何かいる気配を感じ取った杏寿郎は、瞬時にその気配を辿り眉を顰める。
嫌な感じだ。
これは、この世界に相応しくない。
相応しくないものは消さねばならない。
杏寿郎は最後に名前の身体を力いっぱい抱き締めると、徐々に腕の力を弛め、名残惜しくも離れようとする。
離れることを悟ると同時に、名前の表情が変わった。
まるで最初からこうなることは分かっていて、それでも悲しいし苦しい、そんな感情を必死に押し殺そうとしているのが見て取れた。

「引き留めないのか?身勝手だろう。俺は。敢えて何もしない、意味の無い一日を過ごそうと言い交わした取り決めを、今にも、その矢先に破ろうとしている」
「取り決め、と言うほどのものではなかったでしょう。指切りだってしておりません。あの時のように」
「……」
「私は知ってます。煉獄さんが何かをなさる時はご自身の為ではなく、常に他の誰かの為でした。今も、きっと……私のせいで」
「違う」

杏寿郎はもう一度、違う、と反復させ、よりその部分を強調させるとひと呼吸置き、

「君のせいではない。ーーそんなふうに言わないでくれ。俺はなにも君に恩を着せようなどとは考えていない。そんなことは望んでいない。これっぽっちも」

そう断言してみせる杏寿郎の眼に、一切の迷いや翳りは無かった。
紛うことなき本心から出た言葉だ。
彼は、単なるご機嫌取りだけの為に言葉を選ぶような輩ではない。

「様子を見て来る。君は此処で待っていなさい」
「ま……ッ、待ってください!!!」

余計な詮索をされる前に立ち去ってしまいたかったが、名前にシャツの襟元を掴まれ、ぐえと首が締まる。
彼女は協調性がありつつも、自ら口にしたように自分の決めたことに対しては一貫した強い意思があり、決して聞き分けが良い訳ではない。

「も、申し訳ありません。でも、やっぱり……納得出来ない。私も行きます。貴方はいつも先に行ってしまうから、私……煉獄さんの背中ばかりが記憶に鮮明なのです。本当は隣にいたいのに」

名前に好かれているのが心地好い。
それを確かめたくて、
それを実感する度に、
自分が嫌な人間だと実感してしまう。

「名前。“今の”君は、前世や生まれ変わりを信じているか」
「ーー」
「人がそういう不確かなものを信じたいと思う理由は色々あるのだろう。死んだら途端に終わりというのはあまりに呆気なく、無慈悲で、哀しい。それが怖いんだ。人間は」
「ーーー」
「来世があるかは分からない。だが、想いを託す未来があることだけは分かる。例え見届けることが出来ずとも、想いを引き継ぐことは出来る」
「ーーーー」

生者を救えるのは、生者だけだった。
死者では生者を救えない。
それが、杏寿郎の行き着いた答えだ。

元より、杏寿郎は勉学が嫌いではなかった。
むしろ好きの部類に入ると思う。
答えが明確だから、解き終えた後の爽快感が堪らなく気持ちいい。
どんなに難易度の高い問題であろうと最後には紐解いてみせたし、一度間違えたものでも復習し完全に理解してみせた。
炎の呼吸法を三冊の指南書のみで習得してみせた時もそうだ。
記してある通りに刀を振るう“だけ”。
その、たったそれだけのことを熟すことがどれほど至難の業であるか、それは試してみた者にしか分からない。
ただ、杏寿郎は先祖より受け継がれてきたものを真似ることよりも、それを派生させ新たな呼吸法を確立させた元弟子・蜜璃の方がより優れていたと思っていたし、いずれ越されるものだと考えていた。
煉獄杏寿郎は凡人だ。天才ではない。
そんな彼が導き出した、正解のない問題に対する答えは、つまるところーー


□■


「偽善者」
「……」

建物を出て、少し入り込んだ暗がりの方。
そこに声の主が居た。
男だ。虹色がかった瞳、白橡色の髪といった特異的な風貌をしている。
彼は無機質な壁に背を預けており、こちらを向くなり尖った歯を見せ、にやりと笑った。

「加えて、酷い男だ。本当に。あんなに美しい娘を一人残して来たのかい。君が望んでいたことじゃあないか。愛した女に必要とされているんだぜ。男冥利に尽きるだろうよ」
「俺を知っているような口振りだが、俺は君とは初対面だ」
「あぁ、そうだね。その通りだよ。はじめましてこんばんは。挨拶が遅れて申し訳ない。だが、名乗る程の者ではないよ。俺は。ただの通行人だと思ってくれればいい。この世界の主役はあくまで彼女と君なのだから」
「通行人にしてはやけに舌が回る」
「失敬。まともな相手との会話が随分と久方ぶりなものだから、つい年甲斐もなくはしゃいでしまった。年齢は聞かないでおくれ。これでも結構歳食ってんだぜ。歳上は敬い給えよ」

