これは、現世では決して有り得ない、だけど彼らが夢見た平和な日常の片鱗。
ただの夢だったと終わらせるには些か無理のある、ほんのささやかな短い間の、確かにあったはずの夢の情景。
はて、自分は夢を見ていたのか、あるいは、今ここにいる自分こそが夢なのだろうか。
今ここにある自分を定義する根拠(もの)は何だ。

つまるところーー夢が見せる世界とは、違った側面から見た全く同じ世界である。


□■


鴉が鳴いている。
放課後を報せる、鐘の音が聞こえる。

ーー……放課後?

「煉獄先生、さようならぁ」
「また月曜日お願いしまーす」

聞き慣れない単語に耳を疑うが、どうやらそれは正真正銘自分へと向けられた声らしい。
杏寿郎はハッと我に返ると、目前で沈みゆく夕焼けの柔らかな光に目を細める。

ーー此処は……何処だろう?

整備された道、整備された草木、同じ服装で揃えられた子どもたち、そしてーー見知らぬ服装に身を包んだ自分。
白いシャツに黒いズボン、首からはネクタイを垂らしており、彼の認識の中でネクタイは正装の時に着用する物という位置付けであったが、此処が畏まった場でないというのは明らか。
杏寿郎は、右手に持っていた『日本史』と記された冊子で影を作り、夕焼けの眩しさをやり過ごそうとする。
あの陽が完全に沈めば、鬼が出る。
早くいつもの隊服に着替え、鬼狩りの準備を整えなくてはならない。
それなのに、どういう訳かこの世界に鬼という脅威は存在しないかのように思えた。
世界はひとつしか無い。
きっと同じ世界軸に違いない。
ともなれば此処は、杏寿郎の知る、杏寿郎の生きた世界であり、だけど、何かが違う世界なのだろう。
この時、真っ先に彼が考えたのはーー

「名前」

そうだ。彼女を探そう。
自分という存在が此処に在るのなら、彼女の存在もきっと何処かに在るはずだ。
理由もなく確信する。
そうと決めたら即行動。
杏寿郎は此処が何処かも分からぬまま、宛もなく彼女を探そうと意気込む。

「うむ!善は急げだな!」
「善は会議サボって一人ですたこら帰ったりしねェんだよ、クソがァ」
「!?」

聞き覚えのある声に勢いよく振り返る。
聞き間違える訳がない。何度も聞いた。
この、不満を包み隠そうともしない、ドスの効いた声の正体は、

「……不死川か!」
「先生を付けろ。ここはなァ、学校なんだぜ?煉獄先生よォ」
「がっこう」

存在は知っている。が、馴染みはない。
それに、大正時代進学する者はほとんどが男子だったが、今し方見た光景の生徒男女比は凡そ五分五分。
先程、挨拶を交わしたのも女生徒だった。
加えて、あらゆる面で明らかに文明が進んでいることを踏まえると、どうやら大正時代よりも先の時代だと推測する。
ともなれば、此処は、自分があの時死ななかった場合のもしもの世界ーーにしては、だいぶ様変わりし過ぎではないか?
自然、建物や人の背格好、全てが異なる。
目の前で怪訝そうな表情を浮かべている実弥の背格好も、杏寿郎のよく知る隊服ではなく、彼同様に白いシャツと黒いズボンを着用していたが、胸元のボタンが二、三多く外れているところが相も変わらぬ彼らしさであり、杏寿郎は少しだけほっとした。

不死川実弥。
彼は少し損な性格をしている。
恋愛沙汰にすこぶる疎い。
名前と出逢う前までの杏寿郎も人のことを言えぬ程疎かったが、もしかすると彼はそれ以上かもしれない。
恋心への自覚が無い。関心の薄さゆえ。
通常、恋をすれば何らかの自覚症状が出るし、それは想い人が故人となってしまってからも例外ではなく、失って初めて気付く恋心というものもあるだろう。
大前提として、互いに生きている状態で恋が成就することこそが最善だが、失っても尚、気付くことが出来ない男ーーそれが実弥だ。
以前、彼は胡蝶カナエを気にしていた。
それは、ふと目が合えば少しソワソワしてしまうような、言葉を交わせば少し照れ臭くなってしまうような、まるで年上のお姉さんに憧れを抱く男児の初恋のような、まだ芽生えたばかりの淡い恋だった。
芽がすくすくと育ち彼が自覚するよりも先に彼女は死んでしまったが、恐らく実弥は今も尚、あのソワソワや照れ臭さの正体を知らない。
もし、彼が恋心を自覚したとして、自分よりも他者の幸福を願い、その為ならば例え自分が不幸になっても構わないとさえ思っている実弥にとって、恋愛というものは些か難しかったのかもしれない。
そんな彼が名前のことを少なからず意識していたというのは、そういった類いに敏感な天元のみならず、杏寿郎の目から見ても明らかだった。

『不死川。きっとこれが今生最後の手紙になるだろうからこの際はっきり言おう。君は名前を好いている。異性として。悪いことだとは思わない。まず、君を叫弾対象と見なす旨の宣告ではないと先に明記しておこう。俺は君を咎めないし、その資格すら無いのだから』
『俺は名前を心底愛している。誰にもやりたくない。だが、何も彼女に生涯独り身でいて欲しい訳でもない。幸せになって欲しいのだ。幸福になる為の縁ならば、それも致し方ないと思っている。もしかするとそれは君かもしれないし、宇髄かもしれない。はたまた別の、名も知らぬような馬の骨やもしれないが、もし君が名前への恋慕に身に覚えがあるのならば、どうかその気持ちを大切にして欲しい。死者に遠慮など不要だ。そして、どうか名前より長生きして欲しい。君も俺と同じ死に急ぐ性だからな。それだけは守って欲しい』

なお、上記は一部抜粋である。
杏寿郎は皆に書き当てた手紙の内容を大方覚えており、実弥へと向けた『名前と縁を結ぶ前の十ヶ条』も全て記憶している。
お前が早死しておいて何を、と多方面から突っ込まれる心積りはとうに出来ていた。

「君も苦労しているな!」
「まァな。俺が首根っこ掴んで職員室引き摺って行こうとしてンのに微動だにしねぇ後輩に手が掛かって堪らねェわ」
「ワハハ!その会議とやら、議題によっては途中離席あるいは欠席を要望する!俺にはやるべき事がある!今すぐにでも!」
「いや、仕事が第一優先だろォがァ。良い歳した大人が何言ってやがる。我慢しろや」

結局、実弥によって職員室と呼ばれる個室へと強制連行された杏寿郎は、その先で他の柱の面々と顔を合わせることとなる。
だが、いずれも立場は「先生」と呼ばれる職業であり、会議中最後まで鬼殺隊のきの字も耳にすることはなかった。
ちなみに、しのぶは先生ではなく生徒という立ち位置らしいことは廊下の掲示物『生徒委員会新聞』で知ることとなる。
そして、何より驚いたのはーーしのぶの姉であり、実弥のかつての想い人であり、故人である元花柱・胡蝶カナエが存命だということ。
他にも驚愕やら困惑やら様々な感情を伴う突っ込み所は腐るほどあったが、杏寿郎はあらゆる感情全てをワハハと笑い飛ばしてしまった。
ひとまず、考えても仕方がないことは一旦考えないこととする。




13 / 表紙
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