リピカの箱庭
58

フォミクリーの研究についてはシミオン経由で大学に働きかけたり、以前から譜術研究を行っていたツテを辿れば研究者を集うのはそう難しいものではなかった。問題はアクゼリュスへの異動の方である。以前のアシュリークやジョゼットの反応で薄々気づいていたが、私がホドグラドを離れることは皆にとって予想外だったらしい。
「ホドグラドはレティシア様の街ではありませんか!今になって取り上げるなど有り得ません!」
「……エドヴァルド。ガルディオス家の領地はどこにもないのですよ」
「ですが」
「あなたは変わりませんね」
言い募ろうとするエドヴァルドを視線で制する。私が幼い頃からそばにいたからだろうか、エドヴァルドは少し過保護な気がある。晩餐会での陛下との密談もあんな険しい顔をしていたのは、どうやら陛下が私にコナをかけようとしているからだと勘違いしていたためらしい。ただでさえネフリーさんを忘れられない陛下が、私のような小娘を歯牙にかけるものかと少し笑ってしまった。
「前から分かっていたことです。どこに行くか、こちらから決められただけでも配慮のある采配ですよ」
「……そのために、家の人員を増やされていたということですか」
「それもあります。ガルディオス家の騎士たちは全員ついてきてもらいますし、陛下も下手な人物を私の後釜に置かないでしょう。グスターヴァスもいるのですから、どちらも案ずることではありません」
ホドグラドの騎士団は解体させないと陛下に約束してもらったし、民を刺激したいつもりでもないだろうから最初は騎士団の自治に任せる形で官僚の影響力は小さいだろう。塾の運営なんかも今まで通りのはずだ。その先は、まあ陛下のお手並み拝見といったところだ。
「あなたには引き続き苦労をかけますね、エドヴァルド」
「いえ。私はガルディオス家の盾、左の騎士でございます。レティシア様をお守りすることが我が役目。どのような地にも私を連れて行ってくださらないと困ります」
こういうところは変わっただろうか。ホドを出た日の彼を思い出す。最初は決して望んだ役割でなかっただろうけれど、こうして言ってもらえるのは素直に嬉しいことだ。
「しかし、問題はメシュティアリカですね」
そう、彼女は正式な騎士でも使用人でもない。もしユリアシティに返すならこのタイミングだろう。
「ティアを連れて行かないおつもりですか?」
「彼女が望まないのなら。いいですか、エドヴァルド。メシュティアリカがダアトに戻ると決めても何も言ってはなりません。彼女の決断は彼女のものです。別れを惜しむだけになさい」
余計なことを言う筆頭のエドヴァルドにはきっちり釘を刺しておく。エドヴァルドは少し困った顔をして、「エゼルが泣くでしょうね」と呟いた。
……それは、困るけど。

そんなわけで、私は一足先にメシュティアリカへの説明をすることにした。ここに来た時よりいくらか背の伸びた彼女は話を聞いてぱちぱちと瞬いた。
「予定が少し早まりましたが、つまりあなたには選んでもらわねばなりません。――ダアトへ戻り士官学校へ進むか、このまま騎士になるか。まだアクゼリュスへ行くまでに時間はありますから今すぐとは言いませんが」
「それは……」
メシュティアリカはぎゅっと胸元のペンダントを握りしめた。いつもしている母の形見だというものに加えて、もう一連細いチェーンが白い肌をいろどっている。メシュティアリカが最初に譜歌を使って不審者を拘束したとき、褒美として買い与えたネックレスだ。シルバーのタグに埋め込まれた宝石は海の色でキラキラと輝いている。こちらもずっとしているのだから、気に入っているようではある。
メシュティアリカはそうしてしばらく俯いていたが、やがて顔を上げて決意のまなざしを私に向けた。
「……ダアトに、行きます。私は伯爵さまの騎士にはなれないんです」
正直なところ、その返答は想定していた。メシュティアリカは騎士の訓練によく励んでいたし、この屋敷にも馴染んでいた。寝付けない夜に私の寝室でホットミルクを飲ませたのは最初の数ヶ月だけだった。
それでも、メシュティアリカはどこか――他の者とは雰囲気が違ったままだった。その理由はきっと、今の彼女の答えの中にあるのだろう。ガルディオス家に忠誠を、人生を捧げられるとは思っていない。やはり彼女にとって一番大きいのは兄の存在で、それは変わることがなかったのだ。
「わかりました。士官学校へ入るということですね」
「はい。……兄さんにも言わなくちゃ」
「私からも手紙を書きましょう。それでも駄目だと言われたら」
メシュティアリカは不安そうな顔で私を見上げていた。
「適当に身分を変えて士官学校へ入ればよろしい。そうですね、ホドグラドの住民としてならまだ籍は作れます。なんならエドヴァルドの養子にでもなりますか?」
「……許してもらえるように頑張ります!」
遠回しに断られてしまった。まあ、戸籍を作るのはともかくエドヴァルドの養子になんかなってしまったら元の家族とのつながりも切れてしまう。メシュティアリカのことを気に入ってるエドヴァルドたちは歓迎しそうだけど。
とにかく説得の手紙を書かなくてはならない。……手紙か。何を書けばいいのだろうという気持ちが首をもたげたが、ガルディオス伯爵代理としての言葉しか今は必要とされていないのだ。メシュティアリカが出て行った後、私は淡々と文字を記してガルディオス家の家紋の封蝋を捺した。そしてふと思い出してヴァンデスデルカから届いた手紙を引き出しから出して眺める。もう二度と使われることのないフェンデ家の家紋を。
「今更ですよ、ヴァンデスデルカ……」
騎士を選ばなかったのはあなたなのだ。あなたの代わりはどこにもいない。それをどうしてわかってくれなかったのだろう。唇を噛み締める。
「もうきっと許されはしませんね。あなたも、私も」
禁忌に手を染めるあなた、故郷を亡ぼした仇敵を赦す私。深い溜息が溢れて、私はとてつもない疲労感とともに瞼を下ろした。


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