abiuro


まず初めに言うと、私は普通の人間だ。けれどそのいっぽうで自分自身のことは自分にとって何より大切で、他のどんな人間の命と比較しても自分は特別な存在と言える。それがブラッ〇・ピットだろうがシュワルツ・〇ッガーだろうが私にとっては自分の方が大事だと宣言すらできる。でも、人類全体を見ると私は特別な存在でもない。つまりモブなのだ。誰から恨まれるわけでもなく平和に過ごしている平民の私だったが、ある時人生のレールを大きく歪ませるような転機が訪れた。これが良い意味での転機でなかったのが悔やまれてしかたがない。


事の始まりは夏の終わり頃。死にかけの蝉が悲しく鳴いているのがよく聞こえる哀愁の時だった。

帰り道で買ったアイスを舐めながらいつもの帰路を友人らと歩いていた。脳死するほどつまらない日常だった。残暑の日差しに解けだしたアイスを舐めたその時、鳴いていた蝉の声も車が道路を行き交う音も何も聞こえなくなった。血の気が引くように周りの音が遠ざかるのを感じて目の前が真っ暗に。耳に目、肌、全ての感覚が消えて何も感じない。その直前に友達の声が聞こえた気がするが気の所為かもしれない。

気づいたらひとりで暗がりに倒れていた。友達の姿は見えない。

いつの間に時間がたったのか、地面に落ちたアイスは溶けて無くなっている。芯の棒だけがもの寂しそうに転がっていた。

自分がどこにいるのか分からず辺りを見渡してみたけれども、その場所に思い当たる節は無い。普通、倒れた友人を放っておくか?と友達への不信感と現状の不安に駆られながらも人気を求めて歩き出した。

しばらく手探りで歩いていた。

人の気配は全くしなく足音も聞こえなかったが、曲がり角を曲がった所で人にぶつかった。香水の甘香。暗かったこともあって顔面からぶつかってしまって顔を上げると、予想外にもぶつかった相手は綺麗な顔をした男の人だった。心臓が潰れるかと思った。

「おや?キミは……」

「すみません」後ずさりながら謝ると男の人は気の良さそうな笑顔を浮かべた。

「大丈夫。それよりこんな夜遅くにこんな所にいたら危ないよ?」

「お構いなく。これからすぐに帰るんで」

そう言って男の人の横を通り過ぎようとした時だった。不意に腕を掴まれた。

「そっちには行かない方がいい」

どういう意味かと問いかける前に男の人は私の腕を掴んだまま歩き出した。いきなりの行動に戸惑ったが、自分もどうすればいいのか分からなかったから、腕を離された後も大人しくついて行った。

「キミ、迷子かい?」

しばらくして男の人が聞いてきた。まだ私は何も言っていないのになぜ分かったのだろう?無言のまま腹の中を探るように見ていれば、男の人はこちらを見ることもなく小さく肩を震わせた。笑っているらしい。

