邂[エ]
今日も穏やかな一日になる筈だった。
唇が渇くような粉塵まじりの風。
そこから見回す世界は廃れた町並み。
人工物があるのに人の気配は感じなく、そして私は思う。
「ここは…どこだ。」
気が付いたら私はいつの間にかこんな場所にいた。
ここに来る前の記憶は曖昧で、直前まで何をしていたのかサッパリだ。
夢だと思いたくなるような現象だけど、こんなに鮮明な夢も無いだろう。
もしかしたら、死んだのかもしれない。
ふと、そう思うと体の力はみるみる抜けるようだ。
もし本当に死んだのだとしたら、私はどんな風に死んだのだろう。
ひとの群れに流されながらも、ささやかな生だった。
別に思い残すようなことも無ければ、あの世界に未練も無かったけど。
ただ、汚い死に方をしてたら嫌だなぁ。とは思った。
部屋で孤独死してたらウジとか湧いて体がドロドロになって嫌だし。
それに溺死もガスで膨らんで人の形じゃなくなるらしいからそれも嫌。
理想の死に方はそうだなぁ…。
そこまで考えて私の思考はストップした。
あることに気付いたからだ。
地面のあちらこちらに落ちている衣服。
どこかの店から飛んできたにしても、衣服が一式揃って落ちているのはおかしい。
しかも一組ならず、町のいたる所に落ちている。
まるで人だけ消えてしまったみたいに。
静かな町に私はぞっとした。
気が付かなければ良かったと後悔しても遅い。
町の大通りに出てもそれは変わらず、私はどうしたものかと立ち止まった。
死後の世界だとしたら絶対に地獄だろう。ここは。
地獄なら罪人を懲らしめる鬼の一体や二体いてもおかしくはない。
呆けていると、背後から砂をこすり合わせるような足音がし、私は振り向いた。
ますます地獄のようだ。
背後には緑に迷彩色のような斑紋のある大きな生き物がいた。
その背丈は私よりも遥かに大きくて、外人でもこんな高い身長を持つ人は見たことがない。
そして襲った既視感。私はこの生き物をどこかで見たことがある。
さて、どこで見たのだろう。
そう考えた時、つと生き物が口を開いた。
「さあ、次はお前だ。」
「…何が?」
喋れるんだ。とか他にも思ったことはあるけど、それを言う前に疑問が先に口から出た。
「何がだと?」呆れたような口調。
何を呆れているのか。
訳の分からない状況に加えて、意味の分からない事を言われて流石に少しイラッとする。
「お前には危機管理能力が欠如しているようだな。」
確かに。確かに私には危機管理能力が欠如しているかもしれない。
課題は期日ギリギリになるまでやらないし。
でも、そんなこと今はどうでもいい。
「ああ、そうかもね。」と、適当な返事をする。
それが気に入らなかったのか、緑の生き物の目は鋭くなった。
殺気とでもというのか。ピリピリする感じ。
が、しばらくお互い向き合っているうちに、緑の生き物は落ち着いた様子になり、
「まぁ、いいだろう。無知な人間、お前にいいものを見せてやろうじゃないか。
わたしについて来い。逃げようとは思うなよ。」と喋り出した。
どこへ行こうと言うのか。
緑の生き物は私の横を通り過ぎる。私はその姿を目で追った。
「うん。いいよ。ついてく。」
それに緑の生き物は驚いたように私を見たけど、何も言わずまた前を向いて歩き出した。
その後について行く。
ついて行く気になったのには特に理由は無かった。
あえて言うのなら、私にとってこの未知の場所。誰もいないこの世界で一人っきりになるのが心もとないから。
そんな感じだろうか。
でも、緑の生き物が『ついて来い』と言わなければ、私は行動を共にしようとは思わなかっただろう。
緑の生き物の後ろを歩いている数分の間。
沈黙の時間は短かったような長かったような。
