その場所に辿り着いた時、杏寿郎の体は痛みも何も感じていなかった。
考えなくてはならない数多の事を投げ捨て、鈍く重い思考で名前の事だけ考えている。
祈る気持ちで平屋の扉を開いた。
今頃、名前は此処で眠っているはず。
その、愛おしい寝顔さえ見られれば良い。

「ーー煉獄さん?」

そこにはーーこちらに顔を向け、目を見張る名前がいた。
意識がある。意思疎通が出来る。
見つめ返される事がこんなにも嬉しい。
だが、彼女の美しい顔はみるみるうちに青ざめて、慌ててこちらへと駆け寄って来る。

「煉獄さん!? その傷……!」
「……わはは、すっかりやられてしまった。情けないことこの上ない」
「なっ、何笑ってるんですか! 鬼ですか!?何処の鬼ですか!?貴方をこんなにも痛み付けたのは……!」
「名前。そんなことはどうだっていい」
「ど……どうでもよく、なんて……ッ、そうだ!手当て……手当てをしましょう!さぁ、早くこちらへ!今、急いで準備しますから!」

そう言って、名前は杏寿郎の手を取り座るよう促すが、手当てなどもはや意味を成さないことは誰の目から見ても一目瞭然。
手の施しようがないのだ。もう、体の中の血もほとんど出し尽くしてしまった。
今の杏寿郎の姿は、普通ならば目を背けてしまいたくなる程の凄惨な有様だった。
抉れて引き裂かれた傷口からは柘榴のように赤い肉がはみ出しており、傷を負ってから時間を置いたせいか少し黒ずんで固まっている。
傷の深さは内蔵にまで達しており、もう既に機能を失っているものは数知れず。
肺が駄目になっている自覚はあった。
呼吸が辛い。
辛いから、いっそ息を止めてしまいたい。
だけど、もし辛いからと言って楽な道を選んでしまっていたら、今こうして彼は此処に辿り着いていなかっただろう。
妄執じみた執念が彼の苦痛を長引かせ、同時に、この場所へと帰る原動力となった。

本当に情けない。こんな姿になってまで、彼女の元に帰りたいと望んだ。
だけどーー
死に至らしめる程の傷を負うことよりも、名前を泣かせてしまうことの方がもっと辛い。
普段の杏寿郎ならば、こんなものは擦り傷だからと笑い飛ばすことも出来たが、さすがに強がってみせることはもう出来なかった。
ここまで走って来たのがまるで嘘のように歩くこそすらままならず、見兼ねた名前が肩を貸すと、預けられた杏寿郎の体が、軽い。
あちこちが欠損しているからだ。
その惨さに絶句する名前に、杏寿郎は、

「牛鍋弁当をたらふく食べたはずなんだが、どうやら俺の胃袋は消化が早いらしい。空きっ腹では些かキツい。君の作った天ぷらが食べたいなぁ」
「そ、そんなもの……いくらでも作って差し上げますから!まずは……ええと、止血……は」

もう出尽くしてしまっているので、無意味。
ならば何が出来るだろうかと考えるものの、そもそも素人に対処出来るものではなかった。

「名前。君にーー自分が、俺の夢の中の住人なのだという自覚はあるか」
「……」

奇妙な問いであるにも関わらず、名前は戸惑いもなく頷いてみせる。

「あぁ、そうか。やはりーー君は頭がいい」
「偽物だから、愛せませんか」
「そんな悲しいことを言わないでくれ。君は正真正銘、俺の愛した名前だ。それに、もし君が偽物だったとして、俺の身を案じてくれたその優しさは決して偽りではなかったはずだ」
「……」
「……さて、話をしよう。俺をそこに座らせてはもらえないだろうか。もう、足の感覚がないんだ」

名前は言われた通りに杏寿郎を促し、彼を指定された場所に座らせると、自らもその目の前で膝を畳む。
真剣な面持ちでこちらを見つめる瞳は、気を抜いたらすぐにでも涙を溢れ出してしまいそうな程に潤んでいたが、その一歩手前で懸命に堪えていた。
心が痛む。最も愛した彼女にこんな顔をさせてしまっている自分自身が腹立たしい。
自分の体から徐々に力が抜けてゆくのを感じながら、杏寿郎は残りの力を話すことだけに費やした。

「まず大前提として、俺はもう死んだ身だ。今際の際に願ったことがひとつだけある。結果としてそれが未練となり、俺を現世に繋ぎ止めた。その未練を果たす機会が今こうして訪れたのだろう」
「現実味がありませんね……って、夢の中にいる私がそれを言うのかって話ですよね」
「笑わせないでくれ。今笑うと腹の傷に響く」

自らの発言に自ら突っ込む名前。
そんなセルフ突っ込みに思わず吹き出しそうになる杏寿郎。
本当は、ただ他愛のない話で笑い会えたなら良かったのに、この夢では叶いそうにない。
もう間もなくしてこの夢は終わる。
未練を果たす為の夢ならば、未練を果たさなければ終わらないのだろうか。
そんな屁理屈を考える。
いや、そもそもの話だが、果たしてこれは本当に己が見ている夢なのだろうか……?

