「好きなんだと思います。ーーその、声」

思いのほか早く気を遣ってしまい恥ずかしくて仕方がないのだろう、ぽつりとそう呟いた名前の声を、表情を、杏寿郎は絶対に忘れない。
それだけに留まらず、彼女に纏わる全てがかけがえのないものだった。
杏寿郎は事ある毎に、名前と初めて出逢った日のことを思い出す。
すると、当時の心境、情景が一斉に鮮やかな色を取り戻し、炎の如く生き生きと燃え上がる。

「声だけか?俺は君の全てが好きなのに」
「ッ! ……も、もうっ、貴方はそういうことばかり言って……!」
「無論、声も好きだがな!透き通るような君の声はとても耳触りが良く好ましい。ずっと聞いていたいと思う」
「……煉獄さん」
「うん?」
「前にも、こんなふうに……似たようなやり取りをしましたよね。私達」
「うむ。日常とはそういうものだ。同じことの繰り返し。名前とならばこの先何度だって繰り返したい」

際限なくいつまでも繰り返すことなど、叶わないのだけれど。
終わりは来る。その結末ですら、いつか訪れるという実感が未だ無いのだけれど。

「名前。もっと見たいなぁ」
「!」

額の前髪を退けてやりながら、杏寿郎は名前の顔を覗き込み、首を傾げる。
案の定、名前はうぅ、と小さく呻き、それでも即座に拒絶しない。
互いの額をぴたりと合わせ、見つめ合う。
惜しげも無く眼差しをただひとりに注ぐ。
この時がいつまでも続けば良いのに。
何度それだけを願っただろう。
もしかすると自分は生きていて、四十九日を迎えた後も平然とこの世に存在を許され続けているのではないか。
だって、こうして触れて、触れられて、彼女は確かに感じていて、彼女は確かに俺の目を見て話してくれていてーー彼女に存在を認知されている、ただそれだけの事が、どうしようもなくどうしようもなく、嬉しくて、

「見せてくれ。名前」
「……今日だけ、ですからね。こんな……破廉恥なこと」

自分が死んだ、などという、悪い冗談めいた悪夢など早く醒めてしまえばいいのに。
……君が起こしてくれるのだろう?
信じている。君が起こしてくれる日を。
大丈夫。朝は必ず訪れることを知っている。
どんなに嬉しくても、苦しくても、悲しくても、時は平等に刻まれ、世界は廻る。


ーーその時が訪れても、尚ーー


□■






「言ったではありませんか。どんなお姿でも、私は煉獄さんをお慕いしております」
「これは……そう、悪い夢です。次に目覚める頃には、きっと鬼のいない平和な世の中になっていることでしょう。何にも縛られず、はばかれることなく、貴方が貴方らしく生きられる世界。ーー素敵でしょう?それなのに、この世界は……間違っている」
「貴方のいない世界なんて、私にとっては太陽の無い暗闇のようなものです。間違いはいち早く正さねば」
「何だってしてみせます。鬼のいない平和な世界の為に。……そうお伝えしたことを、貴方は覚えておりますでしょうか」

覚えているよ。
君との事は全部。
忘れる訳が無い。

「本当は……今すぐにでも貴方を救って差し上げたい。だけど、貴方があまりに遠くへ行ってしまって、どんなに必死になって手を伸ばしても、届きそうにないので」
「気付いてないフリは、もうやめます」
「私は、私にしか出来ないことをします」

彼女は歩む。未来へと進む。
過去となった自分は共には行けず、同じ時間軸に留まるしかない。
視覚の遮断された暗闇の中、感覚が制限され、向き合うことの出来た感情がある。
連れて行って欲しい。
置いていかないで欲しい。
だが、その願いは聞き入れられず、分かたれた二人の道が交わることはないだろう。

優しいけれど、それは確かな拒絶だった。

許されなくては、杏寿郎は何も出来ない。
置き去りにされた存在はいつしか掠れ、夢のように覚束無いものとして扱われる。
嫌だ。そんなことは耐えられない。
名前。君にだけは忘れられたくない。
彼女の幸福を願えば願う程、それは己を押し殺すことなのだと痛感する。
今の自分は彼女に何も与えられず、むしろ奪うことしか出来ない、実際誰よりも苦しんでいるのは自分なのに、その苦痛ですら愛おしい。
痛みは、生者の特権だ。そう思っていた。
そんなことはないと身を以て知る。
知りたくはなかった。こんなこと。
改めて己の死という事実に思い至り、素直な感情が溢れ出す。
悲しい。悔しい。辛い。惨い。やるせない。
安らかな死はもうすぐそこにある。
手を伸ばせば届く距離だ。
そうすれば、煉獄杏寿郎という存在は無に帰す代わり、何も感じなくなる。楽になれる。

ーー楽になりたいのか?
ーー……違う。そうじゃないだろう。

つまるところ、杏寿郎の言動全ての動機付けはたったひとつに集約される。
苗字名前を愛しているから。
この気持ちは、誰にも、何にも、彼自身でさえどうすることも出来ないのだ。
何が正しいのか分からない。
何が間違っているのか分からない。
唯一、確かだと言えるのは、彼女への揺るぎなき愛だけ。

死の瞬間を思い起こし、今でも、あの一瞬の出来事への後悔に襲われることがある。
あの時どうすれば良かったのか、その答えは見る者によってかたちを変える。
全てがそうだ。
幸福論さえも。
炎柱・煉獄杏寿郎にとっての幸福とは、言わずもがな鬼殺隊の勝利。
鬼との永き闘いに終止符を打ち、鬼のいない平和な世が訪れることを願う。
煉獄家長男・煉獄杏寿郎にとっての幸福とは、尊敬する父や愛する弟が幸せで在ること。
あわよくば歩み寄って欲しい。
父には、昔のような熱き心をどうか取り戻して欲しいと願う。
弟には、自己嫌悪などせず自分に出来ることを励んで欲しいと願う。

そして、何者でもない、只の煉獄杏寿郎にとっての幸福とは、即ちーー



「行こう」

杏寿郎は歩む。名前を救う為に。
彼女が在る場所ならば何処へでも行こう。
杏寿郎が身を翻すと、そのすぐ背後から順に世界が音を立てて砕け散った。
本当は手放したくない、だけど、手放さなくてはならない夢の世界が終わろうとしている。
過去を越え、今を駆け抜け、向かう先には無限の未来が広がっていた。




11 / 表紙
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