リピカの箱庭
40

私はずっと迷っていた。
コーラル城でこれから起きることを私は知っている。ルーク・フォン・ファブレという少年がその居場所を奪われることも、レプリカとしてただ利用されるために生み出されることも。それを止めるべきかずっと迷っていた。止められるかもしれないという気持ちがどうしても胸にあった。
物語の、そして預言の歯車はまだ噛みあったまま、ずれてはいない。それを無理矢理ずらしたらどうなってしまうのか、知るのが怖い。止めるとして、ヴァンデスデルカと対立することになるのも怖い。生まれると知っている存在を否定するのが恐ろしい。
だから、ヴァンデスデルカが私の迷いを見透かしたように手紙を送ってきたことにいっそ安堵すらした。彼は私がコーラル城での出来事を知っているという可能性も考えているのだろう。そして、邪魔が入らないようにこれほど周到に準備している。
手紙には予想通り、メシュティアリカのことが書かれていた。フェンデ家を継ぐのは彼女であると、そのために彼女を迎え入れてほしいと、ただそれだけ。ヴァンデスデルカ本人が今何をしているのかについては一切記述がなかった。
「確かにファルミリアリカ様は身籠っておられましたが……その娘が真にフェンデの者か確証はありますまい。だいたいなぜヴァン本人が生きているというのにフェンデ家を継がないのです。あいつは何をしているんだ。生き延びたというのにお嬢様の元に馳せ参じないとは!」
いつになく激しい口調でエドヴァルドは吐き捨てた。彼はホド崩落の時点で既に騎士として家に仕えていたから尚更そう思うのだろう。私は手紙を畳んで封筒に戻した。
「……ヴァンデスデルカが望まないのなら」
うそだ。ヴァンデスデルカがいかに望まなくたって、どうしたって、私は彼にそばにいてほしかった。でもヴァンデスデルカはそうしてはくれなかった。だから利口なふりをしてそう言うしかない。
「レティシア様……」
エドヴァルドの声がひどく心配しているふうに響いて、私は取り繕えなかったことを知った。それもそうか、でもそれではいけない。
「それに、フェンデ家の者がその身を証明するのは簡単なことです」
無理矢理話を切り替える。そう、メシュティアリカがフェンデの者、つまりユリアの子孫がどうか判別するのはごく簡単だった。
「ユリアの譜歌がありますから」
「しかし、それだけでは」
「それだけでよいのです、エドヴァルド。フェンデ家は契約を継ぐ者たちです。極論を言えば、その条件を満たしてさえいればいい」
七つの譜歌こそがユリアとローレライの契約の証だ。それはいつの時代か必ず必要になるもので、だからこそフェンデ家がその譜歌を継ぎ、ガルディオス家がその家を守ってきた。エドヴァルドは怪訝な顔をしたのでフェンデ家の本質を理解してはいないのだろう。
「それは……契約とは一体」
「我がガルディオス家の務めです。エドヴァルド」
それ以上説明する気はなかった。いや、できなかった。私がこのことを知っているのは「おかしい」からだ。本来ガルディオス家を継ぐことのなかった子どもが知り得ることではない。
エドヴァルドは迷うそぶりを見せながらもこちらを真っ直ぐに見つめてきた。
「……お嬢様、もしかしてあなたは、知っておられたのですか。ヴァンデスデルカが生きていることを」
「だとしたら、どうだというのです。ヴァンデスデルカは選びませんでした。それが答えで、結論です」
「ですが、お嬢様。あなたはあれだけヴァンのことを気にかけていらしたではないですか。ヴァンもお嬢様のことを――」
「エドヴァルド!」
彼は私が研究所に侵入したことを知っているのだ。だからこんなことを言う。そうだ、ヴァンデスデルカを救いたかったのは本当だ。彼に苦しんでなんてほしくなかったのは本当だ。彼にそばにいてほしいと願ったのは本当だ。
エドヴァルドが私を思って言ってくれているのは分かる。それでもそんな言葉、聞きたくはない。
「あなたはここで、留守番です」
そう吐き捨てる。手紙にはメシュティアリカを迎えにダアトまで来てほしいと書かれていた。私は直接行くつもりだったが、エドヴァルドは連れていけない。顔の知っている彼が万が一ヴァンデスデルカとかち合ったら最悪だ。
私は自分がなにを恐れているのかわからないままだそう考えていた。意識せずとも言ってしまうくらいには、歯車をずらすことを恐れていたのだろう。ヴァンデスデルカのことも、ルーク・フォン・ファブレのことも。もしそうならば、メシュティアリカを完全に受け入れることができないのもこの時点で明白だった。
彼女には彼女の役割を果たしてもらわなければならない。そのためには、神託の盾騎士団に属させるのが筋書き通りだった。フェンデ家の家長としてはあり得ないことだ。
矛盾している。手紙を――ヴァンデスデルカからの手紙を見て見ぬ振りもできたのに、私は迷わず決めていた。メシュティアリカを迎えることが筋書きを狂わせるかもしれないのに。筋書きを狂わせることを恐れてエドヴァルドがヴァンデスデルカに接触させないようにさえしているのに。
「レティシア様が行かずともよろしいのではないですか」
「いいえ、我が家に代々仕える騎士を蔑ろにはできません。ジョゼットとヒルデブラントを連れて行きます。あなたとロザリンドにこちらは任せます」
それに、と私は付け加えた。いくらか激情は落ち着いていた。
「身重の妻を放って行けなどと命じるつもりはありません」
ロザリンドは今妊娠している。夫婦にとって一緒にいたほうがいいだろう。エドヴァルドはなんとも言えない表情を私に向けていた。彼の方がひどく傷ついたような、そんな。
「……お嬢様」
「エドヴァルド。この件については決定です。これ以上何かを言うことは……やめてくれますね」
できるのは命令ではなくお願いだった。エドヴァルドが黙って頷いたのを見て私はひどく安心していた。
急ぎの仕事はもうない。近々遠出することを考えるとその采配をしなくてはならないが、今日はそんな気力はなかった。
「今日は戻ります。エドヴァルド、馬車をお願いできますか」
「かしこまりました」
エドヴァルドが部屋を出ていく。私は目を瞑って手紙の封蝋をなぞっていた。


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