そういう訳で、思考の放棄により大抵のことは受け流せるようになった杏寿郎。
いちいち驚いていてはキリがないし、何よりこの世界を理解するにはまだ時間が掛かる。
そんな時間は、多分、無い。
留まり続けることは、多分、出来ない。
あまりに不確実過ぎる世界だが、無いものだらけだとしても、ある程度の融通が効く性格だという自負だけはある。

帰りは、自転車と呼ばれる乗り物を使う。
杏寿郎がこれに乗るのは初めてである。

「文明の進歩とは素晴らしいな!」
「いや、チャリで文明の進歩とか……今時、空飛ぶスケボとかあるんだぜ。派手だよな」

そう言って笑うこの男は、通称・宇髄先生。
杏寿郎の知る天元ではない。
だが、この男の名も天元である。
彼は、この学校で美術を教えているらしい。
職員会議の終了後早々に席を立ち、華金だの酒だのと騒ぎ立てていたのもこの男だ。

「生徒に聞こえたらいけないよ。まだ、部活動で残っている子もいるんだから」

と、優しく窘めたのは、理事長の産屋敷耀哉。
杏寿郎の知る耀哉ーーお館様ではない。
だが、この男の名も耀哉である。
彼は、この学校を運営・管理している。
理事長とはそういう役回りらしい。
杏寿郎は彼の顔を視界に入れた途端、何とも言えぬ気持ちが込み上げてきて何かが溢れ出しそうになったが、ぐっと堪えた。
思うことがあまりに多く、ゆえに会議の内容はほぼ頭に残っていない。

「金曜日なのに直帰かよ。地味なヤツめ」
「うむ!目的があるからな!」
「あぁ、愛しの”アイツ“だろ?」
「あいつ?」
「とぼけんなって。俺には分かるぜ。なんたって神だからな」

天元は杏寿郎の肩をバシバシ叩くと、その手をひらひらとさせながら大股でその場を去ってしまった。
残された杏寿郎はその大きな背中を見送ると、自転車に跨り、地を蹴る。
緩やかな坂道を、自転車で駆け降りる。
初めて乗ったはずの乗り物なのに、妙に馴染みがあるのは何故だろう。
身体が乗り方を“覚えている”。
心地好い風が髪を揺らす。
後ろへ流れた髪を靡かせ、杏寿郎は向かう。
彼の望む、帰るべき場所へ。


□■


「何処だか知らんが到着してしまった!」

無意識下の行動とはなんと恐ろしい。
だが、この胸の内がすっと落ちるような感覚は紛うことなき安堵であり、これは帰宅した時に感じる特有の安心感だった。
杏寿郎は自転車から降りると、目の前の縦に長い建物を見上げる。
なんという高さ。
これを建てた家大工は凄腕に違いない。
そんなことを考えながら、杏寿郎は自転車を車庫へと片付け、上の階へ。

ーー俺は知っている。
ーー俺は此処に住んでいる。……彼女と。

誰もいない玄関口(エントランス)。
動く箱(エレベーター)に乗って上層階へ。
チン、と軽快な音と共に開かれた扉を出て、音の無い廊下を歩く。
自分の足音だけが響く中を進み、杏寿郎は自分の住む部屋を目指して歩く。
そう時間も掛からぬうちに、とある部屋の扉の前に立ち「此処だ」と直感が告げた。
深呼吸。扉に手を伸ばす。
だが、彼が扉に触れるよりも先に、内側から何者かによって扉は大きく開け放たれーー



ごっつん

「あ」
「……」
「……」
「……」
「……あの、大丈夫ですか……?」
「大丈夫じゃない……」
「えっ」

名前が居た。扉の向こう側に。目の前に。存在していた。見たこともない格好に身を包んでいる。これはスーツだ。洋服が多く普及され始め、主に男性が着用している姿をよく目にする。女性のスーツ姿を見るのは初めてだが、黒を基調としたスマートな装いは名前にとても合っている。……すまーと?すまーと、とは何だ。なんとなく出てきた言葉だが実のところ意味が分からない。だが、今初めて使った言葉ではないような気がする。覚えがある。口がその言葉を形成したことを記憶している。だから思わず頭に浮かんだ。そして彼女はいつ見ても何を着ていても美しい。それだけは何時如何なる時も変わらない。不変の事実。

「……申し訳ありませんでした。勢いよくぶつけてしまって。痛みませんか」
「うん!? ーーあぁ!問題ない!!」
「しかし、先程は大丈夫ではない、と」
「嘘だから気にするな!!!」
「嘘だったんですか!?」

まるで大量の水が噴き出すように頭の中で様々な考えがどっと湧き、名前のひと声で一気に沈下する。
そんな会話を交わした後、まぁ立ちっぱなしも何ですし、と、名前に中へと誘われた。

「まぁ、元はと言えば、ここは煉獄さんの借りていたお部屋なんですけどね」

そうなのか、と心の中で反応する。
ちぐはぐな事ばかり口にしていては不審がられてしまうので、何でもかんでも口にするのは極力控える。
実際、何がちぐはぐなのかも分からないが。

「なんだかいつもに増して変ですね煉獄さん。お疲れですか?今日は金曜日だから」
「金曜日……」
「土日は仕事がないでしょう。お互いに。久々にゆっくり出来ますね。ほら、煉獄さん土日も学校行事で駆り出されることがあるから。学校の先生って、大変……」

次の瞬間、名前が紡ごうとした続きの言葉たちは喉の奥へと追いやられる。
気付いたら、彼女は腕の中にいた。
すっぽりと包み込めてしまえる身体。
心地好い体温と胸の鼓動を感じる。
前者は次第に上昇してゆき、後者はまるで早鐘のように、それでいてトットットッ、と小動物のように軽い。
気付いたら、背に腕が回されていた。
愛を感じる。好かれているのだと実感する。
ひどく懐かしい。此処に帰って来るまでに、自分は途方もなく長い時間をかけ過ぎてしまったのだろう。
ぶつけられた額がひりひりと痛むのも忘れ、杏寿郎は幸福を噛み締めていた。

今、目の前に在る君が何者だとしても、救いのない都合のいい存在だとしても、胸に抱くこの幸福感が偽物でなければ、それでいい。
死した身である彼にとって、彼女という存在こそが唯一彼を救える蜘蛛の糸であり、夢幻という心許ないものだとしても、もう、それに縋ることしか出来ないのだから。
千切れてしまわぬように、慎重に、大切に。
この糸こそが、死者と生者を繋ぐ唯一の架け橋になるのだから。

ーー「確かに仏様はいつだって正しいかもしれない。しかし、人を救えるのは正しさだけじゃない。本当に助けたいという意志があったのなら、蜘蛛の糸を使うべきではなかった」
ーー「私だったら.....必死に手を伸ばして、手と手を結んで、引き上げます。本当に助けたい人ならば当然のことです」
ーー「誰だって何かの為に必死に足掻く。どうしようもない時に目の前に蜘蛛の糸が垂らされたのならば、それに縋るしか他無い。もっとも、一番良いのは地獄に落ちないことだが」

そんな、いつかの会話がふと頭をよぎった。




14 / 表紙
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