the cake is a Lie | ナノ
11. 無意味

昨夜、夜神月と共に彼の自宅へ入った弥海砂。
その存在に第二のキラの匂いを感じた竜崎は、模木さんに早朝連絡をもらってから尾行対象を彼女へ変更するよう命じていた。
一方、竜崎の命令を同様に受けたワタリは今弥海砂の自宅に侵入し、部屋内に化粧品や洋服の繊維などを採取している。
それをすぐさま第二のキラの荷物から採取できたものと照合し、一致すればすぐに尾行中の模木さんへ連絡。
そして模木さんは連絡を受け次第、目的を「弥海砂の尾行」から「第二のキラ確保」に切り替え、合流した私と共に彼女を拘束する。
以上が竜崎の思い描いた計画だ。

いつまでも感傷になんか浸っている場合ではない。
私は無意味な悲壮感をなんとか振り払い、竜崎の背中を見送ってすぐ車を走らせた。
教えてもらったスタジオ近くに丁度停車したところで模木さんから連絡が入り、

「ワタリから一致したとの報告が来ました。早速確保に移ろうと思ったのですが…近くのコンビニで降りて何か買い物しているかと思ったら、マネージャーの目を盗んでコンビニから抜け出していってしまって…」
「えっ…。それで弥海砂はどこへ向かったんですか」
「まっすぐ東大の敷地内へ入っていきました。もしかしたら、月くんに会いに行ったのかもしれません。ずっとひとけの多いところを歩いているので、現時点では確保できそうにないです」

イヤホン越しに困惑するその声を聞き、恐怖した。

第二のキラとしての可能性が高い弥海砂が、夜神月が会おうとしている。
しかも今そこには竜崎もいるはずだ。
三人が顔を合わせてしまったら。夜神月が弥海砂に竜崎の正体をばらしてしまったら。

竜崎の身に迫る危険を悟ってしまえば居ても経っても居られず、私の身体は自ずと彼の元へ駆け出しそうになる。
しかし私が今独断で勝手な行動をとることはリスクが大きい。
夜神月や弥海砂に彼女を第二のキラとして拘束しようとしてることに気づかれてしまったら、今までの努力が全て水の泡だ。
弥海砂に逃げられるだけならまだいい。
下手をすれば竜崎のみならず、周りの無関係な学生らが多数殺されてしまう大惨事になりかねない。
私に命じられているのは模木さんと共に弥海砂を拘束することだけ。
竜崎の命を救うためだと言っても勝手な判断は許されないのだ。

私は震える手でドアハンドルに手をかけながらも、必死で己を押さえつけ、ただ模木さんからの連絡を待った。
それしか出来なかった。
今私が成すべきことは、模木さんがよりスムーズに弥海砂を捕らえられるようにサポートすること。
荒波のように襲いかかる恐怖の中、私は必死に自分にそう言い聞かせて静かに待つしかなかった。

東大前に車を移動させてしばらく後──「弥海砂が夜神月・竜崎と別れ、マネージャーと共にスタジオへ移動しようとしている」と連絡が来た。
車を後にした私は急いで示されたルートへ向かい、ターゲットに見つかることなく目視できる丁度いい物陰を陣取る。
遠目から初めて目にするターゲット、第二のキラ容疑者の弥海砂。
ほっそり小柄のとても可愛らしい女性で、所属事務所の宣材写真よりもいくらか幼く純真な雰囲気を漂わせている。
あんな少女にも見える女性が、第二のキラとして人を殺めていたのかと思うととても信じられないが、今は余計なことを考えている場合ではない。
私は模木さんとイヤホンマイク越しに示し合わせ、弥海砂がマネージャーを残しトイレに向かったところで行動を開始した。

何喰わぬ顔で自然に彼女を追って女子トイレに入り、そして個室に入ろうとしたその瞬間に後ろから抱きつくように目と口を抑え込む。
突然の出来事に弥海砂の身体が驚愕したように戦慄き、抵抗しようと目いっぱいの力でもがくが、私はそれを必死で押さえつける。
弥海砂の頭部を引き寄せようとした拍子に彼女は大きく頭を後ろに倒し、私の口元が強打された。
歯と唇に走る激痛に声も出せずに悶絶しながらも、華奢な身体を離すまいと力を込める。
バランスを崩し、個室を隔てる薄い壁に二人の身体が激しく打ち付けられ大きな音がなってしまったが、もはやそんなこと構っていられない。
兎にも角にも弥海砂の拘束を成功させなくては──その思いで頭がいっぱいだった。

