the cake is a Lie | ナノ
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -
10. 無力

──犯罪者をより多く報道すること。
──軽犯罪でも人を傷つけたり弱者への虐待をしたのものはできる限り取り上げること。

キラからのテープに記録されてた要求はいくつかあるが、その中でも特に私を恐怖させたのは「警察庁長官かLの命を差し出せ」という言葉だった。

長官かLをテレビに出演させ、キラに逆らった者の末路として見せしめに殺す。
偽物を出せば、世界中の警察幹部の命を代償として奪う。
だから決して嘘は付かず本物を出演させろ。

それがキラが私達に突きつける望みなのだ。

竜崎の判断によりこのビデオはさくらTVで放映され、さらにはアメリカを始め先進各国のニュースで大々的に取り上げられ、世界中の人間がキラの要求を知ることとなった。
世間の皆はこれを見てどう思うのか。
どちらの人間の命を差し出すべきだと思うのか。
いや、そんなこと考えるまでもない。
私達捜査本部の人間はともかく、それ以外の無関係な人間はほぼ皆、警察庁長官よりもLの命を差し出すべきと思うはずだ。

そして無情にも予想通り、各国首脳の話し合いにより長官ではなくLを生贄にすることが、私たちの知らぬところで勝手に決まってしまった。

「キラを捕まえると挑発したのは私ですから。正しい判断です」

そう話す竜崎は、いつもと変わらない飄々とした態度のまま呑気にショートケーキを食べている。
竜崎のことだから呑気な風に見えても何かしら策は考えているのだろう。
それでもその策が成功しなければ、三日後にはテレビに出演し、世界中の好奇の目に晒される中殺されなければならない。
なんて惨く残酷な現実。

竜崎も皆も毅然とした態度でいる中、私は一人取り乱すわけにもいかずに冷静を装う。
しかし竜崎を失うかもしれないことを考えると、本当は今にも恐怖に飲まれ叫び声をあげてしまいそうだった。
そんな私の恐れも露知らず、呑気な竜崎によって着々と消えていくショートケーキ。
それを眺めているだけで私は苦悶に苛まれ、ひどい耳鳴りに胸がかきむしられるような心地がする。

手を伸ばせば触れられるほどに近くにあるこの背中が消えてしまう。
もう十年以上ずっと恋い焦がれていた人間を、儚くも失ってしまう。

いよいよ目前に迫ったその可能性に泣き出しそうになる。
だがしかし、どんなに考えあぐねてみてもこの私にできることはなにもない。
無力な自分を恥じて拳を握りしめながらも、今はただ大人しく竜崎の推理に耳を傾け、淡々と命令を実行するしかないのである。



その後、竜崎は第二のキラの存在を示し、その正体の手がかりを掴むため夜神月を捜査本部に呼びたいと皆に語った。
夜神局長が早速彼を電話で呼び出し、到着を待つ間、私は竜崎に無人の別室へと連れていかれた。

「これから夜神月がここにやってきて香澄さんは彼に顔を晒すことになるわけですが、大丈夫ですか?」
「…大丈夫かだなんて今更聞かれても…私は竜崎の命令に従うまでです」
「いえ、今まで散々香澄さんをこき使ってきましたが、さすがにキラの可能性が一番あり得る人間の前に姿を晒すのは危険です。今回は念の為聞いておこうかと」

誰もいない二人っきりの部屋の中で竜崎の無機質な声がよく響く。
一見すると私のことを案じているかのような物言いだが、その裏に見え隠れする竜崎の意図を察知して私は彼を睨んだ。

「もしも私が嫌だといったら?」
「そうですね…、ワタリと役を交代してもらいます」

ワタリは夜神月が捜査本部にいる間は身を隠し、パソコン越しに存在するもう一人のLとして振る舞うことになっている。
指を咥えながら宙を見つめてそう言う竜崎に、私はやはりと確信した。

「私にワタリの役は出来ません。私にはもう一人のLとして振る舞う能力はない。ワタリのほうが遥かに賢くて機転が利いて、夜神月を欺くには適任です。それに私とワタリ、危険に晒されるならどちらがマシかと言ったら、当然私です。私の命はワタリの命よりも軽い。竜崎に何かあったとしてもワタリだけは今後の捜査のために生き延びなくてはならないでしょう。夜神月の前に顔を晒す役は私にやらせてください」

竜崎は私のことを試しているのだ。
この問答を通して、私とワタリどちらの命が重要なのか───私がそれをはっきり理解しているのか確認したいに違いない。
そう理解した私は求められているであろう答えを告げ、鋭く彼を見据えつつも悲しく微笑んだ。

「では、お願いします」

私と視線も合わせぬまま、当然のように呆気なく頷く竜崎。
その普段どおりの姿に私は、いけないとわかっていても一抹の悲しみを感じてしまう。
例えば「あなたを危険に晒したくない」とか「あなたの命だけは守りたい」とか、そんな甘く優しい言葉をあり得ないとは分かっていても彼から聞いてみたかった。
幼馴染だろうが、肌を重ねてみようが、今の私は所詮捜査のためのただの駒に過ぎないのだ。
当然とでも言いたげな竜崎の毅然とした態度から、嫌でもそう思い知らされしまう。
私は悲哀のままに彼から目を逸らすしかなかった。



そんな遣る瀬無さに消沈しながらも私達は捜査本部へ戻り、そして夜神月との対面を果たした。
「はじめまして」の言葉と当たり障りない挨拶を向ければ、夜神月は親しげな笑みで丁寧に返事をしてくれる。
その様はどこからどう見たって非の打ち所がないただの好青年であった。
以前の監視の時もそんな感想を抱いたが、実物と対面してみると尚一層肌でそう感じてしまう。
しかしあの竜崎が疑っているのだから、キラである可能性は高い。
夜神局長には申し訳ないが、私はやはり竜崎の推理を信じたかった。
もしかしたら女性にだけ見せる態度もあるかもしれないし、そこから何かしらの糸口を掴むこともできるかもしれない。
これから夜神月と共に捜査に挑む中、可能な限り自然に親しくなって注意深く観察をしていかなければ。
私はそう決意し、穏やかに微笑む彼へ今一度丁寧に優しく笑顔を返した。







二日後、第二のキラからのメッセージが再び届いたことが模木さんにより確認された。
ワタリがパソコンに映像を流してくれるというので、皆で唾をのみながらモニターの前に集まる。
Lをテレビに出演させることはやめる、という旨のメッセージに大きな安堵を覚えながらも静かに竜崎の隣に控え、先日のビデオと比べて幾分幼い雰囲気を醸す内容に耳を傾けた。

「私はキラさんの言うとおりにします。私はキラさんに会いたい」

──言うとおりにする。
──会いたい。

その台詞はボイスチェンジャー越しの無機質な声のはずなのにあまりにも感情的で、何故か心のどこかに引っかかる。
この引っ掛かりがどうしても気になって頭の中で反芻しているうちに、私ははたと気づいた。
「恋」だ。
恋愛感情を抱く少女のような情緒が、この台詞にはにじみ出ているんだ。

鑑識によって判明した封筒に付着していた指紋は、小さいものだったという。
それが小柄な女性のものである可能性は竜崎も指摘していた。
他人の指紋をあえてつけたフェイクだということも考えられるだろう。
それでもこの映像を見ていると、第二のキラはまだ汚れを知らない純粋無垢な若い女性なのではないかという考えが私の中で大きくなっていく。
確証はない。ただの勘に過ぎないと言われればそれまでである。
だから他に何か、もっとこの映像から拾える確実な要素はないだろうか──。
眉根を寄せながら真剣に、じっと第二のキラの声を聞き続けた───その時。

「会った時はお互いの死神を見せ合えば確認できます」

死神?と突然のオカルトな単語の登場に疑問符を浮かべていると、隣で竜崎の影がうごめく。
どうしたんだろうとそちらを向くよりも早く、そのまま竜崎は大きな音を立て椅子から転がり落ちたのだ。

「り、竜崎!?どうしたんですかっ!?」

寝るときだってあの座り方のまま器用に椅子の上で睡眠をとる竜崎が、椅子から転落するところなんて見たことがない。
もしや心臓麻痺──キラの手によって倒れたのではないか。
背筋が凍るような心地で慌ててしゃがみ込み、竜崎の顔を覗きこむ。

「死神…そんなものの存在を認めろとでも言うのか…」

苦痛もなさそうにはっきりと話すその様子に、キラにやられた訳では無さそうだと私はひとまず胸を撫で下ろす。
しかし、大きく持ち上げられた上まぶた。恐怖するかのように震える瞳。
その顔は今まで見たことがないほどにありありと驚愕の色をにじませていて──。
竜崎の酷く困惑するその姿に、私は彼がただならぬ可能性を悟ってしまったことを察した。

「大丈夫ですか」と声をかけ背中に手を添えるが、竜崎の目は何かを考えるように宙を見つめたままだ。
床に手を付いて自力で立ち上がろうとしていることに一安心し、竜崎の邪魔にならぬよう努めながら横倒しになってしまった椅子を元に戻した。




ビデオの再生を終えると、すぐさま「死神」という言葉が何を指しているのか皆で議論が交わされた。
そんな非科学的なものが存在するはずないが、しかし12月にキラが受刑者に書かせた文章にも「死神」の単語はあった。
ならば「死神」とはキラの殺しの能力を差す共通の単語なのではないか──。
月くんのその意見に頷いた竜崎は、このビデオを今夜放映することを決め、今後キラと第二のキラがどんな行動を取るのかより注意深く検閲するなどして調査していくことを語った。

「第二のキラの『キラに会いたい』という強い思いを利用していきましょう」
「強い思い…」
「どうしましたか、香澄さん」

私の小さなつぶやきに気づいた竜崎がこちらを見る。
先刻ひっくり返るほどの驚きに飲まれた影など微塵も見えない、平常通りの態度に戻っていた彼を見据えながら、遠慮がちに口を開く。

「…あくまでも私の勝手な感想ですが、何だか第二のキラの物言いがとても…少女的というか、キラに恋するかのような拙い心酔の雰囲気を感じて…」
「キラに恋、ですか」

ずっと頭の中で考えていた可能性だが、こうして口に出してみると「キラに恋する」なんてあまりにも馬鹿馬鹿しい。
しかし竜崎は私の感想を含むように繰り返し声に出し、何か考えるように目を伏せた。
そんな竜崎を傍目に、相澤さんが何か気づいたようにこちらへ身を乗り出す。

「キラへの崇拝が行き過ぎた奴らだ。畏敬の念をこじらせて、キラを好きだとか愛しているだとか甘ったるい言葉で賛美する。そんな書き込みを、ネットの掲示板で何回か見たことがある。その手の書き込みは、比較的若い女性があつまるようなサイトに多い」
「つまり、キラにぞっこんの若い女性が第二のキラってことっスか?そうなると厄介ですね、相手にぞっこんな女の人って、中には下僕みたいに何でも献身的に尽くしちゃう人いるじゃないですか。尽くす女性は幸せになれないのに」

一見無意味でどこか呑気な松田さんの最後の台詞に、私は思わず息を呑む。
何だか他人事とは思えないような気がしてしまい心かき乱されるが、今は自分の感情に振り回されている場合ではない。
私は邪念を振り払うようにひとつ咳払いし、会議の内容へと慌てて意識を戻すのだった。











それから約二週間。
第二のキラから謎の日記が届き、その内容を鑑みた竜崎の判断で、私は渋谷でアルバイトをする北村家次女を再度尾行し、時には接触してみたりもした。
しかし普段の彼女に不審な様子はなく、竜崎が警戒するように言った「22日の青山」「24日の渋谷」もやはり何も起こらず、拍子抜けしたまま5月25日を迎えた。

皆で捜査本部に集まり、両日ともに何も起こらなかったことを報告し合う中。
ワタリからの連絡により、また第二のキラからビデオが届いたことを知る。
早速内容を確認してみれば、なんと「キラを見つけた」とのことだ。

竜崎は22日の青山関連の映像を全てチェックしたいと言い、私達に青山路上や各施設の監視カメラのビデオを用意させた。
それからは「全部自分でチェックする」との宣言通り、彼はずっとモニターの前で確認作業に集中し続けた。

もう丸一日以上睡眠も取らずに、トイレ以外は椅子から動くこともなくただひたすらにモニターを見ている。
こんな時に私が竜崎にしてあげられることと言えば、決して切らさぬよう飲み物と甘味を補充することだけだ。
まるでロボットのように黙々と映像を確認し続けるその姿を遠くから眺める。
恐ろしい勢いで次々と消費されるお菓子やケーキ、砂糖たっぷりの紅茶。
私はそれらを逐一チェック・補充し、竜崎の邪魔にならぬよう静かにホテルコンシェルジュへ連絡を取っては新たなスイーツの注文の手配を繰り返していくのだった。






そして最後のビデオが届いたのは、5月27日のこと。

竜崎はこのビデオから、キラと第二のキラが接触してしまったことを私達に知らせた。
人前に顔を晒すのが怖いからまた姿を隠そうか、などとどこか弱気なことを言う竜崎の背中が普段よりも小さく見えて、私はおどろおどろしい恐怖に足を竦ませる。
Lのテレビ出演を阻止できて竜崎の命は救われたと安堵していたのに、再び忍び寄ってくる残酷な死の影。
その厭わしさにひとり打ち震えながら夜を明かし、そして翌朝早く、月くんを尾行していた模木さんから連絡を受け取った。
竜崎に携帯を渡し、静かに通話が終わるのを待つ。

「夜神月と交際する女性達の一人に、弥海砂というモデルがいるそうです。昨晩夜神さん宅近くのコンビニ前で接触し、そして家に二人へ行ったと…。香澄さん、第二のキラの荷物から採取したものを今すぐ全てこちらへ。それとワタリに連絡をつないでください、弥海砂の自宅を調査させます」

急いで竜崎の指示通りにワタリに連絡を取り、丁重に保管されていた採取物をテーブルに並べていく。
それを一つ一つつまみ上げながら確認する竜崎。
仮眠を終え合流した日本警察の皆と、固唾をのみながら見守っていると──。

「夜神さん、近日中に私が死んだら息子さんがキラです」

飄々とした物言いでそう語る竜崎の声なんて、もう聞きたくなかった。
自分が死ぬ可能性に気づいているその姿はいつもどおりに冷静沈着で、彼の置かれている状況とあまりにも不釣り合いで痛々しくて仕方がなかったのだ。

頭のいい彼のことだ、死を確実に回避する何かしらの手段は持っているのではないか。
いや、心労に倒れたばかりの夜神局長に包み隠さずこう伝えるということは、やはり回避しきれそうにないことを覚悟しているからではないか。

すぐそこまで迫っている竜崎の死に怯える。
いつだって私にできることは何もないない無力さに今一度打ちひしがれ、悔しさに強く唇をかみしめていると、唐突に名前を呼ばれた。
顔を上げてみれば、竜崎はぴょんとソファから飛び降り、覗き込むように私を上目遣いで見ている。

「香澄さん、行きたいところがあるので、車を出してくれませんか」

と───。













「本当に東応大学へ行って、月くんの前に姿を現していいんですか」
「はい。今私が取るべき行動はそれですから」

不快な緊張にずっと早いままの鼓動。
ハンドルを握る手は鬱陶しく汗ばみ続けている。
しかし私は身体の反応は隠せずとも何とか平常心を保ち、車を走らせていくしかない。
遣る瀬無さに苛まれながらも後部座席をバックミラー越しに見てみれば、竜崎は何かを考えるように窓の外をぼんやりと眺めて爪を噛んでいた。

キラと第二のキラが接触し、近日中に死ぬかもしれないというこの状況の中、人の多い大学へと赴き月くんの前に姿を晒そうなんて、とても正気には思えない。
もちろん常人が計り知れる正気では「影のトップ」とまで言われるLの存在なんて務まらないのだろうが、それでもこんな危険な時にあえて死に急ぐような真似をするなんて、あまりにも無謀である。

私は竜崎が死んでしまうかもしれないと考えると怖くて怖くて仕方がなかった。
例えキラ逮捕の可能性から遠ざかる結果になったって、今は安全な場所で身を隠していてほしい。
死ぬ可能性が少しでも減る行動をとってほしい。
そう縋るように心から願っても──私に彼を止める術はなかった。
知り合いの命の無事を願うだなんて当たり前の感情を抱くことすらも、今はもどかしくて苦しいだけだった。

これは凡庸な私よりも遥かに賢い竜崎の脳みそで下された判断、善良の選択なのだ。
そして私は竜崎にとってただの部下に過ぎない。
身の程知らずにも私情に走った行動をとれば、竜崎に幻滅されるのがオチである。
今の私にできることと言えば、彼を危険な場所へと送り出すためにアクセルを踏む、ただそれだけ──。


これ以上竜崎になんて語りかければ良いかも分からず、悲哀のままに口を噤んだ。
車のエンジンの音だけが響く空間の中、どこか気まずい思いをしながらも運転を続ける。
赤信号に停止し、一向に引かない掌の汗の不愉快さに手を揉みあわせていると、突然竜崎の私を呼ぶ声が聞こえた。

「…どうしましたか?」
「ずっと聞いてみたかったんですが、」

何事かと目を上に向ければ、印象的なまん丸の瞳とバックミラー越しに視線が絡み合う。
その輝きのない漆黒の目は、私の胸の内の全てを暴こうとしているかのようにひたむきで、まっすぐで──。

「あの夜のこと、後悔してますか」

みぞおちを打たれるかのような感覚に息が止まる。
ずっと早いままだった鼓動は更に速度を増し、もはや胸の中で暴れ蠢いているかのような状態だった。
予想外の問いかけに私はこんなにも動揺しているというのに、ミラーに映る竜崎は表情ひとつ変えずに呑気に人差し指を咥えている。

あの夜──どの夜かと聞き返すまでもない、竜崎と肌を重ねたあの一夜のことだ。
竜崎が東大に入学する前のことだから、もう二ヶ月も前のことになる。
今まで竜崎は一度だってこの話題を口にすることはなかったし、それどころかあの日の出来事なんて全くなかったかのように飄々と振る舞い続けていた。
私がそうしたいように、竜崎もあの夜のことは無かったことにしたいのだと、そう思っていた。
それが突然、このタイミングで「後悔してますか」だなんて聞く意味。
私は彼の心中がこれっぽっちも分からずに、ただ動揺するしかなかった。

後悔しているかどうかと問われれば当然、後悔している。
この二ヶ月、北村一家の尾行や第二のキラの調査が忙しく感傷に浸っている暇はなかったが、それでも竜崎と共に居ればふとした瞬間にあのセックスが脳裏をよぎった。
彼のお菓子を食べる口元、携帯電話をつまむ指先、近くを通った時に香る彼独特の甘い匂い──なんの前触れもなくそれらを意識してしまい、その度に辛く切ない気持ちになった。
捜査においてこんな感情は邪魔なだけだ。
あの日竜崎と身体を繋げなければ、私はもっと集中してキラ事件に挑めただろうに。
そう思うと、あのセックスの記憶は厭わしいだけなのだ。


私は答えるべきか少し悩んだ後、恐る恐る小さく頷いた。
赤信号は青に色を変え、私は釈然としない気持ちのままハンドルを握り直す。
竜崎からミラー越しの視線を逸し、そしてゆっくりと発進した。


「そうですか、実は私も後悔してます」

ああ、やはりそうではないか。
予想はしていたがやはり私と同様にあのセックスを厭わしく思っていることを本人から知らされてしまい、私は鉛のような悲しみに顔を歪める。

「あれから香澄さんと二人っきりになる度に、どうしてもあの淫靡な姿がちらついて…。うっかり気を抜くと勃起してしまいそうになるから、結構大変なんですよ」
「っ!?」

な、なななな、なんてことを…!!!

全く予想できなかった、ふざけるかのような間抜けなその台詞。
まさかこんなあけすけなことをこの場で、この状況で言われるとは微塵も思わず、私は顔を真赤にして瞠目する。
竜崎流の冗談なのか、あるいはからかって遊んでいるのか。
動揺にハンドル操作を誤らないように手に力を入れつつも、バックミラーをちらちらと確認してみれば、竜崎はどこか拗ねたように唇を突き出していた。

「香澄さんは思い出さないんですか?私と共に居て、あの夜のことを思い出して、こうムラっとしたりしません?」
「…」
「…」
「……しません。ていうか、こんなこと聞くなんてセクハラです、竜崎…」

