異質と遺失の境界線で見た景色は、彼が望んだものばかりではなかった。
だが、生前知ることのなかった数多のことを知り得た彼を取り巻く世界は色を変える。
彼女が彼を想い続ける限り、彼は消えない。
ただひたすら眠りを繰り返す。
夢の世界を駆けていく。
いつ訪れるかも分からない、彼女との約束を果たす目覚めに向かって眠り続ける。

死しても尚、彼の心は燃えていた。
愛する名前を救いたい。
失われたものを取り戻すために自分が成すべきことはーーもう、分かっている。


□■


もう何度目の夢かも分からない。

「……ん」

今宵は、見慣れた和式の自室にて。
目が覚めると同時に、こちらを見下ろす名前と目が合った。

「あ、煉獄さん」
「……」
「まだ意識が定まりませんか」
「むぅ……そうだな。ぽわぽわする」
「ぽわぽわ」

彼特有の言い回しに、名前は笑う。
彼は時折このような特殊な擬音語を使う。

「煉獄さんって、可愛らしいですよね」
「……」
「あぁ、失礼致しました。男性に可愛いはあまりよろしくありませんでしたね」
「別に構わない」
「!」
「君が俺の姿を思い描いてくれるのなら、何だっていい。君の想いを依り代に俺は初めて存在が許される」
「……安心してください。私が思い描いている煉獄さんはとても素敵なお方ですから」

そう言って、己の膝枕で横になった杏寿郎の髪を弄り回しながら柔らかな眼差しを注ぐ。
なんとも心地好い包容感。
まるで春の日差しのようだった。
開け放たれた障子の外からは微かに緑の匂いをはらんだ風が舞い込み、髪を揺らす。
外に視線をやれば、あらゆる木々の梢が各々の新芽の色で朧に彩られている。
気付くと、杏寿郎は“そこ”に居た。
もうずっと居たような気がするし、つい今し方訪れたような気もする。
ただただ、ひどく心地好い。
この感覚だけは疑いようもない。
まるで揺りかごに揺られるような、ぬるま湯の中で顔だけ出して浮かんでいるような、そんな柔らかな感覚の中、二人は今も変わらぬ愛を確かめ合っていた。
例え他の何かが移り変わろうとも、この気持ちだけは不変であり、永遠。

穏やかな時が流れていた。
幸せだった。それなのに名前は眉を下げ、何も言わずに微笑んでいる。

「……君は、」

俺が本当に成仏してしまったらどうなってしまうのだろう。
それを口にしようとして、すぐに噤む。
あまりに無責任だと思ったから。
自分はそうなってしまっても何ら問題ない。
むしろ、そうあるべきだ。
だが、彼女は?彼女には未来がある。
悲しみを乗り越えて進まなくてはならない。
きっと途方もなく長い道のりだ。
辛いこともたくさんあるだろう。
俺は、その手助けをしてやれない。
いっそ連れて行った方がいいのかもしれないと最低な考えが頭を過り、すぐに否定した。
そんなことはあってはならない。
彼女は生きて、幸せになるべき人間だ。

「私、ちゃんと幸せですよ」
「!」
「貴方と一緒に居られて幸せ者です。私をそばに置いてくださってありがとう」
「ッ、……礼など、君から言われるようなことを俺は何もしていない。否、出来なかった。力及ばず、俺は本当に自分が不甲斐ない」
「そんなことを仰らないで」

こちらの意見を遮るのも優しい声だった。
否定でも拒絶でもなく、受け入れて、そのまま包み込むような柔らかな声。

「……実のところ、未だに俺は、かつての自分の在るべき姿を示してくれる責務に囚われている。留まっていることは否めない。これはもう致し方ないことだ。俺はずっとそうやって生きてきた。今更、生き方を変えようなどとは思わない。それが俺らしさでもあるからだ」

まぁ、生き方も何も死んでいるんだが。と、笑えない冗談を口にすると、杏寿郎は、

「加えて、諦めが悪い。これは君もよく知っている通りだ。性格は死んでも治らない」
「えぇ、知っておりますとも。煉獄さんが仰る貴方らしさは、とても強くて優しくて、だからこそ……煉獄さんも普通の人間なのだということを、皆が忘れてしまう」
「……」
「煉獄さんは凄いお方です。心の底から尊敬しております。ただ、絶対的に正しいとは思わない。規律を守ることは正しいことですが、それが全てではないことを煉獄さんもご存知でしょう?」

かつての杏寿郎もそうだった。
鬼は斬るべき存在だという確固たる答えを持っており、問答無用に斬り伏せる。
例外などない。鬼はよくないものだから。

俺は、炎柱だ。
皆の模範になる存在。
鬼を倒せ。
それが己のすべきこと。
皆がそれを求めている。
それが、求められた煉獄杏寿郎らしさだ。

そう思っていた。
そう思って、自分らしさを保っていた。
そうしていれば足を踏み外さないと慢心し、立派で在れると信じていた。
無論、それも正真正銘彼らしさだった。
だが、それが全てではなかった。
彼とて、正しさだけで形成された絶対的善人ではなかったはずだ。

「もし煉獄さんが正しさだけで物事を判断するお方でしたら、私はとっくに死んでおりました。出会い頭に頸を斬られていた。貴方が判断を誤った唯一の過去の過ちです」

そう口にする名前の表情からは申し訳なさが滲み出ており、苦悩に歪んでいる。
噛み締めた唇が痛々しい。
杏寿郎は腕を伸ばし、名前の頬に手のひらをぺたりと添える。

「過ちなんて、とうに犯している。誰もがそうだ。きっと極楽も地獄もない。あるのは、目指すべき場所だけだ。そこに至るまでの過程を、とある宗教では“煉獄”と位置付けているただそれだけの話。正しいことが何なのかは誰にも定義付けることは出来ない」
「……」
「ーーさて!そろそろうたた寝は終いだな!」

杏寿郎はがばりと起き上がると、名前と同じ目線で向き直る。
名前の表情は未だ晴れない。
幾多もの世界での記憶を保持出来るのは杏寿郎だけであって、名前は違う。
彼女の意識は一旦途切れ、再び相見える時にはこの場所でのひと時も忘れてしまっているのだろう。
それでも構わないからそばに居て欲しい。
杏寿郎は名前の手を取り、立ち上がる。
彼は笑っていた。
いつもの笑みで。
眼をカッと見開き、口端を上げて。

手を離さないのは名前の方だった。
手放したくないという強い思いが、彼を繋ぎ止めて離さない。
杏寿郎は、手のひらをぎゅうと握り締めてくるその力が愛おしくて、つい目元を緩めた。




17 / 表紙
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