ゴーストタウンの沈黙も相極まって、彼とは話すことなど無いのでそれはそれは静かだった。
私は彼の後ろ姿を大小漏らさないように、暇つぶしも兼ねて観察していた。
『彼』というのは緑の生き物の声から私が男、もしくは雄だと感じたから。
長い先端の尖った尻尾に甲虫のようなテカりのある翅。
後ろからでも目に見えて分かる頭の突起。
体型は人のそれと似てるけど、全然違う。
節々としていて人と虫を足して割った。まさにそんな感じ。
と、彼は突然立ち止まった。
唸るように息を吐いて、そして近くにあった車のトビラに手をかける。
その体躯では車には乗れないだろう。一体何をしようとしているのか。
私は興味を持って車の中を見れる位置に移動した。
そして何かを訴えるような男の声が。緑の彼の声ではない声が聞こえて気づいた。
彼は人間の男の襟首を持って車から引きずり出そうとしていた。
抵抗したようだけど、すぐに引きずり出されて、その男の顔がはっきりと見える。
必死な形相しているのが少し滑稽で笑えた。が、男が命乞いをしているのだと分かってその気持ちも覚めた。
「頼むぅ!助けてくれぇ!ワシはこの町の大富豪なんだぞ!?金ならいくらでも…そこの女助けろ!」
そこの女。私のことだ。でも私にはどうしようもない。
彼が私の事を見ているのが視界の端に入るが、私は気づかないふりをした。
こちらの様子を見ているのは何でだろう。これがその『いいもの』というやつなのだろうか。
私が怪訝な顔をしていると、彼は空を見上げた。
彼の興味が空に移る。
私も彼が見る方へ眼を向けると、空から何かが飛んできた。
それは緑で。白いマントのような服を纏っていて。
見た瞬間私はハッとして、心臓が跳ねるようだった。
あれは某世界的に有名なマンガの登場人物ではないか。
緑の彼を見た時の既視感。あれもそのマンガを読んだことがあったからだ。
もうずいぶんと前に読んだものだからすっかり忘れていた。
ということはここはマンガの中の世界ということだろうか。
私の頭の中の世界だとしても、死後の世界だとしても、ずいぶんメルヘンチックな話しではないか。
飛んできたその人、ピッコロは彼の、セルの前に降り立った。
不穏な空気。
漫画通りならこの後二人は戦い出すのだが、それに私が巻き込まれたら間違いなく仏様になるだろう。
彼に掴まれた男がまたけたたましく命乞いを始める。
それを聞いたピッコロが、
「言葉が分かるがわからんが、放してやれ。そんなやつも命だ。」と言った。
ピッコロってこんなに優しいこと言う人だったっけ?私はふと思った。
そして彼は、ピッコロに言われたとおりに男の人を放した。
と思ったとたん、尻尾をたゆたわせ、その先端を男の人に突き刺した。
ああ、この場面は覚えている。
幼心に刺さる場面だった。
内臓とか骨。体の内側が溶けていくように、男の体は萎み縮んだ。
ここで私はふと、蜘蛛が獲物の内部を融解毒で溶かして食べるのを思い出した。
それに似てるかもしれない。
肥え太った男はみるみる花が枯れるように灰色になり、皮袋が内臓と一緒に引きずられ、やがて吸い取られた。
男が握っていたお金と衣服だけが綺麗に残る。
瞬きもせず私はこの光景を見届けた。
そして向けられる爬虫類のような双眼。
私は思い出した。緑の彼が会った時に『次はおまえだ』と言っていたのを。
つまりはこういう事だったのか。私も肥豚と同じように食べるつもりだったと。
わざわざ目の前でお手本を見せてくれる所を考えると、彼の性格の悪さは相当なもののようだ。
まだそのつもりなのか。
彼にはまだ私を食べる気があると思ったが。
でも、彼は私と目が合うと視線をピッコロへ流した。
どうやら興味はもう完全にピッコロに移ったようだ。
「次はお前がこうなるんだ。ピッコロ大魔王。」