「……」
「………」
「…………」





来た。ーー杏寿郎は、確信していた。
いずれこの時が来ると信じていた。
意志を受け継いだ者らによって、長きに渡る鬼殺隊の願いはじきに成就されようとしている。

「鬼舞辻無惨」

その独特な気配は間違えようもない。
何故なら、名前と同じものを感じる。
愛する彼女の細胞半分が彼の元に在る、という確固たる証である。
ひとり列車を降りた彼は、気配だけを頼りにその場所へと向かっていた。
周りは真っ暗で何も見えない。
ただ、行くべき一本の道筋だけが足元で明るく照らし出されている。

「ーーと、もう一人……?」

気配はひとつだけではなかった。
それが何かは分からない。
人か鬼かも分からない、曖昧な存在。
この感覚は初めて名前と出会った時、肌で感じたものにとてもよく似ていた。
俺は、その気配の正体を知っている。
共に過ごした時間はひどく短く呆気なく終わりを迎えてしまったけれど、“彼”にならば託せる、そう信じて願いを託した。
あの日のことは忘れない。
無念も、痛みも、安堵も、開放感も、
最期に見た美しい景色もーー

「助けなくては」

使命感に突き動かされた杏寿郎の脳裏には、真っ先にその考えが浮かんだ。
救うべき、いや、救いたい。
偽善などではなく、心の底からそう思う。
そんな純なる気持ちに共鳴したのは、杏寿郎だけではなかった。
そこに集うは、杏寿郎含む七つの魂。
皆が何を思っているかは分からない。
他にもいくつか感じるが、それらは今に集まった訳ではなく、元より対象者と共に、常に存在していたかのようだった。
覚えのない気配だが悪い感じはしない。
全てが慈愛に満ちた優しいものだった。

ーー……見つけた!!

杏寿郎が辿り着くと、大きな肉の塊が頭上を覆い蠢いていた。
嫉妬や憎悪などといった強い悪意は黒い靄となって辺り一面を覆い、こちらまで飲み込まれそうになる。

「実に酷い話だとは思わないか」
「……」
「あの娘の幸福を願いながら、多くの人命と引き換えにお前は死んだ。救われた者にとってお前は命の恩人。感謝こそされど、それも一瞬。じきに忘れ去られゆく運命なのだ。過去に置き去りにされたお前という存在は、いつしか思い出されることすら無くなってゆく。ーー薄情な生き物だ。人間というものは」
「……」
「他者からの感謝の意など一時の自己満足にしかなり得ない。その程度で自己を肯定し承認欲求を満たせるのならば、なんとまぁ気楽なものよ。一種の哀れみすら覚える。理解できない」
「……」
「妬ましくはないか。どんなに死力を尽くしても報われない。お前は死んだ。未来はない。どんなに願っても叶わない。あの娘との輝かしい未来は決して訪れない」
「君はないものばかりだな」
「……」
「君に言われずともそんなことは理解(わか)っている。哀れなのは……君の方だ」

彼は、もう、忘れてしまったのだろうか。
愛し、愛されることの尊さを。
彼もかつては人間だった。
いつから間違ってしまったのだろう。
……何を、違(たが)えてしまったのだろう。
ふいに振り返ると道は大きく逸れ、気付けば周りからは誰も居なくなって、それを孤独とも思わなくなっている。



「私に、そこまでの崇高な心持ちはありませんよ。残念ながら」

彼女はそう言って、微笑む。
懐かしい藤の花の香りがする。

「始まりは……私怨でした。どこまでも純粋な動機だとは思いません?殺された家族へのせめてもの手向けの花にと思い、鬼を滅ぼす為に私は鬼殺の道を選んだ。仲良くしたい気持ちは、まぁ無くはありませんでしたけども。ーー認めます。強過ぎる憎悪の気持ちには勝てませんでした。だけど、そんな自分の生き様を後悔はしていません」
「皆がそうだ。我らは人の子だ。神でも、仏でもない。感情がある」

彼女の懺悔を受け、彼は肯定する。
数珠の音と、南無阿弥陀仏を唱える声。

「人は感情で動く唯一の生き物だ。怒り、憎しみ、悲しみ……何かを始めるきっかけなど大抵はいずれかの感情だ。問題は、その後。何を見て何を感じ、何をするか。単なる私欲の為だけならば此処までは至らなかった。目的が己ではなく他者へと向いた時、人は力を発揮するのだろう。生死など些細な問題に過ぎない。故人が生者を救うこともある。私はそう信じている」
「そうですね。少なくとも僕は救われた」

