これはーー杏寿郎が見た、もしもの話。
自分だけが助かってしまった『最悪』の話。



□■



「駄目だ!この人だけは!ーー絶対に死なせちゃいけないッ!!」

彼の声にハッと我に返る。
今し方……俺は何をしていた?
遠くの空を見やる。
暗い。まだ明け方には遠い。
手のひらのこの感触は刀の柄だ。
両手にしかと日輪刀を握っている。
一度だけ眼を瞬かせた後、目の前には守るべき後輩の姿とーー土煙と、“あれ”は何だろう。
そもそもいつの間に立ち上がった?
なぜなら、彼はもう動けなかったはずだ。
脇腹を刺されており、下手をすれば致命傷。
加えて彼には声高に待機命令を下したはず。

「ーー」

一瞬のことだった、ような気がする。
瞬きをしたその一瞬の間に、背後で倒れていたはずの炭治郎は体を起こし、杏寿郎の目の前に立ち塞がった。そして、

「ーー竈門少年」

彼の背中から、腕のようなものが生えているような気がする。
炭治郎の腹部から背中の真ん中を突き抜け、真っ赤に染まった腕のようなものは、奇妙に五本指の関節のようなものを蠢かせている。
気味が悪い。血色の悪い肌だ。
いや、違う肌な訳がない、だって、もしあれが本当に腕ならば、炭治郎はーー

「……れ、んご……さ……」

吐血と共に少年のまだ小さな背中が震える。
彼の着ている市松模様の羽織が、そこを中心にじわりじわりと赤く滲んで染まってゆく。
がくり、膝が曲がる。
力が抜けて踏ん張れないのだろう。
次の瞬間、腕のようなものは消えていて、支えをなくした炭治郎の身体はそのまま血の海へと沈んだ。

「……何、を」
「逃げ……煉獄、さん……あなた、だけは……」

何が起きているのか分からない。
分かりたくもないが、分からなければ。
杏寿郎は己を戒め、すぐさま状況把握。
それは、受け入れ難い現状だった。
今、この場で立っているのは自分と、この惨劇を作り出した忌々しき諸悪の根源だけ。
他は息絶えてしまったらしい。
乗客も、他の隊士らも、皆。
唯一、息のある炭治郎も、もう間もなくしてその弱々しい生命の灯火が消えてしまう。
助からないのは明白だった。
ぽっかりと空いた大きな穴からはとめどなく赤い血が流れ出て、少しずつ、無情に、彼の熱をも押し出してゆくのだ。

「哀れだな。どうせ死ぬ。俺が殺す」
「いや、だ……させない……」
「理解に苦しむ。確かに杏寿郎は強い。が、俺の足元にも及ばない。所詮、人間とはその程度だ。比較するにも値しない。お前らがどんなに希望を抱こうが、杏寿郎も死ぬんだよ。早かれ遅かれ」
「違う……おれ、は……ッ!!」

杏寿郎だけを置き去りにしたまま、事態は大きく進展する。
炭治郎が手を伸ばし、鬼の足首を掴んだのだ。
炭治郎は今まさに、今にも死んでしまいそうな程の致命傷を負いながら、敵の足止めをしようとしている。
全ては、杏寿郎を逃がす為に。
それでも尚、杏寿郎には今し方の光景が理解不能でしかない。

「煉獄、さん……行って、ください……!もう、戦わ、ないで……がぁッ!?」
「煩い。弱者が喚くな」

容赦なく勢いよく踏み付けられた手の甲からは血が滲み、未だに理解が追い付いていない杏寿郎だったが、その光景に、頭よりも先に体が動く。
怒りが彼を突き動かした。
意味がわからない。それがどうした?
目の前で守るべき存在が傷付けられている。
許せない。守らなければ。俺が。
例えこの身朽ち果てようとも。
反射に近しい無意識下の行動であったが、次の瞬間、杏寿郎はその忌々しい敵の足首を赫き刃で斬り落としていた。