聞こうとも思わないことを勝手に先回りし、勝手に話を進められる。あまりに強引な手口。
優しい語り掛け口調で誤魔化してはいるが、口にする言葉全てが痛烈な批判である。

「君は生前、鬼だったのだろうな」
「……へぇ。何故そう思うんだい」
「酷いことばかり言う」
「それは偏見だよ。人間だって同じさ。君にも身に覚えはないかい?己の仰々しい大義の為、それを脅かす者に対しては随分と辛辣だったじゃあないか。問答無用に頸を斬れだの。鬼だって必死に生きているのに」
「そうだな。それは認めよう。確かに、俺は鬼からしてみれば心無い者だったに違いない。だが、それを君のような惡鬼に言われるのは心外だ。相当人を喰ったと見える」
「ふむ。やはり柱の目は誤魔化せない、か」

と、早々に諦め開き直ったその男は、

「過去の行いを蒸し返すのはよそうぜ。双方にとって不毛だ。意味がない」
「ならば今すぐここを立ち去って頂きたい」
「長居するつもりはなかったよ。ただ、あまりに君の行いが偽善的だったから」

あぁ、なんて自分本位!自己欺瞞!
男は芝居がかった口調でそう嘆くと、空を仰ぎ顔を手で覆ってみせた。

「あの娘が君のいない未来を本心から願っていると思うかい?君も実感しただろう?二人で共に過ごす時間の尊さを!ずっとこのままでいたい、と。ーーそうは、望まなかったかい?」
「何が言いたい」
「言葉のままさ。あぁ、俺には分かるよ。好きな娘とならば何処にでもゆける。例えその先が地獄だろうと」
「……」
「ま、俺は振られちゃったんだけどね。今はひとり寂しくあの世を傷心旅行中さ。いやぁ、旅はしてみるものだね。思わぬ収穫を得た」
「言動と心情が噛み合っていないな。君の口にすること全てが空虚だ。死んでも人はそう容易くは変われない。君の人となりが大方理解出来た」
「……人、ね」

俺を人と呼ぶのか、この男は。男は内心そんなことを考えていたが、表面上は始終穏やかな笑みを顔に貼り付かせていた。

「才ある者は心に余裕がある。選ばれし者はそうあるべきだ。弱者に手を差し伸べ、救ってやらねば。ーー君もそう思うだろう?才に恵まれて生を受けた者は辛いね。分かるよ。俺もそうだった」
「それは違う。確かに俺は有難いことに何不自由なく生活が出来ていたし、体格にも恵まれていた。だが、それは運が良かっただけのこと。ただ、出来ることと求められていることが一致していただけだ。むしろ才あるなどと言われることは……不本意だ。俺はそう言われるほどの者ではない」
「謙虚だねぇ。分かり合えると思ったのに」

男はそう言って、ケラケラ笑う。
杏寿郎はそんな男と対照的だった。
クスリとも笑わない。
笑いもせず、かと言って怒りもせず、ただただ目の前の男を哀れだと思っていた。
似ている、と彼は言った。
選ばれし者としての宿命を背負わされ、生きてきたのだろう。
それを己の才と傲るか、何かを成す為の原動力と捉えるかによって、その後の展開は大きく変わる。
前者としてしか捉えられなかったこの男の生前の境遇に、杏寿郎は人知れず同情した。

「此処は……あの世なのか」
「そうとも言う」
「随分と曖昧だな」
「人智を超えているからね。実のところ俺にもよく分からない。つまるところ、俺もただの個に過ぎなかったという訳だ。死んでから得られることって意外と多いね」

不本意だが、凡そ同意だ。
杏寿郎が思うに、此処はーー極楽でも地獄でもない場所なのだと考えている。
杏寿郎は、自分含め人間という生き物が、そう容易く極楽に行けるような聖人君子ではないことを知っている。
そこまで楽観的ではない。
だが、不完全だからこそ人間というもの。
故に、遺された生者は祈る。
どうかあの人が安らかに眠れますように。
此処は、そんな不完全な者たちの死後の魂を浄化する生者の祈りの場所なのかもしれない。
こうして様々な可能性の世界を渡り歩き、未練や願いを昇華させる。



「煉獄さん!!」



名を呼ばれ、振り返る。
こちらに駆け寄って来る名前の姿。

「誰かいらっしゃいましたか……?」

彼女の問いに再び視線を戻すと、そこに男の姿はなかった。驚きはしない。
この世界も間もなくして終わりを迎える。
だが、杏寿郎はこのまま安らかな眠りに就こうなどとは微塵も考えていない。

「……いや!誰もいなかった!俺の勘違いだったようだな!!」
「そうでしたか。なら、戻りましょう。風邪をひいてしまいます」
「それは出来ない」

途端に、名前の表情が凍り付く。
彼女の願いに逆らおうとしていることに対する罪悪感は否めない。
それでも、杏寿郎は、

「煉獄さん……もう、眠りましょう。疲れたでしょう。休んでもいいんですよ。いいえ、休むべきです」
「君の心遣いに感謝する。だが、生憎俺はまだ眠くはない。丈夫な身体に産んでもらえたことに感謝しなくてはな」
「……」
「強がりではないぞ。本当だとも。君の言いたいことは分かるが」
「……」

名前は、もう、何も言わなかった。
“羽織り”を掴み、引くようなことはしない。




16 / 表紙
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