彼の言葉に、頷く少年。
彼はもう、光のない虚ろな瞳をしていない。

「理想論ばかりの僕に対して、兄さんは現実主義者だった。生きていた頃も僕がそんなんだったから、きっとたくさん苦労や迷惑をかけた。兄さんが殺された時のことさえ、記憶に蓋をして、塞ぎ込んで。ーー思い出したくなかった。思い出したら僕は前を向けない。だけど、そうじゃなかった。本当に馬鹿だったなぁと我ながら思うよ。兄さんの存在が、兄さんとの思い出が、打ちのめされた僕を奮い立たせ、鼓舞した。強くなれた。死んだ兄さんの存在に救われたんだ」
「失ってばかりじゃあ虚しいもんな」

彼もまた、歳いかぬ少年だった。
顔の中央部に刻まれた傷には既視感がある。

「無くしちまったもんは、もう、どうしようもないんだよ。だったら、まだ有るものは全力で守り通したいし、それが大切な人だったら尚のこと幸せになって欲しい。それなのにガキだった俺は怒りの矛先を間違えて、理不尽に大切な人を傷付けた。本当は大切にしたいのに、感情ってもんはどうしてこうも扱いづらいんだろうなァ」
「これだから馴れ合いは嫌いだ」

ネチネチとした口調で彼は言う。
こんな時でも彼は相変わらず彼らしい。

「情が移ることほど面倒なものは無い。特に身内は厄介だ。血は抗えないからな。どうしようもない。切っても切れぬとはまさにこの事。ここまで来るともはや呪いだ。この呪縛がある限り、俺は己の幸福を願うことすら烏滸がましい。ーー汚い。浅はかな欲まみれのものばかり見てきた。鬼もそうだった。故に、初めて対峙した時の衝撃はさほど無かった。外見にこそ驚きはしたが。だからこそ、俺はーー綺麗なものに目が眩んで直視出来ず、近付こうとも思わない。俺の人生とは縁もゆかりも無いはずだったんだが」
「もうっ、そういうことは言わないって約束だったでしょう!?」

少し粘着質な物言いをばっさりと遮る。
場違いなほどの、明るい鈴のような声。

「だって、幸せになっちゃいけない人なんていないもの!皆そうよ!だって、生まれた時からの極悪人なんていないわ!ただ、その後の道のりが少し複雑で、歪んで、足を踏み外して……そっちじゃないよって、手を伸ばして引き寄せてくれる人が近くに居なかっただけ。道を少しもはみ出さずに歩ける人も居ないと思うの。どんなに素敵な人でも疚しい心はあるわ。その弱さを克服して、少しずつ強くなっていけば良いの。私も、師範にそう教わった」
「……」
「……ね? 煉獄さん」

確かに言った。他ならぬ、俺が。
客観的に己の発言を耳にするのは何ともこそばゆさが否めないが、他者に向けた言葉は全て自らに言い聞かせる為の発言であったことも覚えている。
姿形は見えないが、気配は確かに感じる。
今、ここに皆がいる。
志半ばに死んでしまった同志が集っている。

「お前らは揃いも揃って綺麗事ばかりだ」
「綺麗事の何が悪い。君も綺麗なものに心惹かれたのだろう?だから名前を好きになった。彼女は心が綺麗だからな」
「違う。私が欲しかったものは不変」
「変わらないものなんてない」

本当はとっくのとうに気付いているくせ、それを認めたくないのは、この数百年間自分が信じてきたものを否定することになってしまうからだ。
恐れているのだ。この男は。
なんとまぁ滑稽なほどにーー実に、人間らしいではないか。

「彼もまだ生きねばならない」
「どうせ死ぬ。せいぜい齢二十五までだ」
「ーーそうか。そこまで長さに固執するか。ならば……鬼舞辻無惨。君はここにいる誰よりも長い年数を生きているが、その間、得られたものは何だ?」
「……ッ!」

次の瞬間、靄が僅かに晴れる。
皆が腕を高々と真上に掲げ、肉の塊を突き抜けた先で手のひらに触れた何かを押し返す。
全員が同じ気持ちだった。
まだ、来てはいけない。
生者を妬んでも、恨めしくも思っていない。
どうか幸せになって欲しい。
笑って欲しい。
本当はーーせめてひと目でも視界に入れて、久方ぶりの再会を純粋に喜びたい気持ちもあるが、お楽しみはまだ後に取っておこう。
そもそも死者は生者に関与してはならない。
それが、決して覆ぬこの世の理なのだから。

少しずつ、
少しずつ、
上へ上へ、
ぬくもりが、まだ柔らかな髪の毛の感触が手のひらから離れてゆく感覚を、内心寂しくも思いながら、





「さようなら。ーー竈門少年」

杏寿郎は静かに別れを告げると、懐の日輪刀の柄に触れた。
まだ、やるべきことが残っている。
たったひとり残された杏寿郎は、最後の闘いに向かって歩き始める。




18 / 表紙
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