五話
基本的に美由は寄り道の類をせずに帰宅する。
同級生たちはそのことを承知しており、美由を敢えて自分たちの交流に引き込むような真似はしない。
けれども、常とは違いどこか急いでいる風な様子を見れば気になるのも確かで、要は美由へと声をかけた。
「織部さん、今日はお急ぎですか?」
「急いでいるわけではないけど、約束があるから」
「おや、ご用事でしたか。お兄様と?」
「兄さんとは別よ」
「そうでしたか、引き止めてしまって申し訳ありません」
「いいえ」
簡素な会話だけれど、当然のこと要に不満はない。
美由が嫌そうでも不機嫌でもなく答えてくれたなら、約束の相手は決して不服ではないのだろう、と考えて、颯爽と教室を出ていく彼女を見送るだけだ。
要は比較的他の同級生よりも美由と親しくしているが、彼女との間にある感情は異性として意識したものではない。家柄の都合、ひょっとしたら美由との間に縁談が持ち上がることも将来的にありえなくはないが、要としてはたとえそうなっても美由を異性として見ることはないだろう。
要にとって美由は大切な、幸せになってほしい女性であるけれど、自分が幸せにしたい、そうでなければ許せないなどという気持ちはない。その手伝いができるのであれば、それを許してもらえるのであれば、至上の喜びであると頂くだけだ。
故に、顔を覗かせた先輩である雀部が「知ってるか?」と話を持ち出したとき、要は見守る体勢をすぐに決めた。
「白雪が織部にすり寄ってる、ねえ」
あやめは一二にネクタイを締めてもらいながら、そわそわと落ち着かない様子で時計へ視線をやっていた。
今日は授業を終えて帰宅した美由を迎えにいって、ゆっくりお茶をしてからピアノの演奏会へ向かう予定だ。
「デート前に落ち着きませんか?」
「からかうなって言ってんだろぉが……」
笑みを含んだ一二に、あやめは僅かにむっとする。
今日も、この前も、あやめは美由とデートしているわけではない。あやめはそう認識している。
デートなどといえるほど、あやめと美由の関係は対等なものではないし、熱意も同じこと。いいとこ、美由はあやめの子守をしている程度の感覚だろう。
あやめにとっては悔しいけれど、年齢はどうにもならない。
せめて精一杯背伸びしてみせるしか、あやめができることはなかった。
「織部嬢、楽しんでくださるといいですね」
「……ん。笑ったところ、見たい」
「子守」とはいったが、美由はこどもを前にしているとは思えぬほど、表情が薄い。
偶に褒めるように微笑んでくれるときがあるけれど、滅多にないものであるし、どうしても年の差を感じてしまう種類の笑みだ。
まるで、童話のなかのお姫様のように美しくて、童話にあるように笑わない美由。
自分の手で美由を笑わせることができないだろうか。あやめは夢に見る。
「さ、若様。お時間ですよ」
「ん」
一二に手を引かれ、あやめは美由を迎えに行くために離れから出た。
車を回してくれる一二が戻ってくるまでの僅かな時間を、整えられた庭を眺めて潰していると「おい」と決して好意的ではない声音で呼びかけられた。
振り返った先には実父が嫌悪を込めた表情を浮かべて立っている。
未だ当主の座にない実父は実家である本家とは別に居を構えているが、いまのように実家へ帰って来ることがある。
普段は一二が教えてくれるのだが、今日はそういった話を聞いていないので身構えもなく対面してしまった。
「……お父さん」
「お前にそう呼ばれる筋合いはないと言っているだろう」
義母ならばともかく、実父には筋合いならばあるはずだけれど、と幼心にあやめは思ったけれど、態々口に出して手を上げられるのも嫌で口をつぐんだ。
「今日は織部家へ行くのか」
あやめは返事に惑った。
肯定して面倒な言伝を頼まれるのは嫌だったし、なにより美由の耳汚しになると思ったのだ。
「返事くらいしろ!」
「っづぅ!」
折角先程黙ったのに、とあやめは張られた頬を押さえる。
自分で織部家へ向かうのかと確認しておきながら、そのあやめの見える場所に傷をつける実父の愚かさにあやめは辟易しつつ、実父が嫌う目が見えないように俯く。
そこへ一二が戻ってきて「義孝さん、なにをなさっているのですか」と冷ややかな声を上げながらあやめとの間に割り込んだ。
「親の躾に口を出すな」
「若様のお世話の一切は旦那様よりお任せいただいております。若様はこれから予定がございますので、どうぞお引取りを」
「っ親父の気に入りだからといって、使用人風情が図に乗りやがって……! おい、クズ。織部家の方々にはくれぐれも初太郎のことをよろしく伝えるんだぞ」
吐き捨て、実父は母屋のほうへ向かっていく。
「申し訳ありません。先程急に戻ってこられたようで……そうでなければお側を離れなかったのですが」
「いい。それより冷やすものくれ。移動中に使う」
「……向かわれますか? 急な体調不良とお伝えすることも」
「そう伝えるには遅すぎて失礼だ。大丈夫、引っかき傷もねぇだろ」
もう少し時間に余裕があれば連絡を入れていた。これみよがしな傷を引っ提げて、同情を引きたいわけではない。
「なんならガーゼも貼ってくれ。転んで怪我したことにする」
頬を張り飛ばされたように見えさえしなければいい。
冷静過ぎるあやめに一二は瞼を伏せて「承知致しました」と準備に駆け出した。
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