部屋は、所謂「洋室」と呼ばれる仕様で、杏寿郎の生前の自室とは遠くかけ離れていた。
靴を脱ぐ、ただそれだけの動作でさえ杏寿郎は若干たどたどしい。
紐靴というものも大正時代に存在こそはしていたが、馴染みの無い者にとっては無縁。
特に杏寿郎の場合、家柄云々もあるが、和装でいることが大半を占めていた。

「夢を見ているようだ……いや、夢か」
「夢?」

二人は顔を見合せると、互いに首を傾げる。
名前は、杏寿郎の言葉の意味を思考。
杏寿郎は、今し方思い出した会話を思考。

仏。救い。正しさ。
蜘蛛の糸ーー……

「名前。正しくないことをしよう」

驚く名前の手を取り、引き寄せる。
そのままベッドになだれ込んだ二人は、今宵ーー





夜更かしを開始した。

「俺は昔から人一倍体力があった!故になかなか眠れず、夜の暗闇の中で木刀を振っていたら父上に大層叱られてしまった!なんでも、睡眠は子の脳や心身の発達に大いなる影響を与えるらしい!以来、俺は、寝るべき時はきちんと眠るようにと心掛け、夜更かしは良くないものだと位置付けたんだ!」
「あぁ……寝る子は育つと言いますよね。確かに夜更かしはあまり良い行いではないかもしれませんが、先程の煉獄さんの物言いでは語弊があります」
「うん?夜更かし以外に正しくないことなんてあるのか?」
「……いえ、もうやめましょう。このお話。私が煩悩まみれのようでいたたまれないので」

食事もせず、風呂にも入らず、着替えもせず、部屋の電気も着けたまま。
ベッドの上も今朝慌ただしく飛び出した状態のままなのだろう、布団が無造作にひっくり返っていたが、整えもせず彼女を押し倒した。
そのまますっぽりと包まり、頬を寄せる。
名前は何か言いたげだったが、絆されてしまったのか諦めたように肩を竦め、

「唐突に何故このような提案を?」
「……うーん。何故だろうなァ」

正しいことから、少し、逸れたくなった。
それでも、他人様に迷惑を掛けるようなことはしたくない。

「遅れた反抗期のようなものだ」

誤魔化すような杏寿郎の言葉に、それにしても遅過ぎませんか、と名前が笑う。

「反抗期の煉獄さんなんて、想像つきません」
「君の中の俺は余程物分りが良いらしいな!」
「いえ、物分りはあまりよろしくないかと」
「うん!?」
「だって煉獄さん、ご自身の考えは絶対に曲げないではありませんか。私に負けず劣らずの頑固者です」
「君は頑固なのか?」
「えぇ、頑なですよ。良く言えば、そう容易く周りの意見には流されません。誰が何と言おうと、私は私の信じたいものを信じておりますので」
「ーーうむ、そうだな。名前。君は……そういう女性だった。意志が強い。そんなところも魅力的だと思ったんだ」

杏寿郎はなにも口説くつもりなど無く、思ったことをありのまま伝えただけ。
それなのに感受性豊かな名前は、彼の真っ直ぐ過ぎる想いを真正面から受け止めたが為に今の赤面へと至る。

「煉獄さんの……そういう、突拍子も無いところは重々理解しておりますが……ッ」
「鼓動が早いな!熱も高い!」
「人の心拍数や体温を勝手に察しないでください!その通りなんですけども!」
「ワハハ!潔いな!愛い!!」

そんな、他愛のない会話を交わす。
話したいことは尽きないが、そのうちのほぼ大多数はあまり意味の無いものだ。
それが当たり前の世界だった。
時間ならある。如何様にも使える。
自分の生きたいように生きられる。

「だが、これは丁度いい。こうも温(ぬく)いと布団から出たくなくなってしまいそうだ」
「まぁ、明日はお休みですし……ゴロゴロしていてもお咎め無しですよ。ゆっくり過ごしましょう」
「ごろごろ、とは具体的に何をするのだろう」
「えっ!? そ、それは難しい質問ですね……改めて聞かれると悩ましいのですが……うーん……何もしないこと、でしょうか。時間の浪費や無駄遣い、と言うと聞こえは悪いですけども」

