リピカの箱庭
39

うららかな陽気の昼下がりだった。
私はホドグラドの屋敷の執務室にいて、ついでにそこにはピオニー殿下がいた。殿下は暇なのか、ケテルブルクの一件がひと段落した後からちょくちょくこの屋敷に来るようになっていた。だから妙な荷をガルディオス伯爵の名に負わせないでほしいと思うけれど、毎回律儀に護衛を撒いてくるし、そろそろ文句も言わなくなってきていた。
「卿が城に来てくれるのなら俺もわざわざここまでは来ないんだが」
「ご冗談を。用がないのに行くほど物好きではありません」
「相変わらずつれないな」
言葉とは裏腹に殿下はニヤニヤと楽しそうに笑っていた。なんとなく殿下は私を官僚にしたいのだと勘づいていたが、現状ではまだ何とも応えられない。どちらにせよ現皇帝陛下が崩御してからの話だろう。
皇帝は体調を崩しつつもしぶとく玉座にしがみつき、まだかまだかと待っている側もそろそろ疲れてきたような状況だった。とんでもなく不敬なことを考えるが私はかの皇帝には恨みしかないわけだし、立場上殿下を推した方が都合がいい。あと本当にそんな状況の城に立ち入る気は全くない。
とまあ、焦らされつつも殿下は皇太子の身分であるし、本来はこの屋敷に来ている暇もないほど忙しいはずなのだが。私が書類に目を通している間に、殿下は隅に追いやっていた絵画たちに目を向けていた。
「しかし卿も婚約を申し込まれる年齢になったか」
しみじみと呟かれると苦い気持ちになる。私はため息をついてペンを置いた。
殿下が見ているのはガルディオス伯爵代理に対して婚約を申し込んできた貴族たちの肖像画である。下はまだ十の少年から上は私よりふた回り以上年上の男性までよりどりみどりというやつだ。心底勘弁してほしい。婚約の申し込み自体は以前からあったけど、ここ最近かなり多くなった気がする。それだけ我が伯爵家の利権をむさぼりたい人間が多いということか。通信用音機関開発も軌道に乗り始めたし、嗅ぎつけてくる貴族は少なくない。
「殿下こそどうなのです。まだ身を固める気はないのですか?」
嫌みたらしく言うのは許してほしい。殿下がネフリーさんに未練たらたらなのはよく知ってるので。
「まだ早いだろう」
どの口が言うのか。
「……ご自分の年齢と立場、理解しておられますか?」
「よーく分かっているとも」
殿下も皮肉っぽく言う。そして立ち上がったと思うと書き物机に手をついて身を乗り出してきた。
「なんなら俺と婚約するか?伯爵。お互い外野が黙って都合がいいだろう」
「短絡的にすぎますよ、殿下。それに私はまだ結婚しませんから」
即答すると殿下は「ちぇっ」と肩を竦めた。実際、私の身分で殿下と結婚は現実的ではある。反戦派のアイコンである私を利用すれば殿下はより強く立場を表明できるだろう。ガルディオス伯爵代理はいつの間にかそこまでの立場になってしまっていた。
しかし、ガルディオス家には他に人がいない。少なくともガイラルディアが戻ってきてその立場が安泰になるまで私は余計な婚姻関係なんて結ぶ気はさらさらなかった。
そんな会話をしているとドアがノックされて、私は内心首を傾げた。殿下がいるとき、騎士たちには執務室に入らないように伝えている。返事をすると応えてドアを開けたのはエドヴァルドだった。
「お嬢様、失礼します」
慌てた様子で、殿下さえも目に入っていないというふうにエドヴァルドが駆け寄ってくる。この呼び方というのは嫌な予感がした。
「これを」
差し出されたのは手紙だ。貴族が使うような上質な封筒は蝋で封をされていた。その家紋に見覚えがあって私は思わず眉根を寄せた。
「フェンデ家……」
「その通りです」
ガルディオス家の剣、右の騎士。その生き残りがいるのを私は知っている。だが、エドヴァルドはそうでないだろう。私はヴァンデスデルカとダアトで会ったことを誰にも告げていなかった。
何故今になって手紙なんかが届いたのだろう。彼は私と共にゆけないと言った。だが、そうだ、あのとき――
「――フェンデ家?」
口を開いたのはピオニー殿下だった。ちょうど婚約の話をしていたところだ、聞き覚えのない家名に疑問を持ったのだろう。
私も殿下の存在を一瞬忘れていて、そして咄嗟に手紙を隠そうとした。震える唇を開くか迷って、その前にエドヴァルドが応える。
「ガルディオス家に仕えていた騎士の家系です、殿下」
「……ホドの生き残りということか」
そうだ。この国が滅ぼしたホドの生き残りだ。私は殿下を真っ直ぐに見つめてどうにか絞り出した。
「ピオニーさま」
殿下の前で話をしたくはない。これは、この家の問題だった。言葉にせずとも伝わったのか殿下はゆっくり瞬いて扉の方へ歩いていった。殿下のためにドアを開ける者はこの部屋にはいない。
「邪魔したな、レティシア」
「はい」
「……しばらくは会えなさそうだ」
それは殿下の事情ではなく、私の事情だ。私は頷くことはせずにただ黙って殿下を見送った。勝手に出入りする殿下をわざわざ階下まで見送ることはしなくなっていた。
ドアが閉まるのを見届けてから私はもう一度手紙に視線を落とした。エドヴァルドが差し出すレターナイフを受け取る。
「まさか、アダルブレヒト様が生きていらして……」
「いいえ。フェンデ家当主は亡くなっているでしょう」
細い刃で繊維を切る。私は中身を取り出して、それからエドヴァルドを見上げた。
「差出人はヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデです」
「ヴァンデスデルカ――?ヴァンが、生きているのですか!」
私は頷いた。
あの時彼はなんと言っていたか。そうだ、妹の話をしていた。メシュティアリカ、始祖ユリアの末裔の娘。そしてゲームのヒロインであった彼女。
ND2011年。レプリカルークが生まれるその年に、ヴァンデスデルカがこのような手紙を寄越したのは決して偶然ではなかった。


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