六話




 美由は迎えにやってきたあやめの顔をひと目見るなり、腰を折って彼の頬へと手を伸ばした。
 ガーゼ越しにも労るように触れる感触が伝わり、あやめは「ひゃっ」と声を上げてからぱちん、と口を両手で押さえる。
 美由は青い目を細め、それから困ったように蛾眉を下げた。

「今日はうちでゆっくりしなさいな」
「え……でも……」
「今度は私から誘うわ。今日は私のピアノを聴いてくれないかしら」

 気を遣われているのは分かっているけれど、あやめは真っ赤な顔でこくこくと頷いた。
 演奏会で席が空いてしまうのは申し訳ないが、一二に目配せすれば頷いたので上手くやるだろう。
 義孝に張られた頬は痛むけれど、それ以上に胸へと広がるのは喜び。

(ご自宅へ招かれた……!)

 こちらから問い合わせて訪問したことや、こうして迎えに訪れたことはあったけれど、美由から申し出てくれたのは初めてだ。
 たとえ、それが同情や気遣いからであっても、あやめは嬉しかった。
 同情であったからといって、なにが悪いのだろうか。同情してくれるものなどあやめの周囲にはいないのだから、その良し悪しなど分かるわけもない。
 加えて、今度は美由から誘ってくれるという。
 これはあやめが舞い上がるのも仕方ないほどに嬉しいことで、あやめはいつものように美由に手を引かれながら顔をへにゃりと緩ませた。
 しかし、途中で「おや」と声がしてあやめは慌てて顔を引き締める。

「演奏会へ行くのではなかったのかい?」

 美由が振り返るのに続けば、優がきれいな笑みを浮かべ、それからあやめの顔を見てもう一度「おや」と繰り返した。

「こんなところへ勲章作って、喧嘩でもしたのかな?」
「兄さん」
「転び、ました」

 美由が一瞬咎めるような声を出したことに驚きながら、あやめはあらかじめ用意していた言い訳を口にする。
 優はそう、と頷いて、優しくやさしくあやめの頬を撫でた。

「きみの災いが払われますように。また怪我をしたらうちへおいで。手当てでもなんでもしてあげる」

 あやめは曖昧に頷こうとして引っかかる。
 妙な言い回しだと思った。
 怪我をしたらうちへおいで、なんて。
 たとえば、あやめが喧嘩をしたり、虐められたと聞いたのならばその言い方もおかしくはないけれど、ただ転んで怪我をしたとするこどもに向けるには、おかしな言葉ではないであろうか。
 優はあやめの疑問を浮かべた目に応えることなく、あやめの灰がかった黒髪をくしゃりと撫でて立ち去る。
 美由が再び手を引くのであやめはつられて歩きだす。
 織部の屋敷は完全な洋館で、窓から覗える見事な英国式庭園は日本屋敷のなかに溶け込むように洋館の離れがある白雪家で暮らすあやめには、少しだけ目に新しかった。
 美由と手を繋ぎながら歩いて少し、案内された部屋は客室ではないようであった。

「私的なお客様だから」

 ふわりと香ったものに覚えた既視感は、美由と重なる。
 美由の私室だ。
 気づいた瞬間、あやめの顔が真っ赤に染まる。
 好きなひとの部屋へ入ってしまった。案内されてしまった。
 当然ながら寝室は別だから、此処は他者が踏み込んでも問題のない部分なのだけど、それでも美由の私的空間には変わりがない。
 案内されたソファへかちんこちんになって座るあやめに、美由はくす、と笑い声を上げた。

「そんなに緊張しないでちょうだい」

 耳に心地よい声がとろとろと入ってきて、あやめをくらくらさせる。
 いいや、それよりも。

(美由さんが笑った!)

 微笑んでくれることはあったけれど、きっとそれは愛想笑いで、社交界を魚のように泳いでいくには当然必要なものの一つで、でも、いまの美由は確かにあやめの前で鈴を転がしたような声で笑ってくれている。
 美由が見ていなければ、あやめは頬を押さえて唸りながらじたばたと転がりまわっていたことだろう。

(すごく可愛い……)

 程なく使用人がノックの音とともに紅茶を運んできて、あやめはどうにか落ち着くことができた。

「好きな曲はある?」

 唐突に問われ、あやめはすぐに察して幾つかの曲を上げる。

「まだまだ浅学で……」
「いいのよ、音楽なんて楽しめればなんでも」

 令嬢らしくない言い様にあやめはおかしくなった。
 けれども、確かにそうだ。
 たとえば甦ったモーツァルトの演奏を聴くことができますと言われても、あやめは美由とふたりで彼女の演奏を聴くことができると言われれば後者を選ぶ。それは価値の分からぬこどもだからこそだろうか。いいや、欲望に忠実なこどもだからこそなのだ。

「CDも、なんならレコードもあるけれど」
「……美由さんのピアノ、早く聴きたくて……」

 美由が青い目であやめを見遣る。

「だめですか……?」
「いいえ?」

 ただ、と美由は頬へ手をやる。
 ほんのりかかった影が驚くほどきれいで……色っぽかった。

「兄さんと、偶にお客様が聴くくらいだから少し緊張するわね」

 冗談なのだろうそれにくすくすと笑い声を上げる美由の前で、あやめはとうとう顔を両手で覆ってしまった。
「大丈夫?」と訊ねる声に、あやめはこくこくと頷きながら「だいじょぶ、れす」と酔っ払ったような声で応えるのが精一杯で。
 漸く顔を上げることができたあやめは、美由が困ったような顔をしているのを見て自分の所為と思いつつ残念に思った。もっと、もっと自制心があれば美由の笑った顔を見続けることが、声を聴き続けることができたのに、と。


 紅茶を飲み干した頃、連れられた防音室で披露された美由のピアノは素晴らしかった。
 癖のあるベーゼンドルファーに触らせてもらったけれど、あやめにはまだまだ難しいピアノであると感じた。
 けれども、いつか美由と連弾できればな、と夢想することくらいは許されるだろう。
 そんなあやめの思いを見透かしたわけではないだろうが、美由が「よければ家へ来たときには触ってみる?」と魅力的な提案をしてくれた。
 自身もまだ講師がついている身であるから教えることはできないけれど、と美由は言うけれど、あやめは一も二もなく飛びついた。

「ぼ、ぼくも家でピアノ、練習します……! それで、あの、こちらへ伺ったときに美由さんに、その……っ」

 つっかえつっかえ言い募るあやめに、美由は一つ頷いた。

「楽しみにしているわ」

 こんなにうれしいことが、どうして世の中にあるのだろう。
 幼くして既に諦めを握りしめていたあやめの両手が解けていく。
 ぽとぽと涙を零しながら笑うあやめの頬を拭ってくれた美由のハンカチからは、彼女から香るのと同じ香水の匂いがした。

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