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彼は、彼女を愛しておりました。
誰よりも心から愛しておりました。
故にーー

「俺のことは忘れなさい」

彼女の中から消えることを望みました。
重荷になりたくない。
足枷になりたくない。
元より見返りなど望んでおらず、死した身で叶う望みなど何も無いことを知っておりました。
それくらい理解(わか)ります。
身の程をわきまえておりますとも。
まるで何でもないかのような顔で笑う彼を、彼女は悲しげな表情で見つめます。

「何故、死んでしまったご自身を卑下なさるのですか」
「……そんなつもりは無かったんだが。もし俺の言動が死者への冒涜だと思われてしまっては困る」
「そんなふうには思いません。ただ、今の煉獄さんの物言いは……その、らしくないです」
「らしさ、か。生前俺は君の前では大層見栄を張りたがったので、君の目に映る俺の姿は本質よりもだいぶ上回っていたやもしれない。よもや自ら己の首を絞めるとは」

次第に、自分らしさが分からなくなってしまいました。
自分らしさとは何だろう。
きっと生前の自分を知る大多数の目からは、煉獄杏寿郎とは何にも恐れず、常に前向き、目的の為ならば己の死さえも厭わないーーそんな人物だったのだと思います。
嗚呼、彼女とさえ出会わなければ。
そんな自分で在り続けられたのに。

「怖いですか」
「そうだな。怖いのだと思う。自分が何処へ向かえばいいのか分からない。まるで道標のない大海原を彷徨うような感覚だ。方向さえも分からない状況がひどく恐ろしい」
「寂しいですか」
「そうだな。寂しいのだと思う。君を救い出せたことを嬉しく思う反面、手放さなくてはならないのは惜しい。例え君の意識が無くとも、言葉を交わせずとも、ただそばに居てくれればそれで良かった」
「後悔してますか」
「そうだな。後悔や未練は尽きない。生きていれば成せたことを思えば思うほど、やるせなくなる。だが、これは『ないものねだり』というものだな。生きている時は生きていることが当たり前だと思い込んで、色々なことが疎かになる。実に怠惰だと思う」
「死にたくないですか」
「……」
「ーーない、ですよね……」

初めて言葉に詰まってしまいました。
他ならぬ君がそれを聞いてしまうのか、と。

「酷いな。それは……今の俺には、惨い」
「今のは怒っていいんですよ。とても酷いことを言われたのですから。ーーいいえ、貴方は怒るべきです。私にも酷いことを口にした自覚があります」

彼はかつて心をひどく鈍感にすることが出来ました。
正論を振りかざす為に。
鬼に対してならば時に非情にもなれました。
だけど、今はそれが出来ない。
やり方を忘れてしまったのです。
悔いがないと言えば嘘になります。
生きていれば当たり前のように享受していたであろう日常を垣間見てしまったから。
彼は、平和な世界でのうのうと笑う己自身を妬みました。
しかし、ふとこれまでの人生を見つめ返してみれば、胸に込み上げてくるものはとてもあたたかな感情ばかりでした。
人よりもほんの少しだけ多く持ち合わせて生まれてきた彼は、それを驕りもせず、己の生を怨みもせず、生まれ持ったそれらをどう役に立てようかとそればかり考えて生きてきました。

ーー「俺は誰かの役に立ちたいです」

幼き頃、確かに口にしたその言葉は、一体誰に向けた言葉かも覚えておりません。
唯一覚えていることは、あの時、胸に抱いた感情もあたたかなものであったこと。
当時の彼がその感情の名を知る術はありませんでしたが、今ならはっきりと分かります。
目指すべき場所も、生きる意味も、己に課された責務も、あの時から何ひとつ変わりありませんでした。
ならば、どうすれば良かったのか。
この問いに対する答えは、別に知る必要などないことです。
無知こそが生きるということ。
この先何が起こるのか未知を模索する方が、よほど生き甲斐があるというものです。
もしこうなる未来を予測出来ていたならば、彼は彼女に想いを告げていなかったでしょう。

考えても仕方がないことは考えずに生きてきたのに、死んでからは考える時間が存外出来てしまったものだから、生前気付かなかったことや知らずに済んだことが浮き彫りになってしまいました。
……いいえ、本当は知らないフリをしていただけ。勘の鋭い彼が気付かない訳がないのです。

「忘れたくない……私、煉獄さんとずっと一緒にいたいです」
「君が俺を想い続けてくれている限り、俺はずっと君の傍にいるよ。君の想いを依り代に俺は辛うじて存在を許されている」
「なら、この先ずっと一緒にいられますね」

