リピカの箱庭
17

一国の皇子との約束を簡単に反故にできるかといえば否である。殿下の「借りにしていい」という発言に揺さぶられたというのは正直大いに認めざるを得ないが、とにかく私はエドヴァルドを説得し一人「あの場所」に向かった。昨日、殿下と鉢合わせた路地裏だ。
「よく来てくれた」
殿下はニコニコしながら待っていて、私は帽子を深くかぶり直しながらつばでその顔を遮った。
「殿下直々のお願いでしたので」
皮肉っぽく言うとピオニー殿下はからからと笑った。格好も相まってただの気のいいお兄ちゃんふうだ。そんなことは全然ないので気が抜けないのだけど。
「昨日も思ったが、もう少し砕けてくれても構わんぞ」
困った皇子さまである。臣下に言うは気が楽だろうけれど。
「善処いたします。ところで殿下の――」
「殿下、もなし」
「――ピオニーさまのご友人はどちらに?」
「うむ。呼びつけたからそのうち来るだろうよ。レティシア、おすすめの食堂とかないか?腹ごしらえがしたい」
「わかりました。案内します」
ピオニー殿下のたくらみはおそらく私に街を案内させることもあるのだろう。腹の内を探られている気はするけれど、そんなやましいこともない。
ホドグラドには殿下の言ったとおりにホドの色を濃く残した建物が並んでいる。これはホド出身の建築家や大工を雇ったためだし、故郷を喪った人びとの心を慰めるためでもある。街の食堂にはホドの郷土料理の店がいくつかあり、私はその中から一番静かで居心地のいい場所を選んだ。
店の主人とは知り合いだ。変装した私の、だけど。主人はピオニー殿下を物珍しそうな目で見ながら中に案内してくれた。いつもはエドヴァルドと一緒だからだろう。
「ピオニーさまはケテルブルクでもこのようなことをなさっているのですか?」
「軟禁されてちゃ俺みたいな陽気な好青年でも腐っちまうからな。よく抜け出したものだ」
「現在進行形で、ですね」
「違いない」
ピオニー殿下は笑ったが、一瞬表情を曇らせた。何か気がかりなことでもあるのだろうか。突っ込む前に料理が運ばれてきたので私はフォークを手に取る。
ホドの屋敷で食べていた食事とは少し違うが、これもまたホドの味だ。今の屋敷の食事を作るのはグランコクマで雇われた料理人なのでもうあの料理が食べられないと思うと気分が落ち込んでしまう。おいしいものを食べて悲しくなるなんて我ながら難儀だ。
「うん、うまいな」
殿下は先ほどの陰りのある表情なんて錯覚だったかのように朗らかに笑った。「お気に召したようでなによりです」と返すとちょっと不満そうだったけど。
「レティシアも頻繁に外に出てるんだろう?」
「そうですね。週に一度は塾にも行きますから」
「塾?」
「私個人の資産で少し取り組んでいるのです。読み書きと計算、譜術なんかを教えるような場所ですね」
殿下は片眉を上げた。想定内の反応なので私はただ微笑む。この取り組みに関しては早いうちに上に知らせておきたかったからピオニー殿下の訪問は都合がいいと言えた。
人材を育てる、というのは危険な行為だ。ホドグラドが抱える火種の一つととらえかねない。筋を通しておくに越したことはないだろう。
「この街には孤児も多いですから。将来を選べるなら、そのほうがよいでしょう」
「将来を選ぶ、か」
「軍人になるも、譜術士になるも、預言士になるも構いません。未来を選ぶ権利は誰にでもあるのですから」
「……それが預言に記されていなくとも?」
この世界は預言に頼り切っている。私は誕生日に預言を詠んでもらうことをしていないが、それは異端だろう。誕生日がホド戦争勃発の日であり、死者を弔う日にするという言い訳をしてはいるけれど。結果私は四歳の誕生日から自分の預言というものを詠んでもらっていない。
ピオニー殿下はどうだろう。一国の皇子である以上は必ず預言を詠んでもらっていると思う。この国だって預言に従い戦争を始めたようなもので、終結だって預言に記された通りの停戦だった。
「預言に記されていないことを、選べるというのなら」
私は言葉を濁して答えた。ピオニー殿下のことはまだ信頼しきれない。変なことを言って信頼を損なうのも愚行である。
預言の通りに世界を回すのはひとびとの意思である。私がそう言えるのは、一連の物語を見たからだ。預言のない世界を生きたからだ。だがここは違う。預言の通りに世界を回そうとするひとが生きる世界だ。
私はヴァン・グランツのことを思い出していた。ヴァンデスデルカは彼と同じ結論に至るのだろうか。恐ろしくはある。そうだとして、ヴァンデスデルカのあの歌声が聞けないのは悲しいと思う。
「――選べる者などいるのだろうか」
ピオニー殿下は私に聞こえるかどうかぎりぎりの声量でそう言った。私は何も答えなかった。


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