リピカの箱庭
41

その少女は眩しそうに空を見上げていた。

私はエドヴァルドに告げた通りジョゼットとヒルデブラントを供にダアトを訪れていた。待っていたのはメシュティアリカ本人――そして彼女の祖父であるテオドーロ・グランツだった。
「は、はじめまして、ガルディオス伯爵」
緊張した様子のメシュティアリカは年齢で言えば十歳くらいだろう。ホド崩落の後に生まれた子どもがもうそんな歳になっているのかとしみじみ思ってしまった。
「はじめまして。あなたがメシュティアリカ・アウラ・フェンデですね」
その名前にメシュティアリカは戸惑ったようだった。彼女をフェンデの名で呼ぶ者はいなかったのかもしれない。作中でも名乗る姓は祖父のものだった。
その祖父といえば、ヴァンデスデルカとメシュティアリカの母親、ファルミリアリカ・サティス・フェンデ――フェンデ夫人の父親である。テオドーロ・グランツがユリアシティの市長というのは知っていたが、その娘がフェンデ家に迎えられたのは父の教団での位が高かったからだろう。ユリアシティ側としてはパッセージリングのあるホドを監視したいという意図があったのかもしれない。――そのホドが、"栄光を掴む者"の手によって滅ぼされると知っていても、いや、知っていたから。
「あの……」
思わずそんなことを考えていた私にメシュティアリカはおずおずと声をかけてきた。「なんですか?」と問いかけると意を決したような表情でまっすぐに見つめられる。
「私、その、自分が貴族だとか……知らなかったんです」
「はい」
「だから、えっと……無理です!」
子どもというのは時には残酷なほどに素直だ。私はつい笑ってしまいそうになった。後ろでジョゼットが明らかに固まっている気配がしていて、グランツ市長も顔を引き攣らせていた。それはもうそうだろう。手紙はヴァンデスデルカの名義だったが、メシュティアリカがフェンデ家を継ぐことに関しては彼とメシュティアリカの育ての親であるグランツ市長の意向も大いに含まれていると考えられる。しかももう私をダアトまで呼びつけてしまった後である。
「ティア!申し訳ございません、ガルディオス伯爵。こうは言っておりますが」
「よろしい。メシュティアリカ、二人で話をしましょう」
グランツ市長が慌てて言い繕おうとするのを私は制してメシュティアリカに再び視線を向けた。
「どうしてそう考えているのか、あなたの本当の気持ちを知りたいと思います。教えてくれますか?」
ゆっくりと言い聞かせるようにそう告げる。子どもに接するときに思い出すのはいつもお姉さまのこと――そしてヴァンデスデルカのことだった。私は彼らを真似てメシュティアリカに話しかける。メシュティアリカは戸惑ったようだったが、頷いた。
「できればあなたの部屋がいいのですが、メシュティアリカ」
「私の部屋――は、えっと、家にはありますが」
私たちが今いるのはダアトのグランツ市長が所有している屋敷だった。メシュティアリカはここで育ってはいない。そう、ユリアシティになら彼女の部屋があるのだろう。
「伯爵、ご案内いたします」
そこまで考えたところでグランツ市長に遮られる。私と彼女で話すことは認められたらしい。案内された部屋に入る際、ジョゼットは不服そうだったけど彼女には外で待ってもらうことにした。
部屋で二人きりで向かい合うと、メシュティアリカは再び緊張をあらわにしていた。私の屋敷ならおやつでも持ってこさせるんだけど、他人の家ではそうはいかない。
「メシュティアリカ、あなたの誕生日はいつですか?」
「えっ?ローレライデーカン、1の日……です」
「私はイフリートデーカン41の日です」
なぜそんなことを訊くのだろうという顔でメシュティアリカは私を見上げてくる。気にせずに続けた。好きな食べ物は?最近読んだ本は?趣味は?メシュティアリカは少しずつ答えてくれた。そしてその答えの陰にはヴァンデスデルカの存在がある。
「メシュティアリカはヴァンデスデルカのことが好きなのですね」
「はい。……はい、兄さんは、私のたった一人の家族です」