そう言って屈託のない笑顔を見せる名前の眩しさに眼を細めつつ、内心ではどうだろうなぁと皮肉めいたことも考えてしまうのです。
信じられないという訳ではありません。
ただ、人の感情というものは時代の流れの如く常に移り変わってゆくものです。
彼女のこれからの長い人生において、自分というただ一人の男だけを愛し通すことは困難でしょうし、加えて彼は死んでおりますので、彼女に何も与えられません。
それなのに彼女の想いを繋ぎ止めていたいなどという欲深なことは言えません。
何より、彼女の負担にはなりたくない。

「迷惑だなんて、そんなふうに考えたことは一度もありませんよ」
「……わはは、君に隠し事は出来ないなぁ」
「そうです。ですから、今宵“も”白状なさってください。きっと煉獄さんのことですから、毎晩のように同じことを繰り返しているのでしょう?覚えがなくても分かります。私の記憶に留めておくことは叶わないのでしょうけども」
「……」

絶対的な存在など、この世の何処にも存在しませんでした。
思いや願いは強く願えば願うほど叶う訳ではなかったし、どんなに必死に頑張ったところで報われない夢もたくさんありました。
つまるところ、それは、手を合わせて願えば願いを叶えてくれるような神や仏がいないことを暗に意味しており、名前の無神論者論は立証されてしまったのです。
しかし、それらはあくまで人が身勝手に夢見て想い描いた虚像であり、生者に対して無干渉の存在が在ることは未だ解明されておりません。
もし、今の杏寿郎に名を付けるのならば、これも一種の信仰であり、彼女にとっての絶対的存在になるのです。

「煉獄さんは何時如何なる時も心を燃やす為に様々なものを糧としてきました。今度は……それらを拾い集める番です」
「よもや煤けた灰と化してしまっているやもしれん」
「灰からでも新芽は芽吹きます。ただ少しばかりの水と陽の光を与えてやればいいのです」

いないから、いる。
いないのならば創るしかない。
故に、神様の造形は人それぞれですが、彼女にとってのそれは彼そのものでした。
ともなれば、人を救う何かとはーー性別も、立場も、人か鬼かも、はたまた生死も関係ないのかもしれません。
人の想いは永遠です。
想いの中に在り続ける存在もまた、朽ちることなく永遠なのです。
神様は万能でなくてもいいのです。
ただそこに在るだけで、信じる者は救われるのですから。

「そうか」

たった今、気付いたことがあります。
彼も同様に無神論者でしたが、それに近しい存在が自分にもいたことを思い出しました。
辛い時、挫けそうな時、心を奮い立たせる存在が目に見えずとも在ったことを。
強き者として与えられた責務。
気丈で優しかった亡き母上の存在。
彼は、幾度となくそれらに救われました。
彼女にとって自分がそうであれば、ただ忘れろと言うのは酷な話というものです。
惨いのは自分の方でした。
死んだ彼なりの優しさのつもりが、遺された彼女にとってそれは優しさではなかったのです。

「すまない。無責任なことを言ってしまった。本当は……恐れ多かったのだ。生きていた頃はあれ程故人を敬っていたのに、いざ自分がなってしまってからは、生者と関わりを持つことは疎か、心の中に居座り続けることすらとても罪深いことだと考えてしまった」
「……」
「俺の、名前への感情は至って単純だ。ーー君の望む存在(もの)になろう。それがどんな形であれ、君と共にいられるのならば本望だ。俺の心は救われるよ」
「煉獄さん。また……お会いしてくださいますか?」
「会えるさ。俺は君と共に在るのだから」

言っただろう?
俺はいつでも君のそばにいるよ。
ふたりが交わした約束は、
果たすべき目的であり、呪縛であり、
何もかも違う双方を繋ぐ架け橋となりました。

彼は、彼女ただひとりを愛し続けました。
全ての人へ平等に分け隔てなく注ぐべきものを彼女だけに注ぎ続けました。
故に模範とは言い難いかもしれませんが、彼女にとっては唯一無二の絶対的な救いの存在となりました。
何もしてあげられないのだけれど。
何かを得たい、ではなく、何かを与えたい、と思うことが愛なのだと彼女は言いました。
そして、与えるだけが愛ではないとも。
異なる世界にいるふたりの愛が交わって相互的になることは二度とありませんが、例え互いに一方的であっても、その矛先を向け合うことは出来る。
誰かの目には滑稽に見えても、それも、ひとつの愛のかたちなのですから。



これは、神様になった煉獄杏寿郎のお話。




19 / 表紙
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