプリカに囲まれて、レプリカを代替とするために生きるよりはずっといいのではないか。生まれた直後からずっと導師となるために育てられて、導師として生きてきたのだ。最後に少しだけ、同情から手を差し伸べたっていいだろう。
「ああ、そうでした。イオン、この名前だと少しばかり目立ちますからね。名前を変えておいてください」
「急に無茶なこと言うね。それだったらあんたがつけてくれない?」
「……では、ノイ」
「はは、安直」
イオンは小馬鹿にするように笑って、そして何か憑き物が落ちたように「ノイ、か」と呟いた。


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