深海に月
ex-02

幼い少女は鎧の腕の中で気を失っていた。泣き疲れたのかとも思ったが、あんな大怪我を自力で治癒した後なのだ。疲労も溜まっていただろう。フレンは壊れ物を扱うように少女を抱き上げた。
こんなことをしている場合ではないと分かっていた。ユーリの策によって魔物を退けることには成功したが、またいつ襲ってくるかは分からない。負傷者をまとめて対処し、一刻も早く体制を整えなおさなければならないことはよく理解している。それでもフレンは、泣いている彼女の手を振りほどくことはできなかった。抱きかかえた重さを手放すべきではないと思った。
「エステリーゼ様」
「……、えっ、はい」
声をかけられたエステリーゼは一拍遅れて返事をした。無理もない。けれど、ここにいる以上は優秀な治癒術師であるエステリーゼの手を使わない選択肢はなかった。
「負傷者の手当を手伝っていただけますか?」
「そ、そうでした。そうですよね!」
エステリーゼがちらりとジュディスを見るのは、彼女の発言のせいだろう。ジュディスは切れ長の目を伏せて、「あとで話すわ」と簡潔に告げた。その一言でその場は解散になった。気になることだが、最優先ではないと皆分かっていたからだ。


「フレン」
帝都の夜とはまた違う、冷たい空気の中でフレンは立っていた。呼んだのはユーリで、フレンは返事をせずに欠けた月を見上げていた。
「……休めと言われて追い出されてしまったよ」
「そりゃ、働き詰めだったからだろ」
フレンは苦笑した。そんなのは皆同じだ。むしろ、今こそ自分が一番働かなければならない時だった。幸福の市場のギルドマスターの協力も得てこの地に砦を建てることは決まったが、計画をより詳細に詰めるのは自分の仕事だ。今後どう動くべきか、責任は全て自分にある。
「休めよ。倒れんぞ」
「そんなにヤワじゃないさ」
ユーリも部下たちと同じ心配をしているのがなんだかおかしかった。フレンのそんな顔を見て、ユーリは表情をゆがめた。
「……お前、後悔してんのか」
何を、と問う必要なんてない。フレンは黙ったが、ユーリの言葉の続きを聞きたくはなかった。
「レティは自分でここに来たんだろ」
「だが、判断を誤ったのは僕だ」
「そんなの覚悟の上じゃねえか。だから選んだ。違うのか」
ユーリはそう言うだろう。フレンはそう思わなかった。レティシアはエステリーゼとは違う。まだこどもだ。何も知らない、戦場を知らないただのこどもだった。皇女でも皇子でもない、フレンが守るべき民の一人だった。
それをエステリーゼに重ねて特別扱いをして、判断を誤ったのは自分自身に他ならない。
「ユーリ。あの子を泣かせた僕がどう許されるんだ?」
許して、とレティシアは泣きながら言った。違う、とフレンは思った。許されないのは自分のほうだ。レティシアはきっと何かを隠しているだろう。あの力は満月の子の力とはまた違うのだろう。それでも、あんなふうに少女を泣かせたのは許されることではない。
「……レティは許すだろうけどな。許さないのはお前だけだ」
「そうだよ。だからユーリ、君が何を言っても無駄だ」
誰が許しても、自分自身は許せそうにない。今回の仕事は騎士としても、騎士団長としても最悪だった。だから言っただろう、とフレンは笑いたかった。経験も力も足りない自分にはあまりに荷が重い。
何度ユーリを頼ればいいのだろう。自分の道を見つけたユーリが羨ましかったし、同時に相容れないところがあるのも知っていた。心地よいくらいの身勝手さを、彼の正義を、自分も持つことができればよかったのかもしれない。それができないことはユーリが騎士団を辞めたときからずっと知っていた。自分はユーリが正しいとは思っていないからだ。
けれど諦める気もなかった。諦められるはずもなかった。今、目指した場所に一番近いところにいる。自分を許せなくても、この状況で最善を尽くすしかないのだ。
「頑固者め。でもレティの前でそんな顔すんなよ。心配かけたくないならな」
「レティシアが僕の心配をすると思ってるのかい?」
「するだろ。あとエステルはするから、エステルの前でもやめとけ」
容易に想像がついたのでフレンは誤魔化すようにため息をついた。総合すると、誰の前でも情けない顔をするなということだ。無茶な注文が好きな親友にフレンは最後に力なく笑ってから表情を引き締めた。
「エステリーゼ様にご心配をかけるわけにはいかないね」
「あいつはいつでもお前のこと心配してっけどな。最初もそうだったし」
「生死不明になった誰かさんには言われたくないな」
「今回のお前も似たようなもんだろ」
フレンは自分のテントに向かっていた足をふと止めた。ユーリへと、上半身を振り向かせる。
「凛々の明星はいつまでここにいるつもりだ?」
「さあな。レティが目覚めたら話を聞きたいとは思ってるが」
「始祖の隷長――だからか?」
にわかには信じがたい話だ。レティシアは少なくとも普通の人間の姿をしていた。だが、ジュディスがあの場で根拠なく妄言を吐くとは思えなかった。エステリーゼはかつて満月の子の力で始祖の隷長を死に至らしめたという。だから、もしレティシアが始祖の隷長ならば同じような結果になると考えたのだろう。
「レティが何者であれ、はっきりさせたいし放っておくのがいいとは思わない。それに、星喰みへの対抗の一手になるかもしれねえ」
「彼女を危険に晒すのか」
「オレはな、フレン。レティが選ぶなら止めねえよ」
闇に溶け込むような双眸が鋭くフレンを射抜く。フレンは静かに燃える瞳でただ見返して、それが答えだった。


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