彼がさいごに見た夢は、果てのない長い眠りの最中(さなか)確かに続いていた。
こうして穏やかな空間に身を置いていると、果たして自分が起きているのか眠っているのかも分からなくなってゆく。
ただただ心地好い揺れに身を任せ、物言わぬ愛しい名前と共に何処かへと向かう。
そんな、“意味の無い時間”を過ごすことにも慣れてきた頃の出来事。
曖昧としていた意識がたちまち身体の輪郭なりに定まって、杏寿郎はハッと我に返る。

「……名前?」

寄り掛かっていたはずの彼女がいない。
肩に乗っていた頭ひとつ分の重みが消え、その違和感に彼は目を覚ましたのだ。
彼は慌てた。
この、慌てるという感情は久方ぶりである。
彼は焦った。
この、焦るという感覚もまた久方ぶりである。
こんな時はどうすべきだろう。
杏寿郎は生前の己の行いを必死に思い返してみたものの、何も浮かばない。
そういえば、自分が慌てたり焦ったりすることはあまり無かったかもしれない。
あったとしても、そんな時こそ冷静になって次の打開策を模索し、如何なる危機をも乗り越えてきた。
圧倒的な力の差の前ではそれも叶わず、闘いに敗れ命を落としてしまったが、故に、杏寿郎は今すべき顔が分からない。

椅子から立ち上がり、当たりを見渡す。
誰もいない。気配もない。
この空間には、自分しかいない。

「……」

名前という存在によって満たされていたものがぼろぼろと崩れ落ち、心にぽっかりと空いた穴が露になる。
名前の存在の大きさを改めて知る。
名前のいない日々をどのように過ごしていたかなど、とうに忘れてしまった。

「名前が隣にいないというだけで、俺はこんなにも空虚なのだな……」

当てはないが、捜す範囲は限られている。
この列車の車両の何処にもいないとすれば、それはーー名前が遺された者としての第一歩を踏み出したのだということ。
とても喜ばしいことではないか。
何にも縛られず自由に生きたらいい。
忘れられることを誰よりも何よりも願ったのは自分なのに、いざという時、忘れられることが恐ろしくなる。
俺はもう必要なくなってしまったのだろうか。
まるで母親を慌てて追い掛ける幼い子どものように、杏寿郎は心乱され、動揺した。
依存していたのは自分だった。
甘えていたのも、自分だった。

杏寿郎は電車の端から端まで見て回ったが、名前の姿は何処にも見当たらなかった。
しかし、そこで思いもよらぬ再会を果たす。



「長い旅路でしたね」
「あなたは、」
「本当に永きに渡る旅でした。それでも心を燃やし続けたあなたを私は誇りに思います」
「……」

杏寿郎の亡き母・瑠火だった。
愛する母親との再会に込み上げるものは多々あるが、杏寿郎はもう二度も涙を見せまいと決めている。

「私が以前、この場所で伝えたことを覚えていますか。あなたが救いたいと願った彼女を救うこと……それ即ち、あなたが深く傷付くことに他ならないということを」
「はい。勿論です。忘れる訳がありません」

そう口にし前を見据える我が息子の成長した姿に、母親の瑠火は、

「……感慨深いものです。私は母親でありながら、幼き頃のあなたしか知りません。当時のあなたは常に張り詰めた顔をしていました。私の言葉が、長男としての責務が、あなたに重くのしかかって、責任感の強いあなたはいつか押し潰されてしまうのではないか、と……そんなものは杞憂でしたね」
「彼女のおかげです」
「苗字名前さん、でしたね。律儀に挨拶に来てくれましたよ。綺麗なお嬢さんですね」
「はい。とても美しい人です。俺の一番大切な人です」

本当は直接お会いしたかったのですが、そう言って目を伏せる瑠火の姿には見覚えがある。
遠い昔。本当に気が遠くなるほど遠い昔。
常に口端を上げることをまだ意識していなかった頃。
強き者として生まれた己に課された責務を諭された時の話。

「やるべきことは果たせましたか」

今度は、瑠火が問い掛ける番だった。
今際の際に杏寿郎は問うた。
俺はちゃんとやれただろうか。
やるべきことーー果たすべきことを全うできただろうか、と。
だが、あの時と今とでは意味合いが異なる。
炎柱としてではなく、ただの煉獄杏寿郎としてやるべきことーーやり残したことを成せたか否かを、瑠火は問うている。
杏寿郎はしかと頷いた。
強く。深く。
したいことはたくさんある。
だけど、それはもうキリがないし、きっと何年何十年何百年と時を共にしたとして、彼女としたいことはどんどん溢れ出て尽きることはないのだろう。

「感謝してます。母上。あなたが背中を押してくださったから、俺は現世に留まり続けることができました。あの時あなたと再会できていなかったら、こうはならなかった」

本当は引き留めて、もういいのです、もう楽になりなさい、と言いたかった。
だけど、あなたはもう一人前の大人だから。
もうーー子どもではないのだから。

「いいえ、杏寿郎。私の言葉に大した影響力はないのですよ。言葉とは、受け取り次第で如何様にもなります。耳を塞いでしまえば少しも聞こえない、簡単に遮断できてしまえるものなのです。あなたはどんな時も他者の声に耳を傾け、受け入れ、時には自身の考えを改め、己の生き方を模索し続けてきました。その生き方を、人によっては正しいと思うし、違うと思う人もいるでしょう。偽善だと言う人もいるかもしれません。それは当然です。致し方ないことなのです。あなたがそれを正しいと胸を張って言えるのならば、それが一番正しいことなのですよ」

自信を持ちなさい、と言われているような気がした。
杏寿郎は深々と頭を下げ、再び顔を持ち上げた時には瑠火の姿は消えていた。
杏寿郎は眼を瞑り、しばしその場に留まる。
本当に、全て、終わったのだ。
もう、列車の走る音しか聞こえない。
タタン、タタン、
タタン、……タタン
音の間隔が広がって、次第にその音さえも聞こえなくなった。
プシューッ、と蒸気の噴き出す音を最後に、辺りは静寂に包まれた。
そうか。とうとう、ここが終着点。
彼はゆっくりと目蓋を持ち上げ、列車から降り立つために出口へと向かう。

今の今まで積み重ねてきた過去を振り返る。
全て守る。守りたい。
崇高な信念と、正論を武器に。
いつしか彼は自覚的に優先順位をつけていた。
認める訳にはいかない。
認めてしまえば一瞬で瓦解する。
それなのにーー
彼女への愛情が都合よく作用して、彼の骨組みはより一層強固なものとなった。
共に在られない未来を想いながら。
生きたいと願うことは悪いことではない。
生き延びたいという本能に理由もなく、それでも足掻くことが格好悪いと思う自分はきっと人一倍強がりだった。



「名前。ーー愛してる」



もう何度も同じ言葉を繰り返してきた。



「君とずっと一緒にいたい」



何度も、何度も、同じ言葉を紡ぐ。



「君を傷付けるもの全てから君を守るから」



何度も、何度も、遠回りをしながら。



「もう二度と離さない」



きっと時間はたくさんかかるだろうけれど、



「朝も昼も、孤独な夜も」



また何処かで君に辿り着いてーー



「ずっと一緒だ」



きっと、また二人らしいままで、















「……ぁ」



彼はあまりにも幸福で、どうか夢でないことを心の底から願った。





外伝「神様になった煉獄さん」
終幕



20 / 表紙
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