リピカの箱庭
59

ピオニー陛下の戴冠式から王城の庭は一般に解放されたままだった。「こんなもの独り占めしても仕方ないだろう?」というのは陛下の言で、なんともらしいと思う。そんな庭を私は馬から降りて歩いていた。馬に乗ってきたので当然ドレスなんかは着ていない。身につけているのは男性用の礼服だ。この世界には女性軍人もいるので男装と言うほどでもないと思うのだけれど、女性の正装としてはパンツスタイルに馴染みがないようなのでやはり男装じみているのだろう。通りすがりの貴族の令嬢らしき少女たちがこちらにチラチラ視線を投げかけてきた。
「相変わらずですね、伯爵」
「そうですか?」
供についていたジョゼットが曖昧に微笑む。「ガランもとても人気でしたからね」と言われてなんとなく察した。多分、私は男装した女ではなく男に見えるのだ。ガランとして振舞っていたせいで男性の仕草が身についているからだろうか。ちなみにこの格好をするとアシュリークが喜ぶのでなんだか負けた気分になる。
「……私とガイラルディアはお父さまに似ていましたから」
まあ、それも悪いことではない。この男装は動きやすくて馬に乗れる――馬車に乗らないで済む以外にも利点がある。ピオニー陛下も気にかけてくれていたが、あの戴冠式で私は妙に目立っていたらしい。ついでにアクゼリュス行きも公表されたので、私がグランコクマを離れる前が最後のチャンスとばかりに攻勢をかけてくる貴族が増えてしまっていた。そんな貴族の巣窟である王城にドレス姿で乗り込んでいられるかという話だ。
本当は身分も隠してしまいたいのだけど、それだと本来の業務に支障が出るのでこうやって堂々と歩き回っている。すると何やら令嬢方の間で私の婚姻を阻む同盟が立ち上がったらしく(ジョゼット談)、最近は変な輩も減ってきた。なぜだろう?強引な若者に絡まれている令嬢をちょっと助けたりはしたが、同盟を組まれるほどのことはしていないと思う。お嬢様たちの考えることは謎だ。
とはいえ王城の奥に入ってしまえばそこまで私につきまとう者はいない。ピオニー陛下がちゃんと躾けてくれているようで大変助かる、などと考えていたら向こうから慌てた様子のフリングス大佐がやってきた。
「ごきげんよう、フリングス大佐。どうかされましたか?」
「ガルディオス伯爵、ジョゼット殿!実はですね」
大佐は肩をすくめてあたりを見回した。
「陛下のブウサギが脱走しまして」
「よく脱走しますね」
「使用人もブウサギの扱いを心得ていないものですから……」
そりゃ王城の使用人でブウサギを飼った経験のある者なんてそういないだろう。私はジョゼットと顔を見合わせた。こっちは慣れたものだ。
「我々も手伝いましょう。手分けすれば早いはずです」
「申し訳ありません。ガルディオス伯爵ならブウサギたちも逃げたりはしないでしょうから助かります」
私は何度かブウサギと戯れたことがあるが、割と懐かれているらしい。動物なんて餌をくれる人間に懐くものだ。使用人たちが不憫でならない。
私はさらに奥の区域を、ジョゼットとフリングス大佐には入口の方を探してもらうことにして別れた。さて、居場所の目星はついている。私は城の奥まった中庭に向かった。
その中庭は前庭とは違って豪華なものではない。けれど手入れがきちんとされていて、こぢんまりした居心地のいい箱庭のような雰囲気だった。そこの茂みにからまるまるとしたブウサギの尻が突き出ているのを見て私は思わず笑みをこぼしてしまった。
「あなたはジェイドですね?勝手にこんなところに来て」
声をかけるとこちらに気づいたブウサギは鼻を鳴らして顔を向けてきた。陛下曰く「かわいい方のジェイド」だが、ブウサギに身近な人物の名前をつけるのは呼ぶのが気まずいのでやめてほしい。周りに誰もいなければ気にするものでもないけど。
「戻りますよ。……もう少し日向ぼっこがしたい?仕方ありませんね」
庭にはベンチがないので、私はハンカチを敷いて木陰に座り込んだ。ふすふすと鼻を鳴らしながらブウサギが隣に寄り添ってくる。ポケットを探すような動きに笑ってしまった。
「今日は何も持っていませんよ。こら、ああもう。足跡がついてしまったではないですか。クリーニング代請求しますからね、ジェイド」
部屋にいるときは足も綺麗にしているが、土の上を歩いたせいで服にきれいな足跡が残ってしまった。仕方のないブウサギだ。今日は色の濃い服でよかったなと思いながらブウサギを逃さないように捕まえて立ち上がる。そろそろ連れて戻ってしまわねば――と、顔を上げて私は思わず硬直した。
「……」
一番いてほしくない人物がそこにはいた。思わずブウサギを捕まえる手が緩んで、その隙に逃げ出されてしまう。
「あ、ジェイド!」
「……ふ」
「っ、カーティス大佐」
「いえ、すみません。あなたが気づいていないとは思わず」
いつから見ていたのか。気配を消しておいてその言い草はどうかと思う。私は諦めて軽快に走り去るブウサギを見送ってからカーティス大佐に向き直った。
「何か用でも」
私もだいぶ身長が伸びたし、これもやはり父譲りで背の高い方だがカーティス大佐のことはまだ見上げる必要がある。ガラス越しの赤い瞳はどうしても私の胸をざわつかせた。
「――ピオニー陛下がフォミクリー技術の研究権をあなたに与えられたそうですね」
「ええ」
その話題は想像していたが、こうして直に問われるとどうにも平静でいられる自信はない。救いなのはここが中庭で、あの無機質な部屋とは程遠いことだった。
「なぜですか。フォミクリーはあなたにとって災いであったはずです」
自分に言い聞かせるような口調でカーティス大佐は言う。そうだ、あれは災いだった。けれど、人災なのだ。
「それを、あなたが私に訊くのか?カーティス大佐、私はあなたの部下でも捕虜でもない。弁えるがいい」
でも応えてやる気はなかった。表情を消して睨むとカーティス大佐は一瞬戸惑いのような色を浮かべてから「失礼いたしました」と傅いて頭を下げた。さらりと長い髪が肩から落ちる。こういうところが苦手だ。そうして礼を尽くせば私が糾弾しないと知っている。プライドを投げ捨てる軍人は貴族なんかよりはるかにタチが悪い。
「安心するがいい、あなたをフォミクリーに関わらせる気は微塵もない。それとも――残念だったか?」
「……いいえ。貴卿のご判断が正しいかと存じます」
「ふ、どうかな。まだ分かっていないように見えるが」
バルフォア博士が師の復活を望んでいないのは確かだ。とはいえ、彼のことが信頼できるかといえば否である。フォミクリーを最も恐れ、惹かれるのは彼自身に違いない。こうしてわざわざ私に直接尋ねてくるほどだ。整理はまだつけられていないのではないかと思う。
私はカーティス大佐を立たせて、やや大きめに靴音を鳴らしてその場を去った。ブウサギ探しは最初からやり直しだ。次はどこを探そうかと考えながら先ほどのやり取りを頭の片隅に追いやった。


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