もしかしたら、からかわられてるのだろうか。

いい気はしない。

そして今気づいた事がある。男の人はスーツを着ていたのだけども、そのブラウスに醤油染みのような汚れがついていた。

「ごめんね。でもこの辺りは色々と物騒だから、迷子にでもならない限りは誰も寄り付かないんだよね。特に、キミみたいな女の子は」

「そういう事……」

確かに光源が乏しいこの道は不良の溜まり場にはもってこいの場所かもしれないし、それに気味が悪い。腑に落ちた。

「気を悪くしたのなら謝るよ」

「別にいいよ。迷子なのは本当のことだから」

「そうなんだ。お家はどこだい?」

「家は……ここからそんなに離れてないと思うけど」

ここが何処なのかも分かっていないが、大通りにさえ出れば知っている道に戻れるだろうと思っていた。

けれど、いっこうに広い道にでない。それにずっと人とすれ違うこともない。暗い道。静かな夜。沈黙が嫌だった。

「一体どこまで進むんですか?」私はいよいよ我慢出来なくてそう言った。聞いた瞬間、急に男の人が立ち止まって私は口を閉じる。

「キミさ、知らない人について行っちゃ駄目って親に教わらなかった?悪い子だねえ」

「は?」突然何を言い出すのかと素の声が出てしまった。

男の人が双眸を向けてきて、その顔は笑っている。会った時からこの人はずっと笑っていたけど、今度はとても嫌な雰囲気を纏っていて私は恐怖を感じた。

この人は危ない。逃げなければ。そう考えてもときた道を遡るように駆け出した。その時は後ろから追ってくる気配は無かった。

最初に通った道まで戻ってさらに進んだ時、何か、ぬめりのある柔らかいものを踏んで私は滑り転んだ。地面についた手に湿った感触がする。それが嘔吐物で満たされたバケツに手を突っ込んだ様な気持ち悪い感触で、ギョッとして手のひらを見ると暗い中に赤くなった手が見えた。手首の上まで染まっている。

周りを見ると私の手と同じように赤くて、人の形をした肉塊が横たわっていた。それも1つどころではなくて、その一瞬では沢山としか言えないほど大量に。

私は臓物に足を滑らせて、死体に手を突っ込んでしまったということだ。

ショックのあまりに行き場をなくした様に手を持ち上げていると、すぐ後ろから靴の音がした。

「鬼ごっこはお終いかい?」

楽しそうな声。目の前の凄惨な光景とは裏腹に高揚とした声を出すこの男の人を単純に怖いと思った。

「そっちには行かない方がいいって言っただろう?ほら、手も服も血だらけじゃないか」そう言って私の肩を掴む。

「大丈夫。殺しはしないから」

今まで人に対してこんなに恐ろしいと感じたことはない。


窓際に座って人の流れを見下ろしていた。この建物から外に出れれば1人くらい通りすがりが助けてくれるかもしれない。太陽は気怠い熱を落としてくるけど、意地になって私はそこから動かなかった。

目の前でリンゴの皮を向いている男に目を向けると口元だけの笑顔で返された。

「どうかしたのかい?」

「私をどうするの?」

男は少し考えるような素振りをして、それから顔をあげた。その目は私の方へしっかりと向いている。こちらの様子を伺うような、観察するようなじっとりとした嫌な視線だ。

「とりあえず売ろうかな。この付近に若い女の子をいたぶるのが好きな金持ちがいてね?きっといい値で売れるよ、キミ」

「……本気で言ってんの?」

「本気さ。まあ、ボクに殺されるか、買い手先で死ぬか。それだけの違いだよね」

殺さないからって言ってたのにあれは嘘だったのか。まあ、確かに殺すと言われて大人しく捕まっている人も、馬鹿正直に言う人もいないだろうけど。

男の人はリンゴの皮を剥ぎ終わって満足したらしい。リンゴの実を切って皿に乗せると、床でとぐろを巻いているリンゴの皮を持ち上げて嬉しそうな顔をした。

「新記録かも

そんな事に本当に嬉しそうにする彼を見て少し子供っぽいと思った。そんな時にいきなり目の前に皿を突き出されて目白んでしまった。

「少しは食べなよ。元気が無いといい値がつかないから」

皿の上にはリンゴが。お行儀悪くもフォークが刺さっている。

「じゃあ食べない 」

「食べなくても死ぬのに?」

それもそうなのだけど、せめてもの抵抗としてできるだけ自分の価値を下げてやろうとおもった。けれど彼の言葉で私は思い直す。食べても死ぬ。食べなくても死ぬ。この選択肢で私が選べるのはリンゴを食べるか食べないかだけ。でも、私が選びたいのは自分の生死だ。

「……やっぱ食べる」

私は手を伸ばしてフォークの柄を持った。また視線を窓の外に向けて、無心でリンゴを口の中で砕く。

リンゴが無くなって、手元に残ったのはフォークだけ。その時になって私はいろんなことを考え始めた。例えば、このフォークは武器になるかもしれない、とか。この憎っっったらしい男の首に突き立てることも出来るだろうし、絶望して自害するのにも使える。男が部屋から出ていった後に鍵をこじ開けて逃げることだってできるかもしれない。私にはこの手元にあるフォークが新たな選択肢を提示してくるように思えた。

けれど、私が選ぶのはいつだって自分にとっていい選択肢だ。なら今回だってそうなる。誰だって他人の不幸で自分が幸せになるならそうするはずだ。

私はフォークを眺めていて気づかなかったけど、その時、あの男はおぞましい表情で私を見ていた。


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