ハッとして、杏寿郎は自分がひどく汗をかいていることに気が付く。
冷や汗だ。肌寒い。
汗が冷えてしまったせいか、或いは。
杏寿郎は、まるで自分が生きているようだと錯覚してしまいそうになり、すぐに首を振った。
だが、これでは一体生きていた頃と何が変わらないと言うのだろう。
ただ血が通っていないというだけで、人から認知されないというだけで、感覚も、感情だってある。
杏寿郎は、すっかり冷えてしまった汗を手の甲で拭い、ふぅ、と一息つくのも束の間。

「……うん?汗?つまりはーー血なのか?」

汗の原料は、血管の中を流れる血液である。
無論、血液そのものが汗として排泄されている訳ではないが、大元を辿れば同じだ。
杏寿郎は、自分の体にはもう血が通っていないとばかり考えていた。
故に、名前も鬼化しないのだ、と。
これは憶測でしかなかったが、血を必要としない彼女にはそれを与える必要もない。
それは、汗同様に“血液と同じ成分でありながら全くの別物”に対しても同様のことが言える訳でーー

「ともなれば、必然的に精……」
「せい?」
「!?」
「あ、申し訳ありません。驚かれました?」

と、そこへひっこりと顔を覗かせる名前。
何やら両腕に分厚い書物を抱え込んでいる。
それを見た杏寿郎は、すぐに恒例の古本屋帰りなのだと悟った。
というのも、ここ最近の彼女は異国の文化について興味を示しており、こうして適当に見繕った書物を日々読み漁っていたのだ。
彼女が出掛けている間、杏寿郎は何かと理由を付けて宿で留守番をしていた。
だが、ひとりでいると嫌なことばかり考えてしまった挙げ句、あの夢見だ。
いや、そもそもあれが本当に夢だったのかも分からないし、もはや記憶は薄れて朧気。
ただ、漠然と良くないものであったことだけは肌が覚えている。

「……いや!不埒なことは考えていないぞ!」
「えっ、不埒なことを考えていたのですか?」
「!?!?」

見事に噛み合わないものだから、杏寿郎は物言いたげになりつつも口端をキュッと結ぶ。
対する名前はケロリとしており、動じない。

「それにしても、今日も凄まじい数の本だな!女手ひとつで大したものだ!」
「私、力には結構自信あるんですよ。そんなにか弱くないです。筋肉痛にもなりますが」

そんな名前の逞しさを微笑ましく思うが、一方で、ほんの少しーー寂しかった。
きっと、この娘はひとりでも生きてゆける。

「……ん? それは」
「あ、これですか」

面白そうでしょう?そう言って、彼女が右手に持って掲げてみせたのは、

「狐狗狸(こっくり)さん?」
「こっくり……?へぇ、そんな読み方をするのですか。狐、狗(いぬ)、狸、と記されておりましたので、てっきり動物についての書物かと。それなのにキリスト教関連と同じ棚に置いてあって」
「ふむ……成程。確かに、それも元は異国から伝わったものだと聞く」
「ご存知なんですね」
「子どもの遊びのようなものだ。目的は降霊術なんだが」
「降霊術!?」

今度は名前が口端をキュッと結ぶ番だった。
彼女が初耳なのも頷ける。
これは、テーブルターニングと呼ばれるある種の占いを起源に持ち、明治時代に幼少だった者は怖いもの見たさに遊びのひとつとして興じた。
名前が生まれたのは遥か昔、加えて山里に住んでいたことから、世の中の流行りには疎かったのだろう。
杏寿郎自身はあまり関心がなかったが、周りの同じ年頃の子らがきゃあきゃあ騒いでいたのを遠目で見ていた。
そんなものは非現実的だと幼心に感じており、この頃にはもうすでに最愛の母を亡くしていたので、死者と会話が出来る訳がないし出来るものならもうしている、と、今思えば自分は少々捻くれていたのかもしれない。
そんなことを考えながら、杏寿郎は狐狗狸さんについてざっくりと解説をした。
机の上に文字や数字を記した紙を置き、その上に硬貨を置いて参加者全員の人差し指を添えてゆく。
力を抜き「コックリさん、コックリさん、おいでください」と呼び掛けると硬貨が動く。
硬貨によって指し示された文字によって意思疎通を図るらしい、と。