メシュティアリカは小さな手のひらを膝の上で握った。その気持ちは痛いほどにわかった。
私はたった一人の家族を思い出す。今はどんな思いでキムラスカのファブレ公爵家にいるのだろうか。ルークが――レプリカルークが生まれる前のその家で、父の剣のその前で。
「だから、私は兄さんの役に立ちたい。兄さんは今、神託の盾騎士団にいます。私も神託の盾騎士団に入りたいんです」
沈みそうになる思考をメシュティアリカはその言葉で引っ張り上げた。そうだ、今は彼女の話だ。
神託の盾騎士団に入りたいという気持ちを否定するわけではない。私とて、この生き方をガイラルディアのためだけに決めたのだから、兄の役に立ちたいと願う彼女を止める権利も理由もなかった。しかし、である。
「騎士団に入ることをヴァンデスデルカやグランツ殿は許してくれると思いますか?」
「……それは」
問題はここだ。メシュティアリカの前には大きな壁が立ちはだかっている。フェンデ家に生まれたからこその壁だ。とはいえ彼女はフェンデ家に生まれたから為さねばならないこともある。
「でも、私が……伯爵のところに行ったら、なおさら神託の盾騎士団には入れません」
その通りだ。だから私がその壁に裏口を作るのだ。
「ではメシュティアリカ、こうしましょう。あなたがフェンデ家を継ぐにしても、そうでないにしても、一度こちらには来てもらいます。そうでなくてはヴァンデスデルカやグランツ殿は納得しないでしょうから」
指を立ててメシュティアリカに言い聞かせる。彼女は不安そうな表情をしていた。
「こちらで何をするかというと、勉強をしてもらいます。騎士に必要なことや、もちろん譜術もですね。あなたが神託の盾騎士団に入ったときにきっと役に立つ知識です」
「それは……」
メシュティアリカは視線をさまよわせる。まだ子どもの彼女だ、やろうと思えば言いくるめることもできる。だがそれは誠実ではないし、メシュティアリカの未来は彼女自身が選ぶべきだ。
――それが筋書き通りだとしても。いや、きっとそうなるのだろう。
「ヴァンデスデルカはいつ士官学校に入学しましたか?」
「え?ええと、確か十四か五くらいだったと思います」
「ではその頃にあなたも決めなさい。神託の盾騎士団に入るかどうか。それまでは猶予とします」
これが私にできる最大限の提案だ。エドヴァルドが聞いたら怒るだろうなと思った。騎士であることを誇りに思う彼はヴァンデスデルカのことも許せないだろうし、主人ではなく兄を取るメシュティアリカを責めるかもしれない。
それでも私は、私だけは彼女を責めることができない。第一メシュティアリカはホド生まれではないのだから、フェンデ家の当主となる重荷を背負わせるのはふさわしくないとも思う。こんな幼い、ものを知らない少女が生きていく世界ではない。それはユリアシティも同じだ。魔界の閉ざされた街で育った彼女には知らないことがたくさんあるだろう。
「それは……私は嬉しいです。けど、伯爵はいいんですか?私、なんのお役にも立てません」
あまりに正直に尋ねるメシュティアリカに私は微笑んだ。この真っ直ぐさは彼女の美徳なのだろう。
「いいんですよ、メシュティアリカ」
そう、ヴァンデスデルカの妹であるメシュティアリカなら、ユリアの末裔の彼女なら。
「あなたがホドで生まれていなくとも、あなたはホドの民なのです。ならば庇護せぬ理由はありません」
メシュティアリカはどこか不思議そうに私を見ていた。貴族でないと言った彼女には理解しがたいのかもしれない。
「……わかりました。本当に、いいんですか?」
そんなふうに最後まで不安げだったが、メシュティアリカは最終的に頷いた。
私たちが部屋を出るとドアの前で立っていたジョゼットがやれやれというふうな表情をしていた。会話が聞こえたのだろう。さて、グランツ市長はともかくジョゼットとヒルデブラントの説得はしなくてはならない。次迎えにくる約束をして私たちは一度宿に戻ることにした。


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