しかし──。
マネージャーの対処を終え合流した模木さんが「第二のキラ容疑でお前を連行する」と宣言した途端、弥海砂はぴたりと抵抗をやめてしまった。
先刻まであんなに力いっぱい抵抗に努めていた身体から、まるで諦観にのまれたかのように力が抜けていく。
私は依然として彼女を押さえつけながらもその様に動揺するが、今こそチャンスだと模木さんと協力し彼女に手錠とアイマスクをかけたのだった。

いつまでも女子トイレなんかでもみ合っていては明らかに不審だと、私達は抵抗しない弥海砂をつれて早々にこの場から立ち去った。
ひと目を避けつつ移動し、そう遠くない場所に停めていた車に弥海砂と模木さんを乗せ、私は焦る気持ちのまま性急に携帯を開いた。
切れた唇から伝う血を乱暴に指先で拭いながらも、切実な願いを込めて呼び出し音を聞き続ける。
そして「はい」と、昔からよく知るあの声が聞こえる。

「香澄です。無事、弥海砂を拘束することができました」
「そうですか、やりましたね」

──ああ竜崎。生きている。
普段どおりの飄々とした竜崎の声がスピーカーから聞けたことに、私がどれだけ大きな安堵を覚えたか。
夜神月と弥海砂、三人での対面を果たしてしまった竜崎はいつ殺されても可笑しくない状況だったはずだ。
何か一つ間違えれば、行動が遅れれば、呆気なく死んでいたかもしれない。
それでも竜崎がこうして無事生き延びてくれて、私達は第二のキラ容疑者を捕らえることができた。
その得も言われぬほどの喜びに私は目に涙を浮かべ、彼への報告を続けたのだった。








私は竜崎との通話を終えた後、続けてワタリにも報告の電話を入れた。
ワタリは弥海砂を監禁する場所として、都内に地下室付き一軒家を既に用意していると言う。
依然として抵抗もせず大人しいままの弥海砂を連れて指定された建物に向かい、そして何事もなく彼女を拘束器具に縛り付けることに成功した。

拘束ベルトを装着していく最中でさえ、弥海砂は微塵も抵抗せず何も語らぬままだった。
トイレで後ろから押さえつけられた時は痴漢や強姦魔とでも思ったのかさすがに抵抗をみせたが、私達が第二のキラを追う人間と知ってからは打って変わって大人しい。
これでは己が第二のキラであると言っているようなもの。
確かに第二のキラからの荷の付着物と弥海砂の部屋から採取されたものは一致した。
しかし目の前で痛々しく身体の自由と視界を奪われた華奢な身体を見ていると、彼女がキラとして人を殺め続けたなんてあまりにも信じがたいのだ。

私は隣室のモニターを通してその悲壮感孕む姿を苦しい思いで眺めながらも、竜崎の通信にじいと耳を済ませた。

「香澄さんは良い警官・悪い警官を知っていますか」
「…尋問方法のことでしょうか」
「正解です」

対象者に粗暴で攻撃的な態度をとる悪い警官役と、対象者に優しく接し庇護・共感する良い警官役。
その二役でアプローチを取り、ターゲットに良い警官役へと信頼感を抱かせるように仕向け、自然な流れで口を割らせる。
尋問のみならずビジネスの世界などでも幅広くよく使われる心理学的戦術のことである。

「今後はワタリと共にそちらで弥海砂の世話と尋問にあたってください。ワタリには威圧的に理不尽なやり方で、場合によっては薬物の使用も視野にいれて彼女が自供するよう働きかけさせます。香澄さんは精神的負荷のかかった状態の弥海砂を優しく介抱して信頼関係を結べるように努めてください」

威圧的。理不尽。薬物の使用。
容赦ない言葉の羅列とこれからそれらに晒されるであろう弥海砂のことを思うと、思わず顔をしかめてしまう。
しかしこれはキラ事件を終結させるための大きな第一歩である。
竜崎や日本警察が背負う尊い正義のためにも、命令通りに任務を遂行したい。
私はこれからの任務の困難さを思い緊張に苛まれながらも、何とか毅然と装い承知の意をマイクに放った。










それからの日々はただただ重苦しく惨いものだった。
やはり彼女は全く口を割らず、キラの正体を聞いても殺しの方法を聞いても沈黙を守るばかりだった。

威圧的な言葉で脅しても何の反応も示さない弥海砂に、ワタリは竜崎の宣言どおりに自白剤の投与を決めた。
チオペンタールナトリウムと書かれた麻酔薬の瓶と注射器を用意しながらも、ひどい緊張のままワタリを見る。
いつもの穏やかな雰囲気は存在しない、ただ冷淡な目つきでゴム手袋を装着するその姿に、私は自分が投与されるわけでもないのに背筋が凍るような恐怖を覚えた。

手の甲に針を突き刺され、彼女の身体が竦む瞬間。
そして成分が効き始めたのかぐったりと脱力した瞬間。

私は良い警官役の自分が今ここに同席していることを悟らぬよう気配を消しながらも、息を呑んで彼女を見守る。
パルスメーターの無機質な音が響く中、ワタリは淡々と弥海砂に尋問を行うが、それでもやはり彼女は何も喋らない。
失禁してしまうほどに全身に麻酔薬が回って力が入らないはずなのに、己を制御するかのように唇を強く噛み、必死に情報を吐かぬよう耐えて───。
結局何も語らぬまま、弥海砂はかくんと眠りに落ちてしまった。
私は辛そうな表情のまま眠っているその姿を痛々しく思いながらも、汚れてしまった服や床を掃除するしかなかった。






──彼女がついに口を開いたのは監禁四日目。
ワタリと交代し隣の部屋で仮眠をとっていたところ、彼が騒がしくしている気配を感じて飛び起きた。
慌てて監視部屋へ飛び込めば、ワタリが竜崎に通信を入れる中、モニターの向こうで弥海砂が弱々しく声を発していた。

「殺して」

戦慄に心臓を刺されるような衝撃。
彼女の乾ききった唇から次々と溢れ落ちていく、死を願う破滅の言葉の数々。

拘束されてから数日間、食事どころか水すらも拒絶し、ただただ必死に堪えていた彼女がついに語るその姿の何と残酷なことか。
私よりも幼い、まだ二十歳にもなっていない弥海砂に、何もかもを奪われて拘束されるこの状況はあまりにも酷だった。
誰が見たってわかる、もう彼女は限界なのだ。

こんな惨い状況、私だって耐えられる自信がない。
それでもこうして口を割らずに、ただ死を願うその信念は一体何なのだろう──。
私は戦慄にすくみ上がりながらも必死に脳を働かせ、そしてはたを思い至った。
第二のキラのビデオに滲んでいた、あの拙くも純粋な恋心。

ああそうか──弥海砂はキラへの愛を全うするために尋問に耐え、死のうとしているんだ。

こんなに儚い姿になっても強い意志を曲げず、自分の命をかけて恋心を貫こうとしている弥海砂が、ただただもの悲しい。
彼女はほぼ間違いなく第二のキラであり、キラ事件にあたる捜査員として過度な同情をしてはいけないと分かっている。
それでも食事の用意をし、清拭を行い、排泄の世話をし、そして心開いてくれるように当たり障りない話題で語りかける日々の中、私は弥海砂に特別な情を抱かずには居られなかった。

「今死んでも幸せ。若くてキレイなうちに…殺して」

己の耳を塞いでしまいたいほどの悲痛な言葉に、強く握っていた私の手に更に力がこもる。
この過酷な状況を作り出した私やワタリ、竜崎。そして彼女自身。
私は胸を痛めながらも確実に目を見開き、捜査員としての責任をもって弥海砂の悲哀に満ち満ちた姿を目に焼き付けた。








弥海砂がいくら死を願おうとも、私達は彼女を殺してやることなんてできない。
これからも彼女が自供しない限り延々とこの悲痛な尋問を続けていかなくてはならないのか──そう危惧する私だったが、その恐れは外れる結果となる。

舌を噛んで自殺しかねない状況にワタリが口にタオルを噛ませてしばらくした後、弥海砂は突然電池が切れたかのように気絶してしまった。
心配しつつも見守り続けそして数時間後、目を覚ました弥海砂は人が変わったようにぺらぺらとお喋りを始めたのだ。

先刻までの悲痛な雰囲気はすっかり消え去り、どこか気の抜けた諭すような口調でスピーカー越しの竜崎の質問に答えている。
しかしその返答はあまりにも不自然で、捕らえた私達のことをストーカーだと思い込み、自分がアイドルだから拉致されたのだあっけらかんに語った。
更に、あれだけ黙秘していた夜神月との交際をあっさりと認め、強い口調で責められれば簡単に感情的に泣き出す。

一体彼女の中で何が起こったのだろう。
あまりの彼女の変わりように、この場にいる私たちのみならず竜崎までもが困惑しているようだった。

とぼけているのか?いや、こんなの演技にしては白々しすぎる。
彼女だってとぼけるならもっと自然にとぼけるはずだ。
それならあまりの極限状態に精神が壊れ、記憶錯誤のようなものを起こしたのか。

私はワタリと二人監視部屋で顔を見合わせ、全く予想していなかった展開に首をかしげるしかなかった。














「海砂ちゃんは月くんのことが好きなの?」
「当たり前じゃん…。この質問何回するの?」
「なんで彼のことが好きなの?どんなところが好き?」
「かっこよくてー、頭が良くてー、優しくてー…。んー全部好き!」
「それはつまり…月くんがキラだから、何もかも全部ひっくるめて好きってこと?」
「またそれ?キラは関係ないって言ってるでしょー…!ミサはキラとかそんなの関係なしに純粋に月のことが好きなの」

それからというもの、私は竜崎に命令されたとおり毎日弥海砂と交流を深め、キラに関連した情報について探りをいれているのだが、何度聞いてもうんざりした様子に適当なこと言われるだけである。
何を話していても全く手がかりを掴むことが出来ない、無意味とも思えるような日々が続いた。
あのまま悲痛に沈黙を守られるのも見ていて辛かっただろうが、苦労の末に何とか掴んだキラへの手がかりを失ってしまった喪失感はあまりにも大きかった。

竜崎からの報告によると、弥海砂の様子が変わったのと同時期に夜神月が「僕がキラかもしれないから監禁してほしい」と捜査本部やってきたらしい。
竜崎はその頼みを受け入れ夜神月を牢に入れ、そして「息子可愛さに何をしでかすか分からない」と切羽詰まっていた夜神局長も監禁した。

キラの可能性が一番高い夜神月を捕らえ、キラによる裁きが途絶えた。
これで夜神月=キラが確定したかと思いきや、なんと数日後何事もなかったかのように裁きが再開された。
つまり夜神月はキラではなかったということだ。
その事実に日本警察の皆は喜んでいたが、竜崎はやはり釈然としない様子である。

そんな竜崎の困惑を知る私は自ずと焦燥感にかられてしまう。
少しでも手がかりが欲しくて弥海砂の観察に集中する日々を送るのだが、得られるものは何一つとしてない。


毎日薄暗い地下室で仮眠を取り、食事や衛生の世話を続け、会話をきっかけに何とか糸口を探ろうとするも徒労に終わり、そして己の身体のケアもまともにできず一日を終える。
ワタリは夜神月と局長の世話のため、彼らを監禁する牢があるまた別の建物に活動の場を移している。
弥海砂を威圧的に尋問してみるため度々こちらにも来るが、基本的には全て私一人でこの状況を切り盛りしなくてはならない。
身体的にも精神的にも確実に疲労が蓄積していった。

もちろん疲弊していくのは私だけではない。
弥海砂も様子が変わったばかりの頃は戯けたように話す余裕もあったが、長く続く監禁生活に今では心身ともにすっかり消耗した様子だった。
度々体勢は変えているものの、ずっと手足をしばられたままだ、大分筋肉や体力も落ちたはず。
身体に力をいれる元気すらなくなり、ぐったりとしたまま「月に会いたい」と繰り返すその様は酷く気の毒である。
そんな彼女に日々明るく励ましの言葉をかけ続けていた私だったが、次第に精神的に沈むようになり、そしてついに体調を崩してしまった。


月のものが来ず、胃の調子がおかしい。食欲も失せている。
一応念の為妊娠検査薬を使用してみると結果は陰性だったのでそこについてはひとまず一安心だが、数日経っても一向に体調は良くならなかった。
しかし、いくら体調が悪くても休むわけにはいかない。
私は自分の体調不良を誰にも報告しないつもりで黙々と毎日の監視作業をしていたのだが、ある時、胃のむかつきに襲われてトイレでえずいているところをついにワタリに見つかってしまった。

「香澄さん、いつから具合が良くないのですか」
「…四日前くらいから、ですかね…」
「思い当たる節は?」
「ないです。ただ睡眠不足なのと精神的に疲れちゃっただけです。ご心配おかけしてすみません…」

用意してもらった胃腸薬を飲みながらも適当に苦笑いでやり過ごそうとするも、ワタリは依然として眉根を寄せたまま心配の眼差しを向け続けている。
「夜神月たちの世話には模木さんを派遣しますから、こちらは私に任せて睡眠をとりなさい」と言われたのだが、睡眠不足のくせに妙に頭が冴えていて眠れそうにない。
そう返事をしてみれば次は「では太陽の光を浴びて少し散歩してみたらどうですか」と言われてしまい、私はあれよあれよという間に地下室から追い出されたのだった。

弥海砂を大学で捕獲したのが、5月の終わり。
あれから一ヶ月以上経過し、今はもう7月である。
こんなに長期間あの地下室に閉じこもっていれば体調を崩すのも当然だろうが、しかし自由に動ける私よりも遥かに過酷な状況下にある弥海砂は、疲労はしているものの特別体調に変化はない。
己の軟弱さを実感し呆れながらも、いつの間に随分強くなってる日差しに目を細めてため息をついた。

胃のむかつきは収まったものの、今までずっと地下室に引きこもっていた身体に日本の夏の蒸し暑さは酷であった。
まとわりつくような湿気に身体はだるく、帰ってしまおうかとも一瞬考える。
しかし、折角のワタリの厚意を無下にはしたくないし、太陽を浴びて身体を動かすことの重要性もよく知っている。
私は身体の負担にならない程度にゆっくりと一歩踏み出し、あてもなくアスファルトの道を辿ってみた。
都内と言えどもここは住宅地で、昼間は騒がしくもなく穏やかな雰囲気である。
まさかご近所さん達も近隣の家の地下で女性が監禁されているとは夢にも思っていないだろうな──そう思うといやに罪悪感を覚えてしまい、私は顔をしかめながらも適当に歩みを進めた。

予想通り、弱った身体で屋外を散歩するのは疲労が大きかった。
数十分ゆっくり歩いただけというのに足の筋肉が痛み、息も軽く上がっている。
少し休憩しようと思い至り、私は近くにあった公園へと入り、ちょうど日陰になっているブランコに腰掛けた。

子供たちが幼稚園や学校に通う時間だからなのか、誰も居らず寂しげな雰囲気を漂わせる公園で一人ぽつんと佇む。
きぃ、と錆びついたブランコの音。蝉の鳴き声。
肌で感じる蒸し暑さも、耳で受け取る音の全ても、どこか懐かしく感じてしまう。
ああそうだ。まだ孤児院に入る前、日本で父と母と仲睦まじく暮らしていたころ。
両親に見守られながらも、夏の暑さに負けず公園で元気に遊んでいたんだっけな。

まだ無邪気でこれから自分の人生に起こる苦難も知らなかったかつての日を思い出してしまい、遣る瀬無さに目を伏せていると──。

ぴぴぴぴ。

突然響く着信音と、ポケットの中身の振動に肩を跳ね上げるほど驚く。
携帯に電話がかかってきたことに一瞬遅れて気づき、慌ててポケットから出してみれば、ディスプレイに表示されている「竜崎」の文字。
ただでさえ驚いて鼓動が早いと言うのに、その人物の名を目にした瞬間さらに心臓は早鐘を打つ。
私は胸を鎮めるように大きく一つ深呼吸した後、携帯を開き意を決して通話ボタンを押した。

「もしもし香澄です」
「ああ、香澄さん。今、どうしていますか」

竜崎から電話が来るのは大抵仕事を任される時だ。
何か不測の事態でも起きたのではないかと焦る気持ちがふつふつ湧き、私は早口に言葉を紡ぐ。

「あの、今ワタリの厚意で気晴らしに散歩中で…。公園で休憩中ですが、すぐ戻れます。何かあったんでしょうか?」
「いえ、別に何もありません。ワタリから香澄さんの体調が良くないと報告を受けたので電話してみました」

何か事件があったわけではないというのは一安心だが、竜崎に体調不良を知られてしまった事実に頭を抱える。
弥海砂を唯一世話できる女性捜査員の体調不良とあらばワタリが報告するのも当然ではあるのだが、できることなら知られたくなかった。
体調管理もまともにできない人間だと呆れられてしまったのではないか。
そんな恐れを抱きつつも、どう答えようかと冴えない頭で思案する。

「すいません、体調管理を怠りました。でも少し胃の調子が良くないだけで、酷く体調を崩したわけではないので…任務は続けられます」

恐る恐るそう答えてみたのだが、それっきり竜崎からの返事がない。
こんなふうに不自然に沈黙を作るなんて滅多に無い竜崎のその様子に、私は困惑して携帯を握りしめる。
少しした後、いやに長く思える沈黙を破ってようやく聞こえた竜崎の声は、先刻のものよりも訝しげなものだった。

「…変なことを聞きますが、毎月の月経は来ていますか?もしかして香澄さん、」
「あ、いいえ!大丈夫です!一応検査してみて陰性でしたから、それについては安心してください」

なるほどわざわざ電話して確かめたかったのはこのことか、と合点がいく。
もう四ヶ月近くも前の話になるが私と性交渉をもった竜崎は今回の体調不良の話を聞き、妊娠してしまったのではないかと心配していたのだろう。
あの晩私達はコンドームを使用したが、避妊法としては絶対に確実なものではない。
キラ事件の捜査で大忙しの最中、恋人でもない一夜限りの女性が妊娠でもしてしまったらさすがの竜崎も困るはずだ。
私は彼の台詞を遮るように大慌てで否定し、気まずさに苦笑いを浮かべた。

「そうでしたか。その可能性はないんですね」
「…はい」
「では、体調を崩すほど身体や精神に多大な苦痛を感じている…ということで合っていますか」

妊娠しているか否か聞けたのだからもう電話は終わりだろうと思っていたので、まだまだ会話を続ける様子の竜崎に面食らう。
竜崎の問いに答えるのならば「はい」だが、それを認めてしまうと己の弱さを認めてしまうようで怖い。
まともに任務も遂行できず体調を崩してしまう脆い人間だと知られてしまえば、せっかく働きを認められるようになったのに呆気なく幻滅されてしまうかもしれない。
そう考えてしまい、何も答えられずに困惑していると、カチャンとスピーカーの向こうでカップか何かが置かれるような音が聞こえた。

「…香澄さんに負担をかけ続けてしまってすみません」

思ってもみなかった、竜崎の謝罪の言葉。
先刻までの声よりも密やかなそれが鼓膜へと届き、私は思わず息を呑む。

「ずっと気がかりではあったんです。一般社会で普通に暮らす香澄さんを強引に私の下に置いて、無理な仕事を任せ続けた。唯一の女性捜査員として頼りっきりにしてしまった自覚はありましたが、人手不足であなたを頼る以外に手段を選べなかった。香澄さんが体調を崩したのは、上司である私の責任だと思っています。すみませんでした」

あまりにも畏まったその物言いに、私は思わず動揺してしまう。
今まで共に捜査にあたる日々、いや、孤児院時代でさえもこんなに丁寧に謝罪されたことなんてない。
上司として部下のマネジメントに問題があったことを丁重に詫びたい、ということなのだろうが、想定外の竜崎の態度に私は尚一層の罪悪感を感じて慌てて口を開いた。

「そ、そんな!謝らないでください!確かに強引ではありましたけど竜崎は強要したわけじゃないですし。私も無理なら無理と言えばいいのに、後先考えず何でも引き受けちゃいましたから…」
「…私の頼み事を断れない香澄さんの性分は昔からよく知っています。私はそれを知っていても尚、捜査のためにあなたを働かせ続けました。どうも私は香澄さんの厚意に甘え続けてしまう癖があるようで…幼い頃にワタリに注意されたこともあるんですよ、あまり彼女にわがままを言い過ぎないように、と」
「え、ワタリがですか…?」
「はい。ワタリも香澄さんのことを気にかけていますから。先程あなたのことを連絡してきたときも随分心配した様子でした」

幼い頃のこと。ワタリのこと。
私の全く知らなかったことを次々に聞かされて、何だか気恥ずかしくなってしまい赤面する。
竜崎とワタリが孤児院時代にそんなやりとりをしていたなんて思ってもみなかった。
彼はいつも穏やかに微笑み続け紳士的だが、あまり自分のことを語りたがらずどんな考えをもっているのか分からない謎めいた人なので、私のことをそこまで気にかけていたとは驚きである。
心配してもらえたことにありがたさを感じつつも、ワタリに注意される幼少期のエルの姿を想像してみればなんだか滑稽で思わず笑ってしまう。

「あ、香澄さん今笑いましたね?何を想像したんですか」
「いえ、すみません。気にしないでくださいっ」

スピーカーから聞こえる竜崎の声がどこか拗ねるような雰囲気を滲ませているので、余計に面白くなってしまう。
浮かれた気分を振り払うように大げさに一つ咳払いをしていると、いつの間にか不快な蒸し暑さも忘れて竜崎との会話に集中している自分に気づいた。
先刻までの陰鬱な胸もどこか軽くなり、久方ぶりに自然な笑みを作ることもできた。

私は長い間弥海砂の監視作業にあたっていたが、それは竜崎も同じである。
彼だって睡眠もまともにとらず、毎日黙々と夜神月を監視を続けているのだろう。
そんな忙しい彼の突然の電話──私が妊娠したか否かを確認したかっただけと思っていたが、違う。
わざわざ私を心配してくれて、電話をかけてきてくれたんだ。
丁寧に謝罪の言葉も伝えたり、戯けたような素振りをしてみたり。
彼にこんなにも気にかけてもらえた事実に気づき、私はどうしようもない嬉しさを感じてしまう。
上司として部下のメンタルにも注意を払うのは当然のことなのかもしれないが、それでも私は喜びを禁じ得なかった。

高揚した気分に背中を押され、地面に足をつけたまま少しブランコを揺らしてみる。
頬をかすめる風の心地よさに睫毛を震わせていると、竜崎の穏やかな声が聞こえる。

「ブランコですか?音が聞こえます」
「はい、ベンチは全部日があたってて、日陰で座れそうなところはここしかなかったんです…すごく久しぶりに乗りました」
「そうですか、私は結構好きでたまに乗りますよ。気晴らしに散歩に出る時、ブランコに揺れて色々考えごとをするんです」
「…あの、やっぱりブランコに座るときも、あの座り方なんですか」
「当たり前じゃないですか。普通の座り方なんてしていたら窮屈で気晴らしになりません」
「……本当、器用というか…」

こんな風にくだらない話をしてくれるのも、私を気遣ってのことに違いない。
その厚意が確実にもたらしてくれる温かみを胸の内で感じながらも、ブランコの鎖を握りしめて顔を伏せた。
本当はいつまでもこのままとりとめもなく談笑していたいが、しかし竜崎に甘え続けるわけにはいかない。
忙しい彼を早く開放してあげなくてはと、一抹の寂しさを感じながらも微笑みながら言葉を紡ぐ。

「あの、ありがとうございます。わざわざ心配いただけて、こんな風にお話する機会も作っていただけて、とても有り難いです。竜崎と話してたら少し気分も晴れました」
「それは良かったです」

そんな竜崎の声のあとに聞こえる、ボリボリと何かを咀嚼する音。
硬めのクッキーでも食べているのだろうかと想像し、相変わらずな竜崎の様子にどこか安堵を覚えた。

「私も竜崎やワタリのように感情を抑えて淡々と仕事できるように、少しずつ頑張っていこうと思います」
「…何を言ってるんですか。また無茶をする気ですか?何年もこんな仕事を続けて経験豊富な私達と香澄さんが同じ風に動けるわけないでしょう」
「……そうでした…」
「香澄さん、あなたは女性ということもあって、私やワタリに比べて対象の感情に共感しやすい性分です。弥海砂の置かれている状況と彼女の心情に過剰に入れ込みすぎて今のようにストレスを感じているのだと思いますが、共感しやすいというのは強みでもあります。現に弥海砂はあなた相手には頻繁に話しかけ、比較的信頼を置いているようです。だから香澄さんは香澄さんのできることをやれば良い。また何か辛いことがあったら私でもワタリでも、周りを頼ってください」


淡々とそう語る竜崎の声がとても優しげに聞こえてしまうのは、そうであってほしいという私の願望に過ぎないのかもしれない。
そうだと分かっていても私は震えるような感情の昂りをこらえ切れず、汗ばんだ手でぎゅっと携帯を握りしめる。
彼にこんなにも温かい労りの言葉をかけられ──私は今この瞬間、竜崎に会いたいと思ってしまった。

もう一ヶ月以上前に車で大学に送り届けて以来、彼とは会っていない。
度々通信をつなぎ言葉を交わしていたが、話題は全てキラ事件に関わることのみで事務的な会話ばかりだった。
弥海砂を監禁してからは目が回るほど忙しかったので、彼と会えないことを苦に思うことなんてなかった。
それが今、携帯越しに声を聞き、くだらない会話を交えつつも丁寧に労わってもらえて嬉しいと思ってしまった。
もちろんそれが上司が部下を気遣う行動に過ぎないことは理解している。
そう。ちゃんと理解しているはずなのに、この刹那こんなにも胸をときめかせて竜崎に会いたいと、その顔を見たいと心の底から願ってしまって──。

ああ──こんなにも竜崎に恋い焦がれてしまうなんて間違いない。
私はやっぱり未だに竜崎のことが、エルのことが好きなのだ。

竜崎に働きと努力を認められて、恋する気持ちを清算できたとばかり思っていた。
初恋の終わりとして十分幸せな結末を迎えることができたと信じていた。
しかし、彼と出会ってから十数年以上積もりに積もったこの思いはあまりにも大きかった。
それを捨てるなんて、はなから到底無理だったのである。
もう恋なんてしていないと自分の心から目を背け、強がっていただけに過ぎない。
きっと私は彼とともに居る限り、どんなに振り払おうともあがこうとも、この恋慕の気持ちから逃れることはできないのだ。


(エル、エル…あなたのことが好き、大好き…)


一度そう自覚してしまえば、堰を切ったかように彼への想いが心に満ち満ちていく。
心臓をきゅっと握りしめられたような感覚に慌てて手を胸に当てるが、電話越しに聞こえるお菓子を食べる音ににすらときめいてしまい、私は甘い切なさに目を伏せるしかなかった。

「香澄さん?」と訝しげに私の名を呼ぶ声。
何も言葉を発さずに沈黙している私を不審に思っているのだろう。
気を抜いてしまえば、このときめきに背中を押されて「好き」と口を滑らせてしまいそうで、恐怖に身体を竦ませる。
駄目だ。報われることなんてないこんな無意味な気持ちは、絶対に隠さないと。
何度も何度も自分にそう諭し、鼻で大きく深呼吸を繰り返して何とか自制心を手繰り寄せ、ようやく私は口を開くことができた。

「ありがとうございます。まずは体調を戻して、それから無理のない範囲で捜査のお役に立てるように頑張ります」

うっすらと作り笑いに口角を上げて、できる限り感情を込めないように淡々と当たり障りのないことを言う。
それが今の私がすべき行動なのだと己に言い聞かせ、そして適当に締めの挨拶をして性急に電話を切ったのだった。



何事もなく通話を終えることができた安堵と今もなおとめどなく溢れ続ける恋心に呑まれたまま、携帯を握る手を力なく膝の上に落とす。
体中が痺れるほど甘くて苦しい思い。
その遣る瀬無さにうんざりして呆れるように空を仰ぐと、ブランコがまた音を立てて少しばかり揺れた。

遠くの蝉の鳴き声を聞きながら目の当たりにする入道雲。
その夏空の美しさに私は今この瞬間ようやく気づき、途方も無い切なさに唇を噛み締めた。