「あぁ、それは交霊会(セアンス)ですね。まさか死霊術(ネクロマンス)ではないと思いましたけども」
「ねく……君は妙な言葉を知っているな」
「ここのところ片仮名文字の本ばかり読んでましたから。しかし、危険な香りがプンプンします。霊を呼び出しておいて、何もお咎め無しなんてことありませんよね。危険性は?」

やけに現実寄りな質問であるが、そう言えば彼女は現実主義者だったし、よりによって霊(おれ)相手にその質問をするとはなぁ、と内心苦笑する。
霊が霊的なものの存在を否定するのもおかしな話だが、そもそも杏寿郎は狐狗狸さんのような不確かな存在を信じていない。
故に、言葉に説得力も何も伴わずあくまで仮説でしかないと前置きし、杏寿郎は。

「変性意識状態を誘発する恐れがある」
「……煉獄さんも妙な言葉をご存知ですね」
「簡単に言うと、意識の活動が極度に抑えられた状態のことだ。覚醒している時でも弛緩と緊張は存在する。起きているからといって常に気を張り続けることはないだろう。可能かもしれないが、まぁ疲れる」
「成程。恒常性(ホメオスタシス)」
「むぅ。また妙な言葉を。わからん」
「意識が弛緩すると、平衡感覚や時間感覚が覚束なくなります。思考から論理性や合理性が欠落したり、要するにーーうたた寝状態」

と、かなり大雑把な言い換えをするが、名前は何となく狐狗狸さんというものを理解したらしい。

「しかし、それが狐狗狸さんを呼び出したくらいで引き起こされるものでしょうか。そもそも狐狗狸さんなんてものはいないでしょうし、硬貨が動くというのも参加者のうちの誰かの悪ふざけか、あるいは心の持ち様か。いる、と信じている人にとって狐狗狸さんは実在しているものなので、その、信じたいという気持ちが……こう……上手い具合に、無意識的な筋肉の動きと……まぁ、そんな感じですね」

身振り手振りを交え懸命に伝えようと試みるが、途中から自分でも言っている意味が分からなくなってしまった名前は、最後、適当に締め括ってしまった。

「君は論理的なのか直感的なのか、時々分からなくなる。とどのつまりーー実際のところそれが存在していようが無かろうが、信じている者にとっては存在しているという訳だな」
「胡散臭い話です。まるで宗教」
「ふは、まぁ似たようなものだ。その盲目なまでの信仰心か、あるいはーー恐怖心や好奇心。子どもが遊びの一環として狐狗狸さんを試みるのも、理由はどちらかと言えば後者だ。だが、変性意識というものは日常の中にあり溢れた現象なんだ。半信半疑。興味本位。不確かなものを実行した時点で、それは期待の裏返しとも言える」
「ちなみに……煉獄さんも子どもの頃、このような遊びを?」
「いや!覚えが無いな!興味もなかったと思う!これっぽっちも!」

有無ひとつで存在するか否かが変わる。
まるで今の自分のようだと思う。
だが、未だに主語が曖昧なのだ。
自分は何によって存在を許されているのか。

「本当に? これっぽっちも?」
「うん?何故そこを執拗に聞く。俺に興味を持って欲しいのか」
「煉獄さんの興味があるものが知りたいです」

そんなふうに回りくどい言い回しをしなくても、君の質問なら何だって答えてやるのに。
本当に聞きたいことこそ聞けない理由を、杏寿郎は知っている。

「俺も同じ問いをそのまま返したい。君は逆に興味の無い、否定したい存在について書物で知識を得たがる。神などいない、ではなかったか?それとも読み漁るうちに影響されたか」
「私の考えは変わりません。いませんよ神様。私がこうして知識を得ようとする理由は、興味本意などではありません。否定したいから学ぶのです。存在を丸ごと否定出来るような、矛盾点を見出したいのです」
「存在否定の裏付け、か。ーー成程」

名前らしい考え方である。が、存在しないと断言することは、存在すると断言することと同様に難しい。
とはいえ、そもそもの話ーー人喰い鬼なんてものがこの世に存在しているのだから、ある程度の想像の範疇であれば何が現れたとしても差程驚きやしない。




7 / 表紙
[]

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -