リピカの箱庭
49

剣を鞘に収める。ふっと感覚が通常に戻ったような、そんな気がした。やはり武器を手に持つと心持ちが変わるのか、五感が研ぎ澄まされているように感じられる。
「お疲れ、ガラン」
「ああ。アシュリーク」
タオルが投げ渡されたのでそれで汗を拭う。汗だけではなくて土埃にもまみれていた。アシュリークと稽古をするときが一番熱が入ってしまう気がする。
「騎士団の風呂場、借りるか?」
「いや、よしとくよ。というかアシュリークはよく借りてるのか?」
「まあな。たまに訓練に混ぜてもらえるから」
それは初耳だ。アシュリークは一房だけ伸ばした髪を指で弄ってちらりと私を見た。何か言いたげだと分かる瞳は、結局何を言いたいのかは分からない。
「それだったら騎士団に入ればいいんじゃないか?アシュリークなら歓迎されるだろ」
「うーん。まあ、そうかもしんないけどさ」
私は土埃を丹念に払ってタオルをアシュリークに返した。乱れた髪を一度ほどいて結び直す。騎士団の浴場は流石に借りれないが、屋敷で汗を流してから帰ろうか。
「騎士団ってさ、この街の騎士団だろ」
呟きは私に向かって吐き出されたものだっただろうか。いつになく小さな、けれど真剣な声に私はアシュリークに体を向けた。
「国の軍に入りたいのか?それなら士官学校か。まだ試験まで時間はあるな」
「……ガランってたまにすげえ鈍いよな」
「なんだそれ」
「そのままの意味だよ。まあ、俺しか気づいてないからいいけど」
アシュリークがスタスタと歩いていってしまうので慌ててその背を追いかける。私のどこが鈍いというのか。場合によっては致命的なのできちんと教えてほしいのだけど。
「おい、アシュリー……」
名前を呼んだのに、途中で声が上手く出なかったのは歌が聞こえてきたからだった。私の知っている歌。ただの歌ではない、譜歌だ。
旋律は同じなのに、その声だけはどうしても違うものだった。
「ああ、ティアか。ジョゼ姉が連れてきた子だよ」
アシュリークにも聞こえたのか、私に向けて説明してくれた。メシュティアリカがユリアの譜歌を歌うなんて当たり前のことなのに、どうして私はこんなに動揺しているのだろう。
「あれ譜歌らしいけど。音律師でも目指してんのかな?変わった子だよな」
「あの譜歌は……特別なんだ」
そう、特別だったんだ。あの庭でいつも、ヴァンデスデルカが歌ってくれたのだ。ホドの屋敷の、美しい庭で。
ここではない。ホドを模したレプリカの、こんな場所ではなかった。奥歯を噛みしめる。私が作った街がホドだと言ったのはピオニー殿下だったか。ホドを亡くした民のための街だと言ったのは私だったか。文化を失うことは真実ホドを消滅させることだ。それを許せるはずもなかった、けれど。
この街はレプリカに違いなかった。
あの日は戻ってこないのに、待ち続けるようなそんな場所を作ろうなんて思わなかったのに。メシュティアリカの歌うユリアの譜歌はヴァンデスデルカの歌とは違うはずなのに。
愚かにも待ち続けていたのだと気がつかされて、足場が崩れていくようだった。
「特別?譜歌に特別とかあるのか?確かに聞いたことないやつだけど……ガラン?」
歌は止んだはずなのに、耳の奥でリフレインして消えない。記憶の彼方にある声なんて覚えているはずもないのに、メシュティアリカの声と重なってあの日の声が聞こえてくる。
「ガラン?おい、顔色悪いぞ。ガラン!」
それを遮ったのはアシュリークの声だった。はっと我に返って、それでもまだ消えない歌に首を横に振った。
「……ああ。悪い、立ちくらみだ」
「もしかして体調悪いのか?医務室行くか?」
「そこまでじゃないさ」
こんなものは慣れの問題だ。メシュティアリカが譜歌を歌っているのを聴く機会なんてこの先いくらでもある。何せ私からユリアの譜歌を習得するように伝えてあるのだから。
アシュリークは心配そうな顔をしていたが、私は誤魔化すためになるべく普段通りのトーンで話題を戻した。
「アシュリークはティアを教えてないのか?」
「いや、ジョゼ姉がつきっきりだからさ。チビ達がずるいって言ってたぜ、ジョゼ姉人気だから」
「へえ、そうなのか」
ふむ、そうなると塾にいる間はあまりメシュティアリカを特別扱いしないほうがいいかもしれない。メシュティアリカも同年代の子どもたちと少しは触れ合ったほうがいいだろう。内向的なようだから上手くやれるか心配ではあるけど。
「それに俺譜歌は分かんねえよ。ルグはかじってたけど、やっぱあれ効率悪いって」
「ルグウィンは好奇心旺盛だからな。譜歌までやってたのか」
「でもガランも知ってるんだろ?」
「まあね。ティアの譜歌はユリアの譜歌というものでさっきも言ったように特別なんだ」
いつになく口が軽くなっているのはやっぱり先ほどの失態を誤魔化すためだろう。自分でもそう思いながら言葉を続ける。
「ユリアの譜歌は譜術と同等の威力を発揮できるものなんだよ。つまり実戦にも使えるのさ」
「そんな便利ならもっと使われててもおかしくないんじゃないのか?」
「ユリアの譜歌は一子相伝の秘術だからね。つまり今のところ……ティアにしか使えないんだよ」
「そりゃ特別だな」
「そういうこと」
私は話を締めくくって庭に視線を向けた。もうそこに歌を歌う誰かはいなかった。
「……ガランは物知りだよな、ホントに」
「え?」
「なんでもねえよ」
振り向くとアシュリークがニッと歯を見せて笑っていて、その表情に違和感を覚えたけれど私は気がつかないふりをした。


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