こんなこと問われて正直に答えられるはずがない。
金魚のように口をぱくぱくさせて絶句していたというのに、竜崎があまりにも答えてほしそうに拗ねながら私を見つめているので、観念する。
咎めの言葉も忘れずに付け加えて返事をしてみれば、竜崎は珍しくフッと可笑しげに笑った。

「…最近、自分の命に危険が迫れば迫るほど、性欲が昂ぶるんです。捜査で忙しい中、不埒なことに現を抜かす暇なんてないことはよく分かっているのですが…種を残そうとする生き物の本能ですかね?死の匂いを感じて、自分で自分のことがコントロールし難くなってきている…」
「…死なんて、そんな…!」
「香澄さん、この前はデリカシーのないことを言って泣かせてしまってすみませんでした。あんなに嫌な思いをさせたにも関わらず、この二ヶ月間普通に接してくれたこと、とても感謝しています。もし許してくれるのであれば、あなたが嫌でなければ、また香澄さんを抱きたい。死なずに帰って来ることが出来たら、相手してやってください」

そう言う竜崎の口は弧を描いていたが、どこか淋しげな雰囲気を孕んでいるように見えてしまう。
不躾にもセックスの誘いをかけられているというのに、その姿があまりにも悲哀的で、私はときめくことも怒ることも出来ず口を閉じ合わせるしかない。

あの恐るべき精神力を持つ竜崎でも逃れられない、本能的な死の恐怖。
決して弱音を吐いたり辛い顔をしているわけではないが、それでもやはり言葉の端々に死から逃れたいという気持ちが見え隠れしていた。

しかし竜崎は逃げ出すなんて選択肢は選ばない。
己の生命すらも顧みずに、月くんの前へ姿を晒そうとしているのだ。


ああ。この人はその明晰な頭脳で死の可能性を確実に理解しながらも、自分の命さえ駒にしてキラ事件を解決させようとしている──。


その覚悟を今この瞬間肌で感じてしまって、私はぞくっと背筋が凍るような感覚にのまれた。
私や日本警察の皆だけを駒にして、自分だけ安全な場所に身を隠すなんてことは出来ない。
彼のその正義感が、あまりも沈痛で。物悲しくて。

私は熱くなる目頭を何とか抑え、彼の誘いに返事をしようと口を開きかける。

───しかし。
「香澄さん、そこ左折ですよ」という竜崎の素っ頓狂な声。

その指摘に返事どころではなくなり慌てて道を確認する。
竜崎との会話に気を取られて道を間違えかけた自分を恥じつつ、後方を確認しなんとか左折に間に合えば、そこはもう目的地近くだった。

「…ではもう着きますから、香澄さん、私を下ろしたら模木さんと合流して、その後は先程伝えたとおりに行動お願いします」

無事路肩に停車すれば、竜崎は私を見ることなくそう言い残して、早々と車から降りていった。
バタンとドアの閉まる音が、いやに鼓膜を震わせる。
誘いの返事も言えず、それどころか「お気をつけて」などと気の利いた言葉も言えず、私は一人無様にも車内に残されてしまった。

助手席の窓ガラスの向こうで東大へと着実に向かっていくその背中。
もしかしたらこれが最後になってしまうのではないか、そんな嫌な予感がして助手席に身を乗り出すが、しかし彼を呼び止めるなんて許されない。

(竜崎……エル。どうか、絶対に…無事で居て)

エルが死んでしまうなんて絶対にいや。
私はまた彼に会いたい。
あの癖のある声で「香澄さん」と、いや「香乃子」と呼ばれたい。
共にケーキを食べたり取り留めもない会話を交わしたりしたいし、そしてまた──触れてほしい。
だからどうか、どうか、彼が無事でありますように。

遠く小さくなったその背中に悲痛な思いで祈り、そして私の成すべきことをやろうと覚悟を決め、携帯電話を握りしめる。


「もしもし…模木さん。香澄です。今どちらですか」
「今国道254号線、茗荷谷駅近くを走行中です。弥海砂はこれから東大近くのスタジオで撮影のようで」
「わかりました。私も今竜崎を送り終わって近くに居ます。予定通り合流しましょう」