何もしない、というのは実に新鮮である。
果たさなくてはならないことが多すぎて、思い返せば自分は責務のことを考えるがあまり他のことに対してあまり目を向けてこなかったかもしれない。
自身の起源からは逃れられない。
宿命のように己を縛り付ける血筋。
ある程度は想定内の道だった。
強いて言うならばーー名前。
彼女との出逢いが唯一の想定外だった。
責務を果たす為、疑いもせずひたすら真っ直ぐ走り抜けて来たのに、途中、足を止めた。
彼女の異質さに、可憐さに、目を引かれた。

綺麗だと思った。
美しいと思った。
亡き母の面影を見た。
知れば知るほど好きになった。
愛らしいと思った。
愛おしいと思った。
守りたいと思った。
皆に求められる、炎柱・煉獄杏寿郎とは別のーー邪な己の一面を知ってしまった。
触れたいと思った。
触れられたいと思った。
彼女としたいと思うことは、あまりよくないことばかりだった。

「なるほど。そんな過ごし方もあるのか。覚えておこう」
「……」

次の瞬間、名前の顔から一切の感情が消え、じぃっ、と杏寿郎の顔を覗き込む。
まるで何かを探るような、確かめるような、そんな眼差しに杏寿郎は居心地が悪くなる。
疚しいことをした気分である。
いや、別に、疚しいことなど何も無いが。

「ーーそうですね。煉獄さんとならきっと何をしても有意義な時間になる。たまには室内に籠って、敢えて何もしない、“意味の無い一日”を送りましょう」
「それは……何か、耳馴染みがある。いや、」

口馴染み?
杏寿郎は己の唇に触れ、しばし固まる。
名前は問いには答えず、代わりに物憂げな微笑みを浮かべていた。

ーー……そうか。

これは、有り得るかもしれない未来の可能性のひとつなのだと唐突に理解する。
絶対的な確約など無いが、このままいけば実現性の著しく高い世界。
平和な世界だ。鬼もいない。
朝起きて、家を飛び出して、職場で働き、クタクタになって帰路に着く。
家に着くとおかえりなさいを言われ、ただいまと言って、愛おしい者と共に一日を終える。
当たり前のようで当たり前ではない、何気ない日常を送ることが出来る世界。
そんな可能性を見出した時、杏寿郎は、唯一の救いが、希望の光が、チカッ、と煌めいて見えたような気がした。
一度は諦めた。
名前にとって幸福な世界。
例えそこに自分が居なくとも。
彼女が平和で平凡な日々を送る、そんな未来があるのならーー自分にはまだ出来ることがあるのではないか?

杏寿郎は、平和な世に自分がいられなかったことを嘆くこともせず、本来ならばあったかもしれない己の妄想に縋ることもせず、未来ある彼女にとって幸福な世であることを願った。
未来は分岐し、可能性は派生する。
今見ている世界がそのままそっくり実現するかもしれないし、逆に実現しない可能性もある。
結構。判り切っていたことだ。
可能性が「在る」ということ、それ即ち、生きて「在る」ということなのだから。
再び動き出した世界で自分がどう立ち回るか、杏寿郎は胸の内に決める。

「なにか、解決しました?」
「目指す場所が決まった。目標があるというのは実に良いことだな。俺の性に合っている」
「そうですか。良かった」

名前は、そんな杏寿郎の内心を見透かしているようだった。表面上さほど変化の無い杏寿郎の心境の変化にさえ、敏感に反応する。
彼女に隠し事は不要で、そもそも無理な話。
杏寿郎は名前の髪を撫で付けながら、やはり君に隠し事は出来ないな、と笑った。



鴉が鳴いている。
夜にも関わらず、鳴いている。



「偽善だよ。それは」

聞いたことの無い男の声が、そんな杏寿郎の試みを打ち砕こうとしていた。




15 / 表紙
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