ーー……今際の際の夢、か。

今際の際に見る夢は幸福でなくてはならない。
未練を残したままでは成仏出来ないからだ。
それでも成仏出来なかった場合、彼の魂は永遠に彼女の中で生き続け砂上の夢を見続ける。

「父上のお気持ちが分かったような気がする」
「煉獄さんのお父様……?」
「俺の父上は、元・柱だ。ある日を境に己の無力さを嘆き、何に対しても期待しなくなってしまった。何があったかは知らないし、聞いてもいない。母上の死が一因であることは確かだが、それだけではないと思っている」
「……」
「今から少し、残酷な話をする。鬼殺隊の任務に犠牲は付き物だ。その犠牲を如何に最小限に抑えられるかを常に考えるべきだと誰かが言っていたが、俺はそうは思わない。全て助ける。何かを切り捨てることは出来ない。ーー笑える話だろう。俺は、強欲なんだ。口では大層なことを言う。口先だけだ」
「そんなこと……」
「故に、苦悩もした。大層な理想の割に力不足が否めなかったからだ。数え切れぬ程の同志が若くして命を落とした。俺は、その積み上げられた屍の上に立っている。足元がぐらついて不安定だった。ーー今し方、ここに戻ってくるまでに俺はたくさんの命を取り零した。これまでの犠牲に目を瞑っていた訳ではないが、俺は生まれて初めて死んでしまいたいとさえ思ったんだ。己の不甲斐なさに」
「……」
「何故、自分だけが生きているのかが分からなくなった。敵も倒せず、あまりに大き過ぎる尊い犠牲だけが残った。俺はその結果をのうのうとお館様の元で報告しなくてはならないのか。それは死よりも辛い。ーー最も残酷な結末だ。腹を斬って詫びることすら烏滸がましい。それを嫌という程、身を以て実感してしまったよ」

息継ぎすら忘れ、ここまで一気に吐き出すと、杏寿郎はようやく一息つく。
途端に、何か悪いものがせり上がってきて、咳と共に血が跳ねた。
杏寿郎が咳き込んでいる間、名前は杏寿郎の肩を何も言わずに摩っていた。
ようやく咳が落ち着いてきた頃、笑ってみせる杏寿郎の表情は無理をしているように見えた。

「それでも、俺は……戻って来た。何故だか分かるか?ーー名前。君の元に帰りたいと望んだからだ。その為ならどんな罪も罰も甘んじて受け入れよう。君と共にいられるのならば」
「煉獄、さん……」
「我ながら恐ろしいまでの執着だと思う。それがなかったら俺はとっくに黄泉の国の住人だった」
「……」
「好きなんだ。名前の事が、どうしようもなく愛おしい。この気持ちを何処に吐き出したら良いのか分からない。俺の未練とは、君をもっと愛したかったという事と、それ以上に愛されたかったという心残りなのだ」
「……」
「……名前」

杏寿郎は、もう、自分で自分を支えることすら出来なくなってしまった。
力無く崩れ落ちるその体を名前が受け止め、ぎゅうと抱き締める。

「貴方は、本当に……大馬鹿者です。だって、もう」

遅い。そう口にして、名前は涙を零す。

「どうして……もっと、早く……気付いて下さらなかったのでしょう。ーー煉獄さん。貴方はもっと自分の為に強欲になるべきだった」
「……」
「愛して欲しいって、言えばいいのです。貴方は貴方が思っている以上に周りから愛されているのに」

死んでからでは遅いのです。
だって、死の先に救いなんて無いのです。

「貴方は、きっと……想像したこともないのでしょうね。貴方が死んでしまった後、貴方に救われた世界で、どれ程の人間が貴方の死を嘆き涙を流した事か」
「貴方を誰にも裁かせたりしない。そんなこと許さない。ーー絶対に」

そう言って、杏寿郎を抱き締める手に力を込めたその真意はもはや分からない。
知る必要など無いのだと思う。ただ、彼女に身を委ねていれば無条件に安心出来る。

「夢なんかで満足しないで。だって、煉獄さんはたくさん……本当にたくさん、人の為に頑張ったのですから。貴方は報われなくてはならない。皆がそれを望んでいます」

世界が遠退く。徐々に感覚が消えてゆく。
名前が何を言っているのか聞こえない。
聞こえないから近付いてくれ、と言った。
名前の唇が耳朶に触れる。
寒いから温めて欲しい、と言った。
名前の腕の中に包み込まれる。
あぁ、それから、何だったっけな。
言いたいことがあったはずなのだけれど、ここで言ってしまうのはやめておこうかな。
何も言わずとも君には筒抜けだから、少しくらい胸に秘めていたって良いかもしれない。

次、また相見える時はーーどうか。

一番言いたかったことを口にしないまま、杏寿郎は夢から離脱した。




6 / 表紙
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