「竈門少年!すぐに助ける!」

敵が飛び抜いた隙をついて、杏寿郎は倒れた炭治郎へと手を伸ばすがーー炭治郎は最後の力を振り絞り、救いの手を払い除ける。
そして、血が泡立つ音と共に、叫んだ。

「ッ、やめてください!煉獄さん!あなたが今すべきことは俺を助けることじゃない!!」
「!?」
「解るでしょう!?俺は、もう……ッ、どうせ死んでしまうくらいなら、せめて……」
「馬鹿を言うな!絶対に助ける!!君は助かる!!君がここで死ぬことは、この煉獄杏寿郎が許さない!!!」
「あなたが許さなくても、死ぬんです!そうでなければ、俺以外の人達だって死んでいない!そうですよね!?」
「……ッ!!」

そうだ。死ぬ。死んでしまう。
どんな心持ちであろうと、死ぬ時は死ぬ。
……分かっていただろう。
理解しただろう。身を以て。
あれほど願った。心が叫んだ。
それでも駄目だった。無情にも。

ーー死にたくない。

行かなくてはならない場所がある。
帰りたいと願っている場所がある。
共に歩み続けたいと思う人がそこにいる。

ーー……まだ、死ねない。
ーー今ここで死んでも意味が無い。
ーー助けられなかった人々が報われない。

これが現実ではないことも、分かっていた。
分かっていないようで、分かっているのだ。
全て悟ったうえで、それでも目の前の生命を救いたいと烏滸がましく思う自分がいた。
己の本質を知る。
案の定、長生き出来ない性分らしい。
故に、あの日あの時あの場所で死ねたことは、己自身にとっても救いだった。
意味ある死だったのだと思う。
たったひとつの後悔だけを置き去りにしてしまったが、今、見ているこの『最悪』は、その唯一の未練を果たす為のものなのかもしれない。
それでもーーなんとも悪趣味なものだ。
よりによって、この日をまた繰り返さなくてはならないとは。しかも、このような形で。

「はや、く……“あの人”の元へ」
「竈門少年……」

杏寿郎は呼ぶ。もし誰もここで死ななかったら継子にしていたかもしれない後輩の名だ。
噛み締めるように、大切に紡ぐ。
彼も、他人の為に簡単に生命を差し出せる子だ。
これはきっと、高い確率で存在したかもしれないもしもの世界なのだ。

「感謝する。俺に未練を果たす機会をくれて」
「はい……また、何処かで」
「あぁ。必ず。ーーまた会おう」

無神経に約束だけを残し、杏寿郎は全てを振り払うように踵を返し、地を勢いよく蹴る。
振り返らない。
例え背後から生命尽きる嫌な音がしようとも。
守れなかった。守りたかった。
後悔で胸が焼き付くように痛いのだけれど。
この痛みを決して忘れない。
奥歯を噛み締める。血の味がする。
この血の味も決して忘れない。
大き過ぎる代償を払い無様に生き延びた自分の成すべきことは、ひとつだけ。
如何なる醜態を晒そうとも、一緒にいたいと、共に過ごしたいと願う人がいる。

この時、彼女ーー名前は、未だ夢の世界に囚われていた。
もしこの場から命からがら生き延びて無様な帰還を果たしたとしても、迎え入れてくれる名前はいないかもしれない。
そんな不安が一瞬頭を過ぎるが、今ここで自暴自棄になって勝ち目のない戦いに挑み、死んでしまうことは許されない。
それは、救えなかった生命への冒涜だ。

「敵に背を向けるとは情けない。そんなお前の姿など……見たくはなかったよ、杏寿郎。今すぐ死んでくれ。これ以上の醜態を晒す前に」
「死ねない!ここで死んだら、あの世で皆に顔向けできない!独り善がりの正義ほど愚かなものなどない!!」

言わねば。伝えねば。彼女に。あの言葉を。
それだけの為に、杏寿郎は走り続ける。
数々の猛襲を背後から受けつつも、防ぐことを放棄して、全神経をただひたすら走ることだけに集中させた。
自分の死に場所は自分で決めたい。
少なくとも鬼の目前で死んでやるものか。
最後は、杏寿郎のそんな意地だった。

終わりゆく夢の世界で、彼は走り続けた。




